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佐藤正尚 南礀中題

論壇の記録(1)

Twitterは、les chroniques(時評)だとか、les échos(読者投稿欄)みたいなもので、つまり時評の宝庫だから、時々話題になったもの、今の言葉でいうと「炎上」したものについて記録を残しておきたい。

7月7日に東浩紀がTwitterのアカウントを削除した。詳細は配信を見ていないので確認していないものの、シラスの経営や広報としての役割を鑑みたものなのだろうと想像する。経営者と批評家・評論家・思想家を両立させるのは大変むずかしい。シラスは子会社に過ぎず、経営方針も慎重な合議のうえで運営されている珍しい会社なのだが、一般的なベンチャーのワンマン的なイメージをそのまま重ねられている不幸もあり、苦労していたようだ。両立の苦心は察するにあまりある。

8日に首相が銃撃されると、右翼・保守は安倍晋三派の人間は統一教会擁護にまわり、左翼・リベラルは統一教会による自民党支配という陰謀論に走っていた。普通に考えて、大規模政治団体で宗教法人とつながりがないところはないはずなのだが、自民党は宗教から自由であるという極端な潔白か、自民党は宗教に洗脳されているという陰謀論の2つしかないようだ。もちろん実態は信じられないくらいいい加減なものだろう。

ハレーションとして、東浩紀が例によって話題の中心となった。9日のニコ生選挙特番で福島瑞穂の統一教会への言及について、東浩紀が銃撃犯と統一教会と結びつけた性急な発言、というものがリベラル陣営の顰蹙をかっていた。私が驚いたのは、翌日時点の警察リークという不確かな情報しかない中で、統一教会について政治家が常に論点であったかのような言及をした点だった。これまでの参院選で統一教会が話題になっていたのからまだしも、事件後にネットメディアを中心とした盛り上がりの中でしか言及されていなかった宗教団体なのに、ニコ生がネットメディアということもあってか、当然のようにその名前を挙げたことだった。当時の雰囲気や発言のタイミングを考えると、私も事件と銃撃を結びつけた発言にしか思えなかった。しかし、数日経ってからテレビでも話題になり、既成事実となってから突然東浩紀がやり玉に挙げられた。その契機は、非公式の書き起こしだった。

一般的に会話というのは文字に書き起こしたときには極めて不自然なやりとりのように見えるので、対談記事は読み物として編集されるわけだ。今回は、会話の非公式な書き起こしだけ見て東の「要約がおかしい」とか「知的な衰え」とか言ってしまう人をたくさん見た。私からすると安直だし恥ずかしいことだと思う。

また、一政治家が事件と宗教団体を結びつけたとき、カルト信者に対する救済の前に必ず攻撃が起きることぐらい容易に想像できるだろう。統一教会がカルト的な集団であることは否定することはかなり難しいものの、信者をカルトから脱会させたあとの保障を提供できる用意があってのうえで議論している人はどれくらいいるのだろうか。脱会後に精神的な苦しみに絶え間なく襲われるかもしれない。カルト信者は数字ではなく、人間なのだ。

とはいえ、そもそもかつてあった理想的な論壇とは、のちの人間が文脈を再編集して自分の立場に都合のいいように創造されたものでしかなく、どの時代の論壇でも互いの話をある程度聞いてやる立場を保つのはとても難しい。大学人は態度を硬直化しても仕事を失わないし、言論だけで食べている人は集客の問題から態度を硬直化させないと仕事が減るからだ。

その後、noteで東浩紀からの説明記事がでたものの、もはや熱した鉄床を冷ますには叶わなかった。「統一教会はカルトです」という代わりに、「統一教会をカルトと判断する立場にない」という、「判断する立場にない」なる一般的なただの言い回しが、無責任かつ無知蒙昧、統一教会の手先の証とされる根拠になっている。そもそも、研究書を読んでも、問題のある宗教法人なのは間違いないとして、それがカルトの定義にあてはまるかも、まだ研究として定義されていないのであり、研究の業績を尊重するのであれば、この言い回しはごくごく穏当なものだろう。

