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米原将磨

さやわか文化賞2023批評賞受賞にあたって

受賞への感謝と『批評なんて呼ばれて』について

批評家・物語評論家のさやわかさんによって、「さやわか文化賞」が創設され、「さやわか文化賞2023」の発表が、2023年8月2日(水)から2023年8月3日(木)にかけて配信された。配信の様子は以下で閲覧することができる(アカウント作成および購入が必要)。

ついに発表!「さやわか文化賞2023」!!!https://shirasu.io/t/someru/c/someru/p/20230802205243

応募総数は36件あり、全てに対して真摯な選評が開示されるという、おそらく日本では類を見ない賞となった。大賞は安川徳寛『もしかして、ヒューヒュー』(映画)、さやわか賞(副賞)は池田暁子『池田暁子の必要十分料理』(マンガ)だった。その他、ニーツオルグ賞・批評賞・物語賞・紙媒体賞・物理物件賞で、それぞれの受賞者がいた。

私はこの賞に楽曲(diontum名義 EP『酒と珈琲』」https://dinotum.bandcamp.com/album/–2)とそれについての批評、そして、『批評なんて呼ばれて』を応募した。そして、大変名誉なことに、『批評なんて呼ばれて』に対して、神山六人さんという、カルチャーお白洲では有名な大変素晴らしい書き手の方と並んで、批評賞を授けていただいた。お読みいただいた皆様、また、こうした場を授けていただいたさやわかさんに改めて感謝の気持ちを示したい。なお、現在、『批評なんて呼ばれて』は紙版が絶版のため、電子版を刊行したい。8月末までにはPDFの用意をし、間に合えばepubでも用意したい。普及版として紙版も刊行したいが、予算の都合もあり、いつになるかは不明だ。

受賞にあたっての選評と受賞の言葉

『批評なんて呼ばれて』に対するさやわかさんによる選評は次の通りだった。

これは、よくできた論考だと思います。造本もすこくいいです。いいんですが、非常に僕の立場からは賞賛しにくい本でもある。なせなら、これは僕のやった仕事について書かれているからですね。照れというのもあるし、これを褒めると自画自賛みたいになってもしまう。俺の言ったことがわかったんだなよしよしと偉そうに思っているようにも見えてしまう。だからなんだか褒めにくいんですが、そういうものを褒めないところが僕のよくないところだとメタレベルをひとつ上げた悩ましさも自覚しています。厳しい言い方かもしれませんが気になるのはこの本が対話形式になっていることについてで、そういう形式でやることをちょっとナルシスティックに思えてしまったのですが、先を読み進めるとそれについては作者自身が第二版のあとがきで言及していました。いわば作者は「恥ずかしいのはわかってる、わかってるんだ」と言い募っていらっしゃるわけです。ただ、作者がこの書き方を必要としたのも事実な訳で、それを乗り越えなけれは書き始めることができないことって、ありますよね。僕は老人なのでわかるのですが、特に若いうちは、あります。だから、これはある種のハッピーバーステーな一冊であり、そしてこの作者は(自身が書かれているとおり)ここから始まるのでしょう。そういう意味では、この次のものを確実に書くのがいいと思います。大事なのはこのあとがきをもひとつの自己愛に回収せず、書き続けることかなと思いました。次が楽しみです。

さやわかさんの番組視聴者の層はとても広く、カルチャーお白洲のおたよりの投稿は常にレベルが高く、商業デビューしている人々が当たり前のように視聴しているこの番組の文化賞はかなりレベルが高いことが想定されたので、正直なところ、『批評なんて呼ばれて』が受賞することは難しいと考えていた。また、拙著はある問題点を抱えていて、それも受賞をしない理由になるだろうと考えていた。

さやわかさんが指摘しているように、まずさやわかさん自身をかなり肯定的に書いてしまっている本であり、なにかの理論的な乗り越えをしようとはしていないので、さやわかさんにとって、この本を肯定的に論評する時点である種の自分褒めになってしまう側面がある点だ。次に、拙著は手紙という対話形式をとり、最終的に奇妙な和解をする二人を登場させることでナルシシズムの体裁をとっている点だ。しかし、「作者がこの書き方を必要としたのも事実な訳で、それを乗り越えなけれは書き始めることができないことって、ありますよね。僕は老人なのでわかるのですが、特に若いうちは、あります」と評していただいた通り、私にとっては、批評のリハビリをしていた執筆当時、自分で書いた文章をそのまま批判し、その批判にさらに応じていくといった書き方、つまりは自分自身につきあってあげる、という「自己愛」を通じてしか本の完成は叶わなかったのだ。2022年に『ユリイカ』の今井哲也特集(http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3741)には「世界はおもちゃ箱 今井哲也について」という批評を寄せたものの、私の中ではまだうまく批評を書くことができず、編集の方には大変な迷惑をかけてしまった。その中で平行して、毎月1万字近く書きながらお白洲のおたよりを書いていた。『批評なんて呼ばれて』の原型はそんなふうにして作られた。

2010年代後半に批評から撤退した時期がなければ、本来、こうした本は5、6年前に書いておくべきだったのだろう。しかしそれでも、選評で言われているように、この本がもしも若さを保っているなら、私がまだ20代の半ばだったときに書いておくべきだったことを、おそらく当時よりもうまく感情を操作することで、必要なことを的確に表現できていたとも思える。それはそれで、歳を重ねたのにも意味があったのかもしれない。とはいえ、この選評にもある通り、これは若書きであり、人生の中で1回しか放てない弾丸なのだ。しかし、出し惜しみする理由はない。「出し惜しまず溜めなし紡ぐたびクラシック」と、自分で「Водка」(https://dinotum.bandcamp.com/track/–3)に書きつけた通り、いまこの瞬間使えるものはすべて使いきるつもりだ。だからこそ、次の本を書かなければこの本に価値はほとんどないと言っていいだろうし、私は、66部が人々の手に渡っているなかで、その読者に対する責任を負っている。そして、次の本が最初の本の読み手から評価されたときに、この本はほんとうの意味で価値のあるものとなるだろう。

ところで、私はもう一つの責任を負っている。さやわか文化賞は今年から始まった。今回の大賞とさやわか賞(副賞)はいずれも商業作品で、選評を読んだ限り、実際に読み、あるいは鑑賞してはいないものの、時代的なコンテクストの中で戦略を練って作られた優れた作品だと思われる。また、大賞・さやわか賞に限らず、ニーツオルグ賞・批評賞・物語賞・紙媒体賞・物理物件賞の受賞者たちの作品はそれぞれ力作ぞろいだった。それが故に、それぞれ活動を継続して他の場所でも成果を出すことができなければ、さやわか文化賞自体が単なる内輪ネタで終わってしまうのだ。それは、ひとりの受賞者としてまったく本意ではない。内輪ネタに終わらないようにするためには、さやわか文化賞に応募したことによって発生する責任を引き受けるほかない。私にとってそれは、自己愛を脱する活動にほかならない。

結果として、『批評なんて呼ばれて』刊行以後、私は他の人を巻き込んだかたちでの活動を開始している。その一つが『闇の自己啓発』という書籍で有名な江永泉さんと月一度配信している「光の曠達」(https://youtube.com/playlist?list=PLqquazgWuPmZUDMr85Gfq_JoDhmzsmQKV)である。江永さんの活躍の場をつくることが目的だが、私と江永さんは意見がおおよそ異なっており、自己の対話とは違って甘えることはできないので、毎月研鑽している。また、2010年代同人誌批評シーンについて、当事者にインタビューするという企画を動かしている。第1回はすでに収録を終え、現在書き起こしをしているところだ。これとは別に、ある方の著作の準備の手伝いを始めている。この本は、サブカルチャー批評で外すことのできない本になるだろうという確信があるが、詳細はまた今度、公表したい。いずれにせよ、私はもう自分と話をすることをやめることができるようになった。そうして、私自身の著作として、『批評なんて呼ばれて』で予告した『Javascpritから遠く離れて』を書き始めている。この本は『批評なんて呼ばれて』で取り上げたさやわかさんの活動ではなく、そこで言及することを避けてしまった、さやわかさんの批評そのものと本格的に対決することになる。また、一時代を画した、私の人生で大きな影響を与えた人物について論じたい。その人は、東浩紀という。なので、仮題として以下を示す。『JavaScpritから遠く離れて――東浩紀について』。このままのタイトルになるか私にはまだ分からないが、おおよそこのタイトルのような本になるだろう。

以上をもって受賞の言葉に代えさせていただます。

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米原将磨

「カルチャーお白洲」お手紙回2022年11月(連載第4回)

さやわかさん、カルチャーお白州民のみなさま、こんかんるちゃ。でぃおんたむと申し上げます。

8月20日に開催されました「正々堂々秘密の大集会」にて、さやわかさんにお送りしたお手紙で連載の予告をいたしました。8月から10月にかけて3回の連載をさせていただきましたが、今回が最終回に……、なりませんでした。連載って怖いですね。もともとの3万字のお手紙は加筆修正を重ねてとっくに4万字近くに膨れあがり、分割して体裁を整え、それをおたよりにしています。

いまやこの「おたより連載」は、『新世紀エヴァンゲリオン』にたとえることができるかもしれません。今回はTV版最終回「世界の中心でアイを叫んだけもの」で、次回は劇場版「Air/まごころを君に」となります。などと、カッコをつけてたとえてみせたものの、自分で言っておいてなんですが、「その構成で大丈夫なの……、まさか「新劇場版」が始まってしまうの……、おたよりの連載に10年かけるなんて嫌だ……」、と不安になってきましたが、がんばります。

毎回長いお手紙のため、いつもどおり前回の振り返りをさせていただきます。

連載第1回では、webゲンロンで連載中の「愛について──符合の現代文化論」の要約をし、ゼロ年代批評で積み残された課題に取り組むさやわかさんの継続的な批評行為について、その文脈を明確にしました。連載第2回では、文学フリマとさやわかさんのことを知った頃のことをお話いたしました。2010年代初頭での文学フリマの様子について簡単にまとめて、その頃の批評シーンを四皇や七武海になぞらえて説明しました。ちなみに、さやわかさんは四皇でした。連載第3回では、私が東浩紀さんに話かけられてびくびくしたり、村上裕一さんの著作が批評シーンの外では、今やまったく読まれていないことを「閉鎖性」という観点でまとめて説明しました。全文はこちらでお読みいただけます。また、1回目と2回目はさかのぼって読むことができるので、リンク先にアクセスしていただけますと幸いです。

では、今回のお話にはいらせていただきます。以下、8447文字。さやわかさん、どうぞよろしくお願いいたします。

前回、私はゼロ年代の批評シーンの消滅について4つの観点から整理すると予告させていただきました。(1)「閉鎖性」を除く3つの論点は、(2)脆弱性・(3)依存性・(4)時代性でした。今回は(2)脆弱性についてお話させていただけますと幸いです。

(2)脆弱性

脆弱性については、「低い参入障壁」・「生計を立てる」・「個人」の3つについて、順にお話したいと思います。

「低い参入障壁」について考えるうえで、「ゼロアカ」という言葉についてまず振り返りたいと思います。この言葉が、脆弱性を説明するのにうってつけのためです。ゼロアカは「ゼロ年代のアカデミズム」という言葉を縮めたものとされていますが、東浩紀さんは、「アカデミズムを「ゼロ」にしてしまう、リセットしてしまう」(講談社BOX編、『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦』、2009年、543頁)、それが「ゼロアカ」だったと総括しました。東さんはそれまでの批評の価値観がゼロアカ道場の第4関門の中で瓦解していったことを説明するときにこの言葉を使うのですが、皮肉なことに私は「アカデミズムがゼロ」なのは、ある程度の価値があるものだと思っています。なぜかというと、後からやってくる世代からしてみると、それは参入障壁が低いことを意味するからです。

私はちょうどゼロアカ道場が終わった頃、高校生になったばかりでしたが、この時からゼロアカ道場とは関係なく批評っぽいことをしていました。とはいえ、そもそも高校生なんて無知が全裸に靴だけ履いて歩いているようなものなので、誰かがちゃんと服を着せてあげないといけません。当時は、参入障壁の低い同人誌にやってきたルーキーに対して、編集者が、「とりあえず全裸はだめだから布をかぶろう」、ということでちゃんと服を着せてくれました。それは素晴らしいことでした。しかし、当時をふりかえってみると、この参照障壁の低さは、かえって大きな弱点をかかえていました。流動性が高すぎて、自分の発言に責任を持つことがその構造上できないため、共同体としての結束やお互いの批評への参照関係が生まれず「最近本になった誰それの批評」についてばかり話している、脆弱な集団だったのです。

たとえば、編集がついてくれているのであれば、過激な言い回しや極度な内輪ネタといった点は直していただけます。外にだしても大丈夫な文章をつくるべく、責任をいっしょに負ってくれる、というわけです。加えて、論者どうしがお互いに書いたものについて感想を言い合える場をつくることで、徐々に自分の共同体の中での立ち位置と外に出ていくときのアイデンティティを確保していきます。2010年代にお世話になった編集の方は本当に偉大でした。今でも感謝しています。しかし、それが2010年代では、多くの場合に保たれていたとは言えませんでした。

ところで、一般的にいうと、このように集団内で配慮していくことができるのは、いい職場でも同じですよね。いい職場ほど職員どうしで会話しています。仕事をどうすればもっとうまく進められるか、段取りでミスがあれば相手を助けてあげて、自分も誰かに助けられる。外のお客さんとの打ち合わせの前に、何をどう話してどう話を進めていくか自分たちの情報を整理してどの立場で進めていくか決める。もしも、文化について語る批評という仕事をしている会社があるとすれば、きっとそんな職場になるでしょう。あれ……、身近なところでいうと、これって「ひらめき☆マンガ教室」ですよね。だから、「ひら☆マン」からは素晴らしいマンガ家が出てくるんだな、と実感を込めて私は言えます。というわけで由田果さん、『少年サンデー』での連載、あらためておめでとうございます!みなさん、『君と悪いことがしたい』、要チェックですぞ。

ところで、「ひら☆マン」の例を出したのは「脆弱ではない集団」を示すということ以外に、もう一つの理由があります。それは、「ゼロアカ道場」に由来するゼロ年代批評の性質を示す、大きな違いがあるからです。ゼロ年代批評は、最初はゼロ年代のアカデミズムをつくるべく大学とは違う批評の書き手を育てようとしました。しかし、回を重ねるごとに、「ゼロアカ道場」は、2010年代末からの、SNSのアテンションを集めたものが勝ちというゲームを先取りした姿になっていき、そこに参加していた人々自身が批評を続けることを困難にしました。確かに、「ゼロアカ道場」は文芸批評などといった既存のグループとは違う批評のクラスタをつくりあげるきっかけづくりにはなりました。しかし、継続するうえで重要な、目標を数値で管理するとか、どういうコアメンバーが必要で、何のためにやるのかとか、雑誌で連載を持ったあとの人脈紹介といったように、グループを存続するための考えは批評の書き手側にはないのでした。東さんの書いていた、「アカデミズムを「ゼロ」にしてしまう、リセットしてしまう」という嘆きにこめられていたことの意味は今から振り返るとこのことを指し示すことにもなっていたように見えます。一方で、「ひら☆マン」では、その逆がすべて用意されています。目標を数値で管理することで仕事量をコントロールする方法も伝授し、アシスタントを雇うことになった場合にはどういう組織構成が必要で、雑誌で連載につながるまでの人脈紹介まですべて用意されています。自分で書いていて思うのですが、すごいですね、「ひら☆マン」。

また、「ひら☆マン」は他の点でもゼロ年代批評の影響をうけたクラスタとはわかりやすい違いがあります。それは、ゼロ年代批評的なクラスタは、(1)閉鎖性で説明したような理由で、意図的ではないにせよ、あまり人を受け入れる雰囲気がないところが少々あった点です。これは、最初に説明したように、参入障壁が低いために、どんどんと新人が来るには来るのですが、閉鎖的な場に嫌気が差してどんどん出ていってしまうのです。すると、次第に流動性のない閉鎖的な場になってきます。

そして、閉鎖的な場というのは、自分たちがしていた本来の仕事を忘れて自分の立ち位置を確保しようと躍起になることがあります。ざっくりいって権力闘争というやつですね。権力闘争はやっている本人からしてみるととても真剣なので周囲もあまり注意できません。また、そもそもゼロ年代批評にコミットして何か利益があるというわけでもないので当然のことながら、関わるのも面倒くさくて人も離れていきます。見事な悪循環というわけです。もちろん、私にしても善人ではないので、この当時は閉鎖的な態度をとっていたかもしれません。このお手紙を書く中でいろいろ思い出しました。いまとなっては自分についても多くを反省しています。

さて、ここまでは「低い参入障壁」についてお話してきました。次に、「生計を立てること」についてお話しましょう。

言い換えると、経済的な理由で書き手がいなくなっていった、ということです。ゼロ年代批評やその後の2010年代批評シーンの蓋を開けてみると、10年代初頭にでてきた書き手は4年から6年の大学生活を経て就職すると書き手をやめてしまい、「低い参入障壁」ゆえの高い流動性のために、いなくなったあとにその場をうめる新人がおらず、10年代の折返し時点で「あれ、あなたずっといるよね」という人しかいないような状態になっていました。そして、その就職先も驚くべきことに、アカデミズムやアカデミズムに近い編集者への就職、というのが割とあったのです。ゼロ年代「以後」のアカデミズムという意味での「ゼロアカ」は確かに成立していたというわけだったのです。自分でそのことをちゃんと責任をもって引き受けてくれればいいのですが、ゼロアカの影響なしに自分が今のような仕事ができているかのように振る舞い、自分の中にあるはずの歴史的事実は記憶からなかったことになっているようです。

なお、「生計を立てる」ために働いていると、同人誌の編集者も、会社の中で役職が徐々にあがって中堅になり、書き手だけではなく、最初の頃と同等のクオリティで同人誌を続けていくことがだんだんと難しくなっていきました。だからこそ、集団体制をとって引き継いでもらうとか、どうすれば効率的に継続できるか、ということを考えるとよいのですが、それはあとからいくらでも言えてしまう話かもしれません。10年代中頃までは、いまみたいにSNSをベースとした有料メディアサービスがどんどんでてきて、ここまでメディアの中心になり、ましてやマネタイズできるとは予期できませんでしたし、予期できていたとしても、みんな自己犠牲と熱意で同人誌を作っていたので、継続のために投資をする時間もなかったでしょうから、あまり当時の人をせめることはできません。私はいまふつうに働きながら夜なべしておたよりを書き上げていますが(冗談ですよ!)、そんな中であんなクオリティの高い同人誌をお作りになっていた先人のみなさまには畏怖の念を抱くばかりです。とはいえ、事実として、書き手の確保も、発行元の確保も困難になっていき、それについて有効な解決策があまりなく、編集の外注、雑誌を薄く廉価なものにする、外部に査読者のような立場の人をおいて作成する委員会方式といった事務的な解決策以外はあまりなかったのでした。