こうしたことをふまえると、誰もが自分が理解できるような書き方しかされていない文章しか読めなくなっているし、みんな不気味なほどに東浩紀が嫌いなのだと感じた。彼は公的なメディアでの連載もほとんど持たないし、テレビにも出ていないし、ラジオにも出ていない。配信も自分のプラットフォームでしかしていない。どう考えても既存の論壇での力も大きくはないのに、これほど攻撃される意味が私の世代にはまるでわからない。

なお、noteの記事での東の解釈が意味不明、ということを言っている人がたくさんいる。しかし、書き起こし三文目に相当している箇所での福島議員の発言は「現在はまだ詳細がわかっておりませんが、統一教会との関係などとも」とあり、この関係を銃撃との因果「関係」と理解して議員の発言を読み直すと、東のような解釈も当然導ける。たんに、自分たちが読みたい文脈でしか解釈していないから東の解釈が理解できないだけだろうし、繰り返すがそもそも口頭でのやりとりは互いの文脈を完全に理解して話しているかのような対談記事ではない。ふだんから人文知に接している人々の多くがこの差を無視して単に玩具のようにひとりの知識人を馬鹿にしたような態度をしているのをみて失望が激しい。さらには、独立不羈の極めて真っ当なビジネスを維持し、できる範囲で事業を拡大している彼の所属する会社とその代表に対してまで波及する目に余る攻撃を見るにつけて、陰鬱な感じが拭えない。

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毘沙門天に児玉あり

見つけたので。神楽坂にて。

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ゲハルト・ヒリター展感想

2022年6月25日にゲハルト・リヒター展に行った。

リヒターはコレクション展で見たことがあったかもしれないが、視覚効果を重視した作品が並んでいると壮観だった。スキージはドリッピングなどの技法の更新というより、描くことと画面を削ることを同時に起こすような、劣化の技法である点が興味ぶかい。とにかく技術力が高い。

ビルケナウはなかなか興味深いアプローチだったが、最後に展示されていた90年から00年にかけてのプリントされたフィルムに絵の具をぬっていた作品と同じで、覚えられなさについての考古学を表現していた。

ところで、東京都近代美術館の常設展は本当にレベルが高い。とくに福田美蘭の作品をたぶん初めて本物をみて本当に感心した。ユーモアとアイロニーが見事に合わさっていたし、オリジナリティや同一性が何によって構成されているのかについての真摯な問いにもなっていた。

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2022年6月30日

サイゼの冷製パスタが美味かった。

冷製パスタ
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2022年5月19日

信じられないくらいなんでも話題になる。今回は大塚英志の書評がSNSで物議。https://www.news-postseven.com/archives/20220513_1752431.html?DETAIL

誰とは言わないが、アカデミズムとサブカルチャーの学際性批判に肯定している人もいる。一方で、読まなくても書ける感想文でしかなく本についての吟味になっていない、女性が著者だからぞんざいな扱いをしているだけだろうといったような否定の意見もでている。

肯定派については、この太古の昔から繰り返されてきた同時代証人の登場と、証言と記録の真正性をめぐる問いなしで肯定していて大丈夫ですかと思う。否定派については、学会の雑誌に載るような査読に近い書評をただの広告記事に求める点にただただ驚く。実際、書評のおかげで慶應義塾大学出版会のこの本を知った人も多いだろう。なお、作者の性別については、筆者の大塚が気にしていたか怪しい、という論点もありえるだろう。

ただ、否定肯定以前に、大塚氏はそういう書き手だったという気もするが、みな全てを忘却しているのだろう。例えば,このツイートには驚いた。

https://twitter.com/lotzun_deupol/status/1526898797074599936?s=21&t=F8v_UvoLw9ewInvCHEc93w