ところで、これまで集団の性質の話ばかりしてきて、集団の構成員の話をしてきませんでした。実際のところ、批評クラスタを維持するうえでの、一番の脆弱性とは、この構成員、つまりは個人です。たとえ話をしましょう。それなりの規模の会社で働いている人はよくセキュリティ講習を受けると思うのですが、そこでは大抵の場合、個人のふとした行動がいかに会社の情報漏洩のリスクになるかを教わると思います。じっさい、クラウドサービスを利用したファイルシェアを採用していない会社はメールで添付ファイルを開かせ放題なので、マルウェア感染を防ぐことはきわめて難しいです。このように、組織のセキュリティリスク、すなわち脆弱性は個人です。より限定して言うと、脆弱性とは、心のことです。

これまで、当時、「ゼロアカ道場」からその10歳下までの範囲で批評をやっていた人々をルーキーとワンピースになぞらえて呼んできました。しかし、よく考えると、ワンピースのルーキーたちは海賊団を組むほどの組織力や人望をあの年齢でもっているわけですから、大したものです。四皇や七武海は確かな立場があったのに対して、ルーキーたち、は『ワンピース』に比べると極めて脆弱な人々でした。今回は、最後に、私にとって思い出深い人の話をしたいと思います。

90年代生まれで批評同人誌のリーダーになった方が何人かいました。例えば、私は、大学サークルに所属していたので、そのサークルの機関誌を批評同人誌化するといったことによって、批評同人誌を立ち上げるコスト、人件費を削減し、批評同人誌を発行していました。批評同人誌を継続するうえで、これら2つのコストは一番お金と時間がかかりますから、合理的な選択でした。なので、私は自分のことをルーキーとか言ってましたが、ワンピース的には、フーシャ村のマキノのような酒場の店主に近いといっていいでしょう。しかし、『アニメルカ』にはほぼ毎年関わっていたため、かろうじてルーキーの面目を保っていました。

とはいえ、そうしたコストを度外視する若いルーキーがいました。詳しいことは書かない、というか、書けないので少し曖昧にします。そのルーキーは2010年代初期に流行した「合法ハーブ」の使い手で、ある種の精神疾患を抱えていました。キャラクターでたとえると、MCU版スパイダーマンのM.J役で有名になったゼンデイヤが演じる、テレビドラマ『ユーフォリア』のルー・ベネットみたいな感じです。ちなみに、ルーの日本語声優は高垣彩陽です。というわけで、仮にこのルーキーの名前をルーとしましょう。なお、実際の性別についてはここでは触れないでおきます。

2013年の春先のことだったと思います。ルーキーで一番の実力者だったエヌ氏に私は声をかけられ、現在は書評家として有名な積読主義者が主催する読書会に誘われました。読んだ本はアラン・バディウの『ドゥルーズ 存在の喧騒』というささやかな哲学書でした。まだあまりコミュニケーションの適切なやり方をわかっていなかった私は、会場のカフェでとなりに座っていても、本人かどうか確認すればいいのに声をかけられず、「たぶんここにいる人がエヌ氏と積読主義者なんだけど、こっちから声かけるなんて無理」というわけで時間をすぎてもなかなか声をかけられずにいました。エヌ氏が時間になると、おもむろに本を取り出したのを見て、横からぬっと出ていき、「ドーモ」とニンジャスレイヤーの登場人物のように声をかけました。エヌ氏に、「え、そこにいたんだったら、先に言ってよ」と苦笑いされました。

読書会が少しずつ進んでいき、1時間した頃でしょうか。小休憩をとろうという時に、向こうから痩せこけた頬の人がやってきて、エヌ氏に何かを言って、私に向かって「ルーです」と挨拶し、空いている席に座りました。ルーは、少しうつろな目をしていました。ルーは、鞄からおもむろに化粧品クリームが入っているような寸胴な緑色のガラスの容器を取り出しました。もう一度鞄をごそごそと探ると、細長い銀色の棒を取り出しました。銀色の棒の尖端はよくみるとスプーン状になっていて、何かをすくえるようになっていました。それは薬匙でした。ルーは、ルーティンワークであるかのように器用に蓋をあけてみせると、容器に薬匙をさしこみ、肌理の細かい白い粉をすくっていました。ルーは天井をみあげて、ひょいっと薬匙をひねり、口の中に粉を入れました。顔をこちらに向けると、目をぱちくりとしばたかせました。ルーは同じことをもう一度繰り返しました。

「色がはっきり見えるようになるんだよね。これやってアイマス観るとやばいよ」

ルーは容器を持ち上げると、英語で書かれたラベルが見えるように私の目の前にかかげてきました。

「For not human consumption」

「え?」と私は聞き返しました。

「人間用じゃないんだよね」

そう言うと、ルーはケタケタと笑いました。私たちはそうやって出会いました。ダークウェブではなく表のネット通販で買える薬品だそうでした。また、当時は合法ハーブが流行しており、私も一通りの知識を集めていたのでそれ自体で印象が悪くなることはありませんでした。といっても、調べた結果として、やらないほうがいいのは間違いないので、ルーは大丈夫なのかな、と心配しました。

とはいえ、ルーのことを私は会う前から知ってはいました。ゼロ年代批評のなかでもよく用いられていた、ジジェクというひげのおじさんがよく使っていたラカン派精神分析的解釈に基づいて批評したり、同人誌にラカン派精神分析に詳しい論者どうしの対談記事をくんだり、薬を飲んだときのイメージを言語化したような詩を書いたりしていて有名だったからです。

その読書会の後に、私は何かを信用されたようで、彼が主催する同人誌に「メンヘラ」をテーマに書いてほしいと連絡がきました。ルーの印象は良くなかったのですが、上記のようにその仕事ぶりは知っていたので、ひとまず引き受けることにしました。その原稿で私はライトノベルをとりあげました。登場人物の全員が精神的な疾患を抱えた物語で、十文字青さんの書いた『ぷりるん。~特殊相対性幸福論序説~』という作品です。私の原稿の論旨をざっくりとまとめると、精神的に問題行動をとる人ばかりを取り上げるトビアス・ウルフというアメリカ人作家の小説を比較対象にすることで、『ぷりるん。』の特殊な表現を抽出し、抽出した要素を再構築することで、社会通念としての恋愛行為から逸脱した人間、つまり人間をやめた人間の固有性に触れることが恋愛の体験とされている、という解釈をしました。ルーがてがけた同人誌はそれが2冊目だったのですが、その同人誌は比較的によく売れたようです。ルーはその原稿をある程度気に入ってくれたようで、原稿料としてブルース・フィンクの『ラカン派精神分析入門』をもらいました。中古本なので正確な値段はわからないのですが、だいたい5000円くらいでした。もちろん、キャッシュのほうがありがたいのですが、ほぼ同世代ということもあり、当時はとくに気にしませんでした。

その後、私自身も20歳前後ということもあり、精神的に不安定になっていました。生きるということと批評するということががぎりなく一致してるがゆえに、自分で考えたことをすぐさまに批判し、それを乗り越えるために勉強するというサイクルは、いまとなっては客観的に処理できるのですが、当時はとにかく辛いものでした。20歳前後というのは、確信のようなものが持てないですからね。この頃、自分の中の確信が「飲酒」になりそうなのをなんとかこらえていました。そうして、私は、ルーから次に来た原稿の依頼を断ってしまいました。

(ルーのDM)「こんにちは。次の同人誌のテーマは「幸福」なのですが、原稿をぜひお願いしたいです」

(でぃおんたむのDM)「ご依頼ありがとうございます。私は「幸福」について何かを書くことができません。今回のお誘い大変ありがたいのですが、ご理解いただけますと幸いです」

私があの頃と変わったと自分でわかるのは、今の私は「幸福」について書くことができるからです。ただ、ルーが「幸福」について依頼してきたのは、ルー自身が「幸福」というものを本当に追求していたからだった気づいたのはルーが死んだ後のことでした。

「幸福」について依頼してきた頃、ルーは、ツイッターというSNSの中で「一人ゼロアカ」のようになっていました。ゼロアカ道場で参照されるような論者や理論についてばかり議論し、「リスカオフ」という集団リストカットをカラオケで行い、複数人で血のこぼれた手首を見せるようにしてこぶしを突き合わせた写真を投稿するなどして、ダークなザクティ革命をするようになっていきました。ただし、これは、ゼロアカとはある一点において異なっています。

ゼロアカ道場はリアリティショーであり、ショーから降りる自由があります。しかし、SNSでアテンションを稼ぎ、承認欲求を満たしながら自分の人生そのものをリアリティーショーにしていくとき、そのショーから降りることは限りなく難しくなります。ゼロアカ道場はよくもわるくも出版社のプロジェクトだったので、集団によるケアがありますが、個人のリアリティーショーはSNSの好奇の目にさらされ、消費されるだけです。一度でもその道を歩んでしまえば、SNSへの依存とそこでの自傷を繰り返すしかなくなってしまうのです。自分でどうにかすることができるはずもありません。そうしてルーは、ベランダから飛び降りることで人生というリアリティーショーに幕を引いたのでした。夕暮れのセミも鳴くことをやめた、2015年の夏の終わりのことでした。ルーが幸せになったのかは、私にはわかりません。ただひとつ言えるのは、ルーはグランドラインを超えていくことはできなかったのでした。

脆弱性については以上です。そして、ここで今回のお手紙は終わりです。次回は、残された論点である(3)依存性・(4)時代性についておたよりをお送りします。いよいよ、七武海と四皇たちの10年代の活動をたどります。

さて、おたよりは以上なのですが、最後に宣伝です。このお手紙が読まれる頃には配信が終了し、アーカイブでの視聴になるかもしれませんが、おたよりを補足する形で2010年代同人誌批評を振り返る配信をYouTubeでします。11月23日の14:00から20:00です。さやわかさん、お手数ですが、次のタイトルとリンクをコメント欄に貼っていただけますと幸いです。

米原将磨×江永泉 司会=ジョージ「ゼロ年代批評崩壊期とは何だったのか。地殻変動以後の時代に三人が回顧する10年代批評シーンと20年代への展望」

貼っていただきましてありがとうございました。ちなみに、江永泉さんは『闇の自己啓発』という本で有名な方で、ジョージさんはジジェクの動画の日本語字幕を作成しているので有名な方です。

それではみなさま、また、次回にお会いしましょう。連載おたより第5回「もう何も怖くない」。

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「カルチャーお白洲」お手紙回2022年10月(連載第3回)

さやわかさん、カルチャーお白州民のみなさま、こんかんるちゃ。でぃおんたむと申し上げます。

8月20日に開催されました「正々堂々秘密の大集会」にて、さやわかさんにお送りしたお手紙で連載の予告をいたしました。8月、10月と2回連載させていただきましたが、今回が最終回です。年を越さなくて良かったです。とはいえ、最終回なので大長編です。覚悟の1万7192字。さやわかさん、どうぞよろしくお願いいたします、と書いていたのですが、さすがに長過ぎるので、ほどよいところで区切りました。というわけで、今回は、私が早稲田大学に入学してから東浩紀と出会った日から始まり、どうしてゼロ年代批評的なものの空気が消えてしまっていたのかについて、全部で4つの観点から分析したもののうち、最初の1つについて説明しています。

では毎回長いお手紙のため、いつもどおり前回の振り返りをさせていただきます。

連載第1回では、webゲンロンで連載中の「愛について──符合の現代文化論」の要約をし、ゼロ年代批評で積み残された課題にどう向き合っているのかに関わることをしているのだ、と指摘し、さやわかさんの継続的な批評行為について、その文脈を明確にしました。全文はこちらでお読みいただけます。【連載1回目 https://diontum.com/「カルチャーお白洲」お手紙回2022年8月/】

連載第2回では、文学フリマとさやわかさんのことを知った頃のことをお話いたしました。2010年代の初頭では、文学フリマで批評は売れていたけど、実は少数派だったということや、四皇や七武海になぞらえて当時の批評家たちの整理をしました。ちなみに、さやわかさんは四皇でした。全文はこちらでお読みいただけます。【連載2回目 https://diontum.com/「カルチャーお白洲」お手紙回2022年10月(連載第2回/】

では、今回のお話にはいらせていただきます。以下、6980文字。さやわかさん、どうぞよろしくお願いいたします。

2012年5月18日金曜日、少し雨がちらつく夜のことでした。私の目の前に気っ風よく弁舌をふるう初老の男性がいました。煙草の煙がゆったりと天井にのぼっていく薄暗いお店の中で、若い男性たちが彼を囲んで意味ありげにその話に相槌を打っています。一方で、テーブルの端のほうでは、最近のコンテンツについての意見交換や、誰それと誰それがまたやりあっているといった論壇ゴシップがやかましくかわされていました。

みなさんお気づきのこととは思いますが、この男性とは、東浩紀さんのことです。そこには、2011年9月に『ゴーストの条件―クラウドを巡礼する想像力』を出版した村上裕一さんもいらっしゃいました。当時の東さんが担当していた授業のゲスト講師として村上さんがいらっしゃっていたのです。私はその授業を受講してはいなかったのですが、ツイッターで東さんが告知をしていたたため、勝手に行っていいだろうと忖度して期待に胸をくらませて行くことにしていました。わたしの頭の中では、席とり合戦の起きたアンリ・ベルクソンのコレージュ・ド・フランスの講義、階段に座り込む学生に溢れたヴァンセンヌ時代のジル・ドゥルーズの授業を思い描き、そういった時代を作るような、ひりつくような熱気がそこにはあるはずだ、と思っていました。万が一座る席がなくなってしまうことにも備え、キャンプ用の簡易的なパイプ椅子を鞄につめて、何がなんでも受講してやるという決死の覚悟を決めていきました。

しかし、いざ当日になって教室に行ってみると、扉に張り紙もなく、中に入っても教室は閑散としていました。私より先に来ていたのは、2人か3人かの男性だけで「あれ、君は見ない顔だけど、誰?」みたいな顔をされました。机にきっちり座れば40人は入れるであろう教室はあまりにも広すぎて、私が想像していたゼロ年代の熱気は存在していませんでした。時間になればきっと大量の人が押し寄せるのだろうという期待も虚しく、集まったのは10人いるかいないか程度でした。

かなり早くから待っていた私は、他の人からツイッターアカウントの候補から消去法で特定され、「もしかして、ツイッターのアカウント名は米原将磨(よねはらしょうま)さんですか」といきなり話しかけられました。「ネトスト怖い!」とびくつきながら「は、はい、そうです」などといったやりとりがありましたが、まったく雑談が続かず、教室はふたたび静寂に包まれました。話しかけていただいたのは大変ありがたかったのですが、私には雑談する力がまったくなかったのです。

このときカルチャーお白洲があれば、2022年7月5日配信「理論編(ノウハウ #27)「説明の技術」⑥~苦手な人のための会話術:相手の答え方を指定する」で、ほどほどな感じで雑談する方法を身につけられていたのに……。しかし、私も18歳でしたし、シラスもありませんでした。当時の先輩方には申し訳ないのですが、雑談が続かなかったのは、別に不機嫌だったわけではなく、雑談力もなかったし、緊張してうまく話せなかっただけです。

そんなこんなで、三々五々に人が集まると、私以外の全員がお互いに知り合いのような雰囲気の中、東さんと村上さんが教室に入ってきて、『ゴーストの条件』について村上さんがレクチャーをはじめました。

レクチャーの間、私だけが何かにとり憑かれたようにメモをしていました。そのためか、レクチャーが終わったときには疲れ果て、質問時間になっても、私はぼうっとしていて漫然としていました。会場でも、そもそも本を熟読してきた人間はいないらしく、本を読んでなくてもできるようなあいまいな質問が1つか2つでました。東さんもなんとか授業を楽しくさせようといろいろ意見を出していたのですが、いまいち盛り上がりません。そんな中、こちらを向いた東さんが私にこう言いました。

「君、すっごいメモしてたけど、何か質問とかない、大丈夫?」

いきなり話かけていただき、心の中で「貴様ッ!見ていたなッ!」と叫んだのですが、私の口からでてきたのは「あーうー」という曖昧な言葉ばかりでした。そして、数秒後、なんとかして、ない頭を振り絞ってこんな質問をしました。

【ト書き 少し震え声で】「早稲田大学の近くにある夏目坂をのぼっていくと、清源寺というお寺があり、水子供養をしています。『ゴーストの条件』では、水子が重要なモチーフになっていますが、こちらには行かれて何かの参考にしたことがありますか」

当時の米原将磨の質問内容(再現)

「レクチャー関係ないじゃん!、何をメモしてたんだよ」と今の私は過去の私にツッコむしかないのですが、この質問は「え、そうなんだ」と東さんもリアクションできる程度にはまともな質問だったようです。村上さんもそのお寺には訪れたことがあるそうで、水子供養と日本の文化の結びつきについて、いろいろ考えていたようです。なお、夏目坂の夏目は、あの夏目漱石に由来しています。彼が養子になって住んでいた家があったことにちなんでいます。

ところで、自分でツッコミをいれたように、私は人の話や授業のときに、すごくメモするタイプの人でした。それはそれで勉強になったのですが、「質問ありますか」という貴重な時間を有効活用するうえで、メモしがちな人は弱いように思います。リアルな場所で人の話を聞くときは、ある程度の詳細を諦めて、「この人の話をよく考えると、すこしわからないところがあるぞ」といった内省の時間を確保するほうが重要なようにいまは思います。もちろん、内省なしでとにかくメモ、というのは受験勉強のときや語学勉強のときには役に立つと思っています。さやわかさん、お白州民のみなさま、いかが思われますか。

さて、レクチャーが終わったあと、フォレスタというお店で打ち上げすることになりました。大学から一番近い店で、ネットで検索したかぎり確実にノンアルコールビールを提供している店でした。東さんはその日は車で来ていたので、そうした理由でフォレスタに入ることになりました。フォレスタは、夏目坂を下りきったところにあるお店でした。

レクチャーの打ち上げには、村上さんや坂上さんといった七武海が何人かいて、私より先に航海にでていたルーキーたちもいました。『アニメルカ』に掲載されていた批評もすでに読まれていて、「君があれが書いてた人なのか」、と村上さんに細かい点でのアドバイスをもらいました。

席の入れ替えがあり、東さんの向かいに座ることになった私は挨拶をすませると、コンテクチュアズがゲンロンに社名を変更したばかりだったので、その話をしました。そのまま今後のビジネス事業の展開についての話になり、東さんは言いました。