ただ、大塚という書き手の評価を措いて、彼は今や大学人だ。大学人なのであれば、たんにご自分でインタビューアーカイブを作るのがいいのではないだろうか。デジタルヒューマニティーズの界隈では10年前からそういう試みがあるし、こういうことを言われてもいまの職業としては仕方があるまい。

シラスについて創業者の危惧を聞く。

シラスの今の雰囲気が、ゼロアカの反復なのは間違いない。ただし、あたりまえだが、シラスを聞いている側も、やっている側も、ゼロアカに比べて人生のさまざまな意味で老いてるし、なりよりも職業人が主体的に放送している点はまったく異なっているし、飲み会が付随的なことがわかっていないのは内部の人のうちのたぶん一部だろう。というか、シラスをやっている人も、エンカレッジされるのではなく、シラス以外でうまくいけば単にシラスを切ることも十分にありえるだろう。そういうものだし、それをどう防ぐかがサービス設計というわけだ。

私も個人的にゼロアカの人と一時的に付き合いがあったが、私があまりにも若かったというのもあるが、あの方たちは労働していてもしていなくても話はあまり楽しいものではなかったし、シラスで知り合った人たちのうち、かつてのハンドルネームで有名な人の意味のなさに比べればまったく質が異なると思うし、ジェンダーと世代のバランス感覚も多様なので、あれを本当にたんに一緒にするコメントをみて少しげんなりした。

いろいろ思うところがあるものの、いまの東浩紀は、同じことをやっていたとしても、ゼロアカの頃よりずっと信頼がもてる。いつか天才は来るのだろう。同じことは起きないだろう。

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2022年5月2日

学生証を更新した。働いて3年も経つが、新入生たちを見る気持ちが変わっていないので、学部生のある時期から大学に対しての価値観が決定的に変わってしまったのだろう。教育機関としての大学に私は馴染めていないのかもしれない。

論文は詰めの部分で呻吟していたが、すとんと落ちた。資料もあらかた出揃ったのでやっつけたい。フランス語レジュメ部分も見てもらう約束を取り付けたので一安心。

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2022年5月1日

急に漫画が読みたくなり、漫画喫茶に行った。前から少し気になっていたブルーピリオドを最新刊まで読んだ。ラカンもフロイトも読まなくていいと思ったが(ゴンブリッチは読んだ方がいい)、いろいろ考えさせられるいい漫画だった。

創作者が創作をテーマにするとだいたいモチーフが陳腐化する。クリエイターは偉大な哲学者ではなく、知性においては凡庸だからだ。しかし、陳腐さも青少年の成長の軸を複数用意して群像劇と成長譚を手堅く配置し、圧倒的なマンガのうまさでどんどん読ませるのには舌を巻いた。小説の参考にもなった。

ただ、帰りが3:00になってしまい、歩いて帰りながらハイボールを飲んだ。こういう時のハイボールはうまいのだが、今日の新宿の夜は寒い。帰ったら洗濯物を取り込まないといけない。

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2022年4月28日

弓指寛治のマジック・マンチュリア展に行く。

一周目で既に感銘を受けたが、二度目は運良く本人の解説があってそれを聞きながらもう一周した。

松下哲也はシラスのどこかで弓指寛治をして現代の歴史画家と評していたが、まさしく今回は歴史画の展覧会だった。

祖父が満蒙開拓青少年義勇軍で満州にいき、引き揚げの一人だったことを知った弓指の「マジック・マンチュリア」は『エヴァンゲリオン』のように十数年かけて完結するらしい(本人談)。戦争末期に満州に行き、線路を敷き、奇術を覚えて帰った男の孫。展覧会の傑作を飾る「鍬の戦士と鉄の巨人」の説得力はいや増して高まるというものだ。

爆破される張作霖の乗った列車
ヴァイオリンを弾く兵士
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2022年4月23日、24日