「僕ね、カフェやろうと思ってんだよね、今年には始まる予感……」

「カフェ? コーヒーとか出すんですか」

勘の悪い私は要領を得ません。

「そうじゃなくて、ロフトプラスワンみたいにイベントとかやるんだよ」

「え、すごい」

当時の会話の内容をそれらしくしたもの

この些細なやりとりは覚えているのですが、それ以外は覚えおらず、人間の記憶とはつくづく怪しいものです。ちなみに、私は人生で一度もロフトプラスワンに行ったことがないです。

東さんが帰るタイミングでいったん打ち上げは解散し、夏目坂をのぼりきったすこし先にある駐車場に向かう東さんを見送りながら七武海とルーキーたちは二次会に向かいました。東さんがはきはきとのぼっていく夏目坂の先に、当時の私の下宿があったので、自分の姿をそこに重ねさえしました。18歳というのは、そういうものですよね。

あの時初めて東さんと話したフォレスタは、ビルごと解体され、新しいビルはいまだに建たず、店舗が別の場所に戻ってくることもありませんでした。新型コロナウィルス感染症流行下での出来事でした。東さんや、七武海やルーキーたちがかつてあそこにいたことを証明するものは更地以外にはもう何も残っていません。

ところで、東さんの考えていたその「カフェ」は、翌年の2013年にイベントスペース「ゲンロンカフェ」としてオープンしました。『ゲンロン戦記』で語られているように、経営上では会社の徒花でしかなかったはずのゲンロンカフェが、いつのまにか売上を支えるようになり、2015年には新芸術校と批評再生塾という2つのスクールが開講します。しかし、このスクールにはいわゆるゼロ年代のカルチャー批評の集団は、七武海の黒瀬陽平がスクール運営の主催をつとめている以外、ほぼ参加していなかったといえるでしょう。2015年までにゼロ年代批評の集団は自然消滅していこうとしていたからです。

とはいえ、その消えかける手前の2014年、私は村上裕一さんによる、ビジュアルノベルについてこの世界で最後に総合的な文化批評を行った『ノベルゲームの思想』というゲンロンカフェでの講義に参加し、最後の熱気を感じることができました。このとき、「ゲンロンスクール」と題してパッケージ化されたイベントが組まれていて、『ノベルゲームの思想』は全部で3回の講義でした。第1回目が盛り上がり、第2回目から現地参加者が増え、40人近く集結し、私もその中にいました。第3回が開催された4月19日は終わりゆくヴィジュアルノベルゲームは一体どこに向かっていくのかについて、スマートフォンの普及によってキャラクターとの物語を通じた擬似的にインタラクティブな関係を構築できるようにするスマホゲームが今後ますます普及し、ノベルゲームのミームは生き続けるといった主張を展開し、感動した聴衆が大盛りあがり。現場にかけつけていた東浩紀が「朝まで『Air』をやるしかないだろう」とスクリーンに『Air』を投影し、名シーンを振り返るなど、現場感に溢れてました。あゝ、ゼロ年代。しかし、よく考えると、ゼロ年代批評の中心的コンテンツだったヴィジュアルノベルゲームの時代が終わった、と宣言する講義だったのですから、その盛り上がりは奇妙なものでした。しかも、その後の批評はどこに向かうのかというと、ヴィジュアルノベルゲームのミームを追う、という内容でした。

確かに、多くのヴィジュアルノベルゲームのライターたちは、現在、スマホゲームのシナリオライターをしていますし、スマホゲームの体験をヴィジュアルノベルゲームの形式を応用して再現できているのはスマートフォンというアーキテクチャのおかげなのだ、といえなくもないです。しかし、新しいツールでの新しいコンテンツは、先行世代の文脈を引き受けつつ、新しい文脈を展開していきます。だからこそ、「ヴィジュアルノベルゲーム」といったように、ただの小説でもゲームでもないコンテンツとしてジャンルをわざわざ区切ってはいなかったでしょうか。だとすると、スマホでノベルゲームをしているとき、それは本当に「ヴィジュアルノベルゲーム」と言ってしまっていいのかどうかまず考えるべきではないでしょうか。そう、何が言いたいかというと、ゼロ年代批評はこのとき、すでに、次に何をすべきかという方向性を個々人では持っていたとしても、自分たちの所属していたクラスタで何をしていくかについて考えていた人は一人もいなかったのです。だからこそ、2015年にスクールが開講したさいに、自分の向かう先の決まった人や、自分だけでしたいことの決まっていたゼロ年代批評勢はスクールの動きに積極的に合流しようとしなかったのだと、想像しています。

では、なぜこんなことになってしまったのでしょうか。いまから、その理由について、(1)閉鎖性、(2)脆弱性、(3)依存性、(4)時代性という4つの観点から説明させていただきます。今回のお手紙では、(1)閉鎖性のみお話いたします。

閉鎖性と聞くと、これは誰もがゼロ年代批評界隈のイメージとして共有していることだと思います。具体例を挙げましょう。

ゼロ年代批評をやっていく、ということは『前田敦子はキリストを超えた』のような本についていくということです。当たり前ですが、ついていけません。普通に考えて超えるとか超えないの話ではないですし、こういう競争を煽って何かの優位性を示したがる傍若無人なタイトルそのものが強烈なホモソーシャル性を前景化していたと言えるでしょう。

また、コンテンツ批評で対象となる範囲はとても狭い、と連載第2回のお手紙で指摘しました。これも閉鎖性をもたらす要因でした。そもそも、コンテンツとは様々なジャンルを包摂できるマーケティング用語を批評に持ち込むことで、批評する対象の垣根を超えていこうとする目的もあったはずでした。しかし、麻枝准作品、アイドルゲーム、AKBを中心としていたように、コンテンツの範囲は限られ、ジャンルの序列化がなされ、結局は本来はなくそうとしていたジャンルの垣根を自分たちでもう一度作ってしまったのです。なお、こうした垣根をつくることで何が生み出されるかというと、自分が一番「愛」についてよく知っているという閉鎖的な競争です。まさしく、執着の愛であり、これはどれほど批評的な言葉を使っていたとしても、あまり広がりがありません。とはいえ、アカデミズムでも「自分が一番わかっているやつなんだ」という競争はありますから、とくにゼロ年代批評の問題というわけではなく、同質的な狭いコミュニティではこれが起きがちなのかもしれません。この「自分が一番わかっている」という執着の愛から一歩引く責任の愛とは本当に難しいものです。

とはいえ、閉鎖性は言葉の雰囲気とは別に、ポジティブな側面もあります。これはかつて私を見込んでくれた方々に感謝する必要があるので、きちんと触れておきたいです。

今の私がこんなふうに連載できるような引きのある文章をつくり、対談などの編集を任されてそれなりに読み物として面白く記事を作れるのは、その閉鎖性ゆえに、私に仕事がたくさん回ってきて、経験を積む機会をいただいたからです。向こうとしては人手不足、こちらとしては編集の経験つめるしお金も入るという循環は、ある程度の仕事相手の「知識」・「能力」・「締め切りを守れるどうか」といった信頼をあらかじめ推し量ることができるようなコネがないと生まれません。つまり、ある程度は閉鎖的だからこそできるわけです。ただし、この構造は、閉鎖性が強すぎると、「お前は別のグループのやつと仕事したな、この裏切り者!総括だ!」と連合赤軍になってしまうので、何事もほどほどが重要ですね。なお、私の知っている範囲ではそこまでひどい閉鎖性はゼロ年代批評の人たちにはなかったように思います。あったとしても、運良く私はそうした人たちとは関わっていませんでした。

最後に、閉鎖的であることによってもたらされた結末についてお話します。

私がフォレスタで食事をともにし、『アニメルカ』に掲載していた批評にコメントをしてくれた人として登場していただいた村上裕一さんですが、彼の主著『ゴーストの条件』の副題は、「クラウドを巡礼する想像力」でした。この「巡礼」とは、「聖地巡礼」のことで、観光社会学やツーリズムに着目した文化批評では重要な概念となっています。簡単にいうと、聖地巡礼は、昔は宗教的施設といったモニュメントをめぐるものだったものが、現在は、アニメという虚構で参照された場所にいき、同じ構図で写真をとるだけといった行為になっている、という違いをどのように考えるべきか、という議論です。村上さんはキャラクターの存在の実感を高めるのに土地との結びつきが重要であると、かなり初期に指摘した人だったといえます。例えば、この議論によって「温泉むすめ」というキャラクターが、そもそもなぜキャラクターとして求められたのか、という問いを立てて考察することも可能にするなど、2020年代にも通用しそうな話ではあるわけです。

しかし、ある研究会で聖地巡礼の話になったとき、観光社会学の中での最近の「聖地巡礼」的な議論の土台となっているものには、2014年の『サブカルチャー聖地巡礼 : アニメ聖地と戦国史蹟』だとか、2018年の『アニメ聖地巡礼の観光社会学』 といった学術書ばかりでした。つまり、村上裕一さんは存在しないことになっていたのです。なぜそんなことになったかというと、村上さんの議論の型だけを取り出して外に展開する人が後に続かず、彼が取り上げたコンテンツの話しかできない人、あるいは特定のコンテンツの話しかしたくない人だけが残っていたからだと思います。2012年のあの熱気のない教室からも察せられるように。そして、あの教室から10年後、ゼロ年代批評の重要な著作はもうすでに忘れ去られていたのでした。

閉鎖性については以上です。そして、ここで今回のお手紙は終わりです。次回の最終回では、残された論点である(2)脆弱性・(3)依存性・(4)時代性についてお手紙を書いています。七武海と四皇たちの10年代の活動をすべてをたどりながら、新世界にたどり着かず、グランドラインを生き延びることができなかったかつての自分と仲間たちに鎮魂歌を捧げ、私がもう一度新世界を目指す話をしたいと思います。

次回、最終回。絶対運命黙示録。

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米原将磨

「カルチャーお白洲」お手紙回2022年10月(連載第2回)

さやわかさん、カルチャーお白州民のみなさま、こんかんるちゃ。でぃおんたむと申し上げます。

8月20日に開催されました「正々堂々秘密の大集会」にて、さやわかさんにお送りしたお手紙で連載の予告をいたしました。しかし、なんと、その後『ユリイカ』から原稿の依頼があり、一ヶ月がまるまるつぶれてしまい、お手紙を書く時間がなかなかとれず、連載2回目のお手紙が遅れてしまいました。ちなみに、原稿は10月発売の今井哲也特集に掲載予定で、タイトルは「世界はおもちゃ箱――今井哲也について」です。ペンネームは、米原将磨(よねはらしょうま)です。この『ユリイカ』の号には、なんと、あのさやわかさんのインタビュー記事も掲載されています。私の原稿はどうでもいいのですが、さやわかさんのインタビューがとっても面白そうなので、みなさん要チェックですぞ。

さて、二ヶ月も時間が経ってしまったということもあり、前回の内容を忘れてしまった人も多いと思いますので、最初にかんたんにあらすじを述べさせていただきます。その次に、さやわかさんを私が初めて知った頃のこと、そのとき、なぜ私が批評などというものをやっていたのかについて「文学フリマ」の往年の雰囲気を語りつつ、ご紹介します。なお、予め申し上げるのですが、編集前のお手紙は3万字くらいあるため、今回もちょうどいいところで区切って次回に続きます。どうぞよろしくお願いいたします。

では、さっそく前回の要約をさせていただきます。

前回のお手紙では、webゲンロンで連載中の「愛について──符合の現代文化論」の要約と、ゼロ年代批評で積み残された課題にどう向き合っているのかについて、ゼロ年代的なスタイルのスタンダードを作った宇野常寛の主著をとりあげてお話しました。簡単にまとめると、連載「愛について」は、オタク的なコンテンツへの偏愛は「執着の愛」でしかなく、自分が執着する行為を一歩引いて理解して他人とわかちあい、それに責任をもつことを「責任の愛」とする、といった要約を私がしました。次に、宇野さんの『ゼロ年代の想像力』についてのさやわかさんの書評を、ゼロ時代のコンテンツの整理をして限界を指摘しているものの、最後は執着の愛に閉じた議論に終始して、コンテンツの消費者や読み手のことを無視した論を展開していた、とさやわかさんはたぶん考えていて、さやわかさんは10年代を通じて責任の愛について取り組んできたと言えるけど、それってとってもすごいよね、と私がまとめました。

要約もすんだとろこで、さやわかさんの文章と出会うところから今回はお話させていただきます。以下、6590字です。さやわかさん、よろしくお願いいたします。

時は2011年4月22日未明、神奈川県横浜市某所。多くの人々がそうであるように、私は寝ている家族を起こさないように、リビングルームのテレビの音を小さくして、食い入るように画面を見つめていました。

注釈。若人に言っておきたいのですが、当時はTVerなどという便利なサービスはないので、テレビを個人的に見る手段は限られていました。自室PCで見るためにPC用チューナーを買うとか、TVモニターを自分の部屋もちこみ、TV用の回線を引く、とかしか方法がないのです。そのいずれもできない場合は、一家に一台のテレビでアニメを静かに見るしかないのです。いいですか、これは、とっても辛いことです。でも、やるしかないんです。

さて、そんな私が家の人を起こさないようにこっそり見ていたその時のアニメとは、「魔法少女まどか☆マギカ」の最終回でした。一ヶ月前の3月5日に第11話「最後に残った道しるべ」が放映されたのですが、3月11日には東日本大震災が起きたため、「魔法少女まどか☆マギカ」の最終回の放送が延期になったのです。津波を思い起こさせる表現がある、といったことだったと記憶していますが、東京の被害もかなりあったので、単に放送することでのメリットがなかったのかな、と今となっては思います。結局は、一ヶ月後に軽微な被害を受けた地域に住む人々の生活が安定してきた4月22日に最終回が放送されたのでした。食い入るように最終回を見ていた私は、雑誌『ユリイカ』で「まどまぎ」の特集号が10月に刊行されたときには書店でつかみとって即購入。本屋を出たら、歩きながら頁をめくりだしていました。いまの『ユリイカ』からはあまり想像ができないのですが、かなり作り込んだレイアウトになっていました。最初に目を引くのが、各話のあらすじが、マットコート4色フルカラーで、1ページごとに各話のシーンの複数ショット付きで紹介されている点です。さらには、カラー口絵も志村貴子・今日マチ子・吾妻ひでお、などなどが手がけるという豪華なラインナップでした。はたまた、飯田一史による「魔法少女まどか☆マギカ事典」という3段組19頁という狂気の資料ページまでついていました。

私はそこで、さやわかさんのお名前を初めて知りました。ばるぼらさんとの対談「メディアにおける/としての『魔法少女まどか☆マギカ』」は、当時の「まどまぎ」が世代ごとにどう消費されたかの雰囲気を伝える非常に重要な記事なのですが、10年ぶりに読み返すと、「トランスクリプション&構成=さやわか」となっていて、中身うんぬんとかよりも、「え、対談した人が書き起こしまでやってるの……、見なかったことにしよ」といろいろ感じいってしまいました。

そうして、さやわかさんのことを知った私でしたが、お書きになった批評をきちんと読んだのは、また別の機会でした。それは、さやわかさんご著作『世界を物語として生きるために』に所収された米澤穂信論「日常系を推理する 米澤穂信と歴史的遠近法のダイナミズム」のもととなった論考を手にとったときです。つまり、その文章が所収された『BLACK PAST』第二巻の刊行された、2012年ことでした。ところで、多くのお白洲民はこの雑誌のことをあまりご存じないでしょうし、ご存知でも配布部数が多くはないため、お手にとったことのある方は少ないでしょう。『BLACK PAST』はゼロ年代の狂騒が少し落ち着いた2011年に第1号が文フリで刊行されました。私はこの時ちょうど高校2年生でした。実は、さきほど触れた飯田一史の「魔法少女まどか☆マギカ事典」でも、『BLACK PAST』が参照されています。なぜなら、「魔法少女まどか☆マギカ」の脚本を担当した虚淵玄のインタビューが掲載されたのが、その『BLACK PAST』だったからです。というわけで、私はその本もまた買っていたのでした。

また、文学フリマは、近年各地で開催されていることもあり名前を知っている方はまぁまぁいらっしゃるかと存じますが、ひら☆マンでCOMITIAが有名な一方で、カルチャーお白洲をご視聴のみなさまはあまり文学フリマに馴染みがないかもしれないので、念の為、ゼロ年代から十年代初期にかけての文学フリマの様子を説明したいと思います。

まず、文学フリマとは、ざっくりいってマンガ以外の同人誌を売るところです。小説や詩、そして批評だけでなく、独自の調査で集めた資料などもあります。紀行文つきの廃墟写真集なんかもありますし、ある作家の全集未収録作品を発見してきて解説付きで収録して頒布している人もいました。というか、マンガ以外とか言いましたが、マンガを頒布している人もいたので、「文字ばっかりの同人誌が多いCOMITIA」と思っていただければと思います。

そんな文学フリマの名前が広く知られるようになったのは、その昔、東浩紀が中心となって開催された「ゼロアカ道場」という一連のプロジェクとイベントがその一因であるとはいえるでしょう。2007年に「第四回関門」と呼ばれるイベントが開かれ、同人雑誌を編集してつくり、文学フリマで売ることになりました。東京都中小企業振興公社秋葉原庁舎で開催されたそのイベントは大盛りあがりでした。諸事情あり、翌年からは大田区産業プラザPiO 大展示ホールでの開催となりました。なお、私はゼロアカは直接経験していなかったので、大田区産業プラザPiOで開催された文学フリマが初めて行った文学フリマでした。2010年を少し過ぎた頃の文学フリマは、今のように書店でも流通するような批評同人誌とは異なり、野良な感じの批評同人誌がたくさんありました。例えば、私にとって愛着があるものに限って挙げると、アニメ批評同人誌『アニメルカ』や腐女子批評誌『girl!(ガール!)』といったものがありました。ほかにもさまざな批評同人誌があり、売れ筋のものは数百部印刷しても印刷費がほぼ会場で回収できるという時代でした。そう、10年代に入ってからもゼロ年代の批評の空気は生きていたのです。そして、私もまた、高校生の頃から批評同人誌の論評に対してツイッターで論戦を張り、その結果『アニメルカ』編集長に発掘され、高校生のうちに『アニメルカ』へちょっとした批評を掲載することにもなりました。

また、若くて勢いだけはとにかくあった私は、『短歌研究』という短歌専門雑誌の評論賞部門で高校生の時に次席になるなどもしていました。現在ではカルチャーの中で短歌が目立っているので、アニメとかで批評を書いている人が短歌について論じても違和感はあまりないですが、当時はそうではありませんでした。理由としては、セミクローズドなmixiとは違う、オープンなSNSがいまほど普及していなかったので、若い世代の短歌クラスタがつくられず、アニメと短歌を両方語る事自体奇妙に見えているようでしたし、SNSの短文投稿で気軽に短歌を共有できるということもなかったため、短歌をやることがカルチャーっぽさとして広まっていなかった、ということも考えられます。

もちろん、深く短歌の創作に熱を上げていれば、すでにウェブ頁をもっていた短歌サークルに接触できたでしょうが、アニメ・音楽・批評に大忙しだった私はとくに探しもしませんでした。私自身は昔から短歌を読んでいたとはいえ、応募することにした理由は、短歌というコンテンツがとても好きだったからというより、本屋で適当に評論賞で応募できるところがないかを探していたときに『短歌研究』を手に取ると、評論部門のお題がたまたま自分に書けるものだったというだけです。若いと怖いくらいに調子のったやつになりますが、若いということはそれ以外取り柄がないので、もしもこのお手紙を耳で聞いている高校生か大学生の人がいたら、YouTubeでもブログでもなんでもいいので、とにかく行動しましょう。「カルチャーお白洲」の理論編で鍛えた力を発揮するのです!