前の日、友人から電話がきて散歩帰りに一杯で済むはずもなく1リットルくらいビールを飲んで、しめにウィスキーを飲んだ。仕事のことで憂鬱になり、3時に就寝。

次の日、山下Topo洋平チャンネルオフ会に参加。懲りずにビールを飲んで体調を整え、大変愉快な時間を過ごす。チャランゴを生まれて初めて弾かせていただいた。真ん中の弦だけ、オクターブの違う弦が2本あり、興味深かった。久しぶりに純粋に、ギターが弾きたくなった。ケーナも会場にいた人に貸してもらって吹いたてみた。15分ほど努力を重ね、少し音が出た。面白い楽器だ。

しめやかに撤収作業が続く中、酔った勢いでRentのSeasons of LoveをiPhone で流すと、山下さんの興が乗り、一緒に歌うことになった。いい思い出。

帰りは、確かもうビールとワインをかなり飲んでいたので眠く、二次会会場で少し寝てから、復活。人生の諸事について話す。

何時かわからない時間に解散し、3次会にゲンロンカフェに向かうことに。SF講座の打ち上げをやっていたそうで、みな楽しくやっていた。毎年賞を獲る人は面白い作品を書くので今年も楽しみ。

7:00くらいに解散して、山手線をたぶん一週してしまった。王子駅で劇団普通の「秘密」千秋楽を見に行ったのだが、朝ご飯で食べたスタバのワッフルが完全に胃の中で処理できず、トイレに篭ったまま戦う羽目に。ひとしきり吐瀉したあと水で口を濯ぎ、トイレで顔を洗い、ミンティアで口臭をなんとして、途中から観劇。「秘密」のいいところは、1時間あとから見た時点でもおおよその話の内容を全て理解できる構成のシンプルさにもかかわらず、登場人物たちの日常の過剰なセリフの横溢があり、見るものを圧倒させるところだ。平田オリザ「東京ノート」的なところがありながら、その背後にはほんとうに日常しかない、つまり、真に日常的なことだけが危機的であるというリアリズムはとても好みだった。

電車の中ではひたすら吐き気をこらえつつ、帰り、家で突っ伏して寝続けた。

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2022年4月15日

気がつくとふたつき経っていた。サイトの整理をしていた。あと、研究でもだいぶ進捗があった。論文投稿できそうなのが信じられない。

いろいろなものを読んだ。

千葉雅也『現代思想入門』。戦後フランス哲学が日本では「現代思想」と呼ばれている。なお、これはある時期の知的潮流の名前でしかない。実際、デリダやフーコーを「現代思想家」などとは言わない。これは、何かの職業や技能ではないのだ。

そもそも、一般的には、「現代思想」で対象となっている哲学者たちの考えていることを「思想」とは言わないだろう。働いていると、思想とは、社訓のようなキーワードや標語が示す内容のことを意味する。あるいは、自社製品が他社製品と違って優位な点を示す時に使われる。本をよく読む人と、商売の道具としての思想の意味はこのように大きく異なる。

千葉は、この本の中でそうしたことを暗示しつつ、見事に知の巨人たちのエッセンスを結晶化させている。具体的には、箇条書きでそれぞれの思想家たちの戦略をまとめている点だ。ビジネス書では当たり前だが、こうした箇条書きはそもそも教育目的の人文思想の本ではもっとたくさん書かれるべきだったのに、せいぜい一部の哲学分野でしか使用されていない。箇条書きこそ一つの思想なのだから、今後はこういう書き手がいろいろな分野でもっと増えてほしいと思う。

『維摩経・勝鬘経』の新訳もとてもよかった。コラムで驚いた、というか、当たり前といえば当たり前なのだが、聚沫という言葉があるように、平安時代のうつりゆくものに「あはれ」を感じる感性は、仏教に由来するものなのだ。のちには、鴨長明が「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまりたるためしなし」と書きつけた。大乗仏教の力が最も強いアジアの小国の歴史を垣間見るのことのできる素晴らしい本だった。