そういうわけで、若かった私は短歌について書いたのですが、これには同時代的な理由があったと考えています。というのも、地元の書店が『短歌研究』というマイナーな専門誌をおいているほど、2010年に入る頃の短歌界は大きな変革の時代を迎え、流行の兆しがあったと指摘できると思うからです。具体的には、80年代生まれの世代が短歌界隈で台頭し始め、笹井宏之(ささいひろゆき)の衝撃からまもなく、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)で2013年に「新鋭短歌シリーズ」の刊行が開始しました。現代短歌の歴史をふりかえってざっくり整理すると、80年代の俵万智という転換点の一人勝ち、90年代の穂村弘・東直子(ひがしなおこ)ほか新しい歌人たちの登場による60-70年代の歌人の撤退、そして、瀬戸夏子(せとなつこ)や笹井宏之といった10年代歌人たちの台頭と短歌批評シーンの変化、そして穂村弘の再流行、と簡単にまとめられます。穂村弘の2010年前後の流行で、短歌を詠む人というのは文学フリマで目立っていました。当時の文学フリマの参加グループを見ればわかるように、「詩歌」とよばれるような短歌、俳句、現代詩を扱ったブースは全体の2割から3割くらいを占めていたようで、多くは短歌でした。そして、客観的にみれば私のような批評好きたちのブースは、1割を占める程度の少数派でした。しかし、批評同人誌がまぁまぁ売れていたせいもあり、たちの悪いことに、自分たちは十分に世間で認められてるのだ、と考えていた節さえあったように思います。

少し固有名詞が多くなってきたので、いったん当時の状況を『ONE PIECE』にたとえて整理しましょう。10年代のはじめは、私のような有象無象のルーキーたちが航海に乗り出していきました。『BLACK PAST』の仕掛け人坂上秋成さんなどの七武海(福嶋亮大・泉信行・黒瀬陽平・村上裕一・藤田直哉・山川賢一)、そして宇野常寛・濱野智史・鈴木健・さやわかといった四皇が10年代に入ったばかりの海に散らばっていました。世はまさにカルチャー批評全盛時代。なお、この分類は当時からそう見えたのではなく、今から振り返って、ゼロアカ周辺の風景はこのように整理できたのではないか、という図式です。宇野さんと同様に、濱野さんの『アーキテクチャの生態系』は、それはそれはみんな引用していましたし、鈴木さんの『なめらかな社会とその敵』は同時代のSF界隈に大きな影響を与えました。そして、当時はまだ広く読まれてはいないさやわかさんでしたが、コンテンツの単体の批評での名前を見ないときがないほどたくさん書いていらっしゃいましたし、多くの雑誌で構成のお仕事をしていることからも、極めて重要なプレイヤーでした。しかし、昔はそういったことを何一つとして理解していませんでした。現実は『ONE PIECE』ではないので、そのときには七武海とか四皇とか、そんなにはっきり分類できるようにはもちろんなっていませんでした。

では、整理したところで、私がさやわかさんの名前を知った頃に話を戻しましょう。高校を卒業して大学生になり、2012年に偉大なる航路(グランドライン)に入ったばかりなのに、いっぱしの批評家気取りだった私は、『BLACK PAST』の第2巻を買うときにも、「いまはどんな人が「同業者」なんだろう」と、若者にありがちな微笑ましい傲慢な気持ちで「さやわか」という名前を目にしました。そして、さやわかさんの「日常系を推理する」を読んでも、私は愚かな感想を抱くばかりでした。

【ト書き ここは生意気っぽく】

んー、アメリカのポスモダからミニマリズムの流れをセカイ系から日常系にあてはめるんだー。面白いけど、京アニも米澤もアメリカ以外の文脈多すぎるし、たんにだいたいの芸術は純粋になって先鋭化するってやつでは?というか、作品が常に未来から参照されるなんて当たり前じゃん、何をしょっぱいことを言ってるんだ、そういや、『ユリイカ』のまどまぎ特集にもこの人いたけど、「さやわか」ってなに?

当時の米原将磨の心の声

当時の私を殴ってやりたいです。さやわかさん、ごめんなさい。

あの頃の私は、「常に未来から参照される」、そのことの本当の意味がわからなかったのでした。しかし、今の私にはよくわかります。何かを書き、誰かがそれを受け取り、未来に言葉を紡いでいくことが批評という営為なのです。だからこそ、批評をするとき、未来に参照されるべき人間として、書くことに責任をもつ必要がある。このことの意味と重さを当時の私はまったく理解していなかったのです。

このようにして「さやわか」という10年代を通じてカルチャー批評に大きな足跡を残していった人物について、その名を目にした当時の私はほとんど何も知らず、あまつさえ、愚かな感想を抱いていました。

ところで、お聞きになっているみなさんはそろそろ違和感を覚えているかと思いますが、ここでは現在からふりかえって当時の同人誌批評のジャンルを「カルチャー批評」と呼んできました。しかし、当時はそんな言葉は流通していませんでした。同じものは「サブカルチャー批評」だとか、少し新しい名前として「コンテンツ批評」と呼ばれていたのです。たとえば、2011年に『コンテンツ批評に未来はあるか』という本が出版され、あたかもサブカルチャー批評でもカルチャー批評でも、その他のなんとか批評でもないものが新しく生まれていたかのように喧伝されていたのでした。しかし、そのコンテンツの対象は、私の知る範囲では、極めて限定的で、例えばダイビングについて批評したとしても「それはライターの仕事か、社会学者の仕事で批評の仕事ではない」といったような奇妙な空気が流れていました。コンテンツ批評のコンテンツとは、アイドル、アニメ、ビジュアルノベルを含む文学、マンガ、映画とテレビドラマ、音楽、ニコニコ動画、一部のゲームを対象としているだけでした。

おいしいお店について話すかと思えば水中にも潜ってみせる「カルチャーお白洲」をご視聴のみなさまは信じられないかもしれないですが、いまでも、コンテンツ批評という名前はなくなっても、「カルチャー批評」とか「サブカルチャー批評」と聞いたときには、ニコ動がVtuberに変わるなどしていますが、このあたりが中心になっているかと思います。ゼロ年代は、ビジュアルノベルとニコ動を大きく取り上げた点で過去のカルチャー批評と大きく異なっていましたが、だいたいの若いうるさがたはそういうのに食いつくもので、そのことが何か大きな思想の流れをつくりはしませんでした。ちなみに、「コンテンツ批評」とは何か、あるいは何だったのか、についてはさやわかさんがいつか「お白洲」で詳しく説明してくださると思います、と無茶ぶりしておきます。いずれにせよ、このお手紙では、「コンテンツ批評」という言葉がもしかしたらいまの人たちにはあまり自明ではないかもしれないので使うのを避け、「カルチャー批評」というより一般的に思われる言葉遣いを採用しました。

というわけで、こんなふうにしてふりかえってみると、10年代のはじめの頃、カルチャーに関わる人間として仕事をしていくという夢を何一つ疑いえないほど批評というものは盛り上がっていたのは確かなのです。しかし、ゼロ年代の一連のカルチャー批評の潮流は10年代の中頃に急速に勢いを失っていきました。その崩壊は見えないところではっきりとすすんでいき、見えているところでは何が起きているかもわからないまま目の前のものがどんどん朽ち果てていき、そのすべてが終わる頃には、はじめから何もなかったようになっていたのです。あたかも、かつて人々が何かの目的でつくりあげた建物が廃墟になってしまい、もう誰もそこでの生活の様子がわからなくなってしまったように。

今回はここまでです。次回は、わたくしことでぃおんたむが大学に入学して初めて東浩紀と会話し、そして、どうしてゼロ年代批評のグルーブが消滅していったのかについて、ゼロ年代批評クラスタに近づきつつも離れていた私の観点からお話いたします。

次回も~サービスサービスっ。

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米原将磨

「カルチャーお白洲」お手紙回2022年8月(連載初回)

盛夏のみぎり、さやわかさま、「カルチャーお白洲」ご視聴者のみなさまにおかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。diontum(でぃおんたむ)と申し上げます。

チャンネル公開したその日から当番組が2年目を迎え、こうして視聴者のみなさまと顔を合わせる機会を、つくっていただき、さやわかさん、ありがとうございます。

この度は、「カルチャーお白洲」で初めて開催されるオフ会こと「正々堂々秘密の大集会」に合わせて、初めてお手紙を出させていただきました。拙い文章ではございますが、お聞きいただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、利発で聡明、ウィットに富んだお白洲民のみなさまが、長野県南北に別れた2つのサッカーチームが対立する背景にある抗争の歴史から、プラネタリウムの最新事情まで、幅広いカルチャーを配信してくださる名物コーナー、それがお手紙回です。しかし、意外なことですが、配信しているさやわかさん自身については、私がお手紙回を聞いた限りでは、実はどのお手紙でも語られたことがありませんでした。カルチャーについて語るさやわかさん自身もまた、その来歴を考えると、カルチャーとして語るべき対象のように私には思われます。

そこで、今回はさやわかさんがwebゲンロンで連載している連載「愛について──符合の現代文化論」について、実はまだ読んでいない、あるいは、「読んだけどそんなに内容を覚えていないかも……」というお白洲民のみなさまにご紹介するかたちで、「カルチャーとしてのさやわかさん」について説明しようと思います。

このお手紙では、「カルチャーとしてのさやわかさん」として、「カルチャーを語ってる人のカルチャー、つまり、カルチャーを語るカルチャーがあるとしましょう」という、ちょっとメタな視点を導入します。さやわかさんは、カルチャーについて語るのと同じくらいに、カルチャーを語る人についても話題にする人なのでこれはご納得いただけると思います。最近でも、「サブカルチャー」をめぐる暗黒の歴史について配信していましたね。では、さやわかさんはどんな「カルチャーを語るカルチャー」の中にいるのでしょうか。いつか書かれるさやわかさんについての批評では様々な観点が提示されるひとでしょうが、今回は、時代という観点を取りましょう。「カルチャーお白洲」でも「理論編(ノウハウ #10)「さやわか式・資料の読み方、集め方、あと管理」④~超重要!年表を作るノウハウ」(https://shirasu.io/t/someru/c/someru/p/20210824214437)で、年を整理することの重要性やクリエイティブな側面が語られていました。今回は、ひとまずゼロ年代に書かれていたさやわかさんの文章に注目して、「ゼロ年代から10年代にかけてのカルチャー批評のカルチャーに関わっていたさやわかさん」、という観点から、「愛について──符合の現代文化論」を説明したいです。なぜ、ゼロ年代かについては、あとでご説明しますが、ざっくり2000年から2020年までの20年の年表をみなさんの頭の中に用意していただけますと幸いです。いち、に、さん、はい、もうみなさんの頭の中に20年の間にあったカルチャーとして大事なコンテンツや事件が頭の中に思い浮かびましたね。それを心にとめながら、次からのお話を聞いていただけますと幸いです。

まず、「愛について──符合の現代文化論」の連載が始まった年を確認しましょう。連載が始まったのは、2019年10月でした。2010年代が終わる最後の年です。この年は、戦後のカルチャー史においてとても象徴的でした。2010年代のコンテンツにおいて、とりわけ重要だったMCUシリーズの区切りとなる作品『アベンジャーズ/エンドゲーム』が公開され、2010年代が見事に総括されました。そして、「愛について」の第一回は、「(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」というタイトルがつけられました。

しかし、いまこのタイトルを聞いた多くのみなさまが、「「愛」と「符号」?、配信の中で聞いたかもだけど、なんだっけ」と思ったかもしれません。そこで、まずはタイトルの意味について説明させていただきます。

愛について語ろうとするこの連載の副題には「符合の現代文化論」とあります。つまり、「符号」というさやわかさんの設定したテーマに沿って「愛」が論じられているということです。そこで、「符号」が何かについてさやわかさんがどう定義しているのか見てみましょう。

つまり筆者が考えたいのは符号、すなわち、記号が意味へ対応するメカニズムについてではない。私たちが記号的な事象に対して意味を対応させてしまう行為、それ自体についてだ。

(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」より引用 https://www.genron-alpha.com/gb042_01/

もともと記号というテーマは、『ゲンロンβ』39 号(2019年7月)初出の「記号的には裸を見せない──弓月光と漫画のジェンダーバイアス」(https://www.genron-alpha.com/gb039_03/)がもとになっていたのですが、2016年の『キャラの思考法』でも部分的に類型的な背景や設定の記号性が論じられていました(「打ち上げ花火を、今なお、どう見るべきか岩井俊二とポストセカイ系の解決」『キャラの思考法』)。ただし、すこしまだ分かりづらいので、ここで記号の具体例をあげてみましょう。

夏の田舎道、青空と夕暮れ、友達と行く夏祭り、学習教材、駅までしか行けなかった逃避行、夜のプールに着衣のまま飛び込む少女

『キャラの思考法』kindle版より引用

私はいま、単語の羅列しか並べていませんが、みなさま、何かを想像しましたね。「夏の田舎道」は、文字通りにとると、特定の季節の特定の場所についての情報を意味するものでしかないです。それにもかかわらず、あなたは何かの歌や、何かの登場人物を思い浮かべました。そのように、ただの記号に方向性の定まった想像をしてしまうような、そんな対応づけをさやわかさんは「符号」という言葉で提示して、こちらのほうをより議論をするべきなんだと提示しています。以上が「符号」についてのご説明です。

次に、連載タイトルの「愛」について説明します。さやわかさんは、初回で愛について次のように定義しています。

この連載には「愛について」とタイトルを付けた。筆者は、この偏執的なこだわりを、人間のごく当たり前の感情、愛に類するものとして語ろうと思うのだ。【中略】強い執着が、私たちを分断に導いている。ならば私たちはその愛情、記号と意味の一対一の符合に耽溺するのでなく、その符合を読み解き変形するようなリテラシーを作るべきではないか。

「愛について──符合の現代文化論(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」より引用 https://www.genron-alpha.com/gb042_01/

符号はさきほど見たように、特定の対象に特定の想像をする行為です。さやわかさんはこれを「強い執着」と表現しています。さやわかさんによると、カルチャーについて語る時、語るその人が「愛」を表現することは、たいていの場合「執着」にすぎないそうです。確かに、オタクとかマニアって「おまえはわかってる」とか「あんたはわかってない」とかすぐに言いがちですが、これってようは、執着しているか、執着していないかだけを問題にしているのと同じということです。そして、さやわかさんは、記号によって対象を結びつける符号から生まれる愛を競い合うのではなくて、その愛が発生してる文脈や環境に目を向けましょう、と言っています。

この考え方は連載の中で発展していきます。連載の12回目で、「愛」はあらためてこう定義されました。

人々は古い意味の符合にとらわれない、流動的なコミュニティを欲するようになったが、それは責任を回避できるという意味ではない。責任を持って、新しい符合を他者と分かち合う態度、それこそを、筆者は改めて「愛」と呼びたい。

「愛について──符合の現代文化論(12) 新しい符合の時代を生きる(2)符合の責任論」より引用 https://www.genron-alpha.com/gb070_05/

いきなりこれまでの文章にない言葉のでてくる引用をしてしまい、ごめんなさい。整理します。はじめ、「愛」は執着する感情全般について考えるものでした。愛はとても大事ですが、執着は「わかってる・わかってない」論争を生み、みんな冷静に話ができなくなってしまうので、愛を読み解くためのリテラシーが必要だとされていました。次に、さきほど引用した連載の12回目では、自分が執着する行為を一歩引いて理解して他人とわかちあい、それに責任をもつことのほうがむしろ「愛」とよべるのではないか、とさやわかさんは提案しています。わかりやすくするため、最初の執着としての愛を「執着の愛」として、後者を「責任の愛」とします。そうすると、実は、連載タイトルである「愛について」の「愛」とは、「執着の愛」と「責任の愛」という2つの要素で構成されているといえます。「執着の愛」だけでは、その人は、記号にともなった符号化の行為については無自覚です。「責任の愛」では符号化に自覚的になり、かつ、ここが重要なのですが、他人とそれを共有する、ということです。たとえば、前者は引きこもって、ネットだけが世界で、レスバトルでしかコミュニケーションできない感じがするのに対して、後者は引きこもりをやめて外にでて、他人と、つらいけどなんとかコミュニケーションしている感じがしますね。こんなふうに、2つの愛が渾然一体になっているのが普通の人のカルチャーへの関わり方で、たぶん批評することとは、後者の「責任の愛」なのかもしれません。

そんなこんなでタイトルの説明をするだけでもう4000字近くになってしまいました。次にさやわかさんは連載の中で、家族のような「共同体」やセックスとジェンダーの「性」といった、えてして「執着の愛」に還元されがちなテーマについてフォーカスを当ています。広くマイノリティ表象が課題とされている現代で再度取り組むべき重要なテーマを扱っているといえるでしょう――、なんていうまとめを、私はしたいわけではありません。

私はこうしたテーマを扱っている裏に別の文脈を感じとっています。というのも、「共同体」も「性」のテーマも、ゼロ年代批評シーンで、宇野常寛など様々な人がさかんに取り上げ、どこかゼロ年代的なテーマ、宇野さんの著作のタイトルをそのまま借りると、まさに『ゼロ年代の想像力』のうちにあるようなテーマを思い出させるからです。ところで、さやわかさんは「webスナイパー」というネットメディアで、『ゼロ年代の想像力』の単行本が発売されてまもない2008年の8月に『ゼロ年代の想像力』の書評を掲載していました。「愛について──符合の現代文化論」を読んでゼロ年代を思い出した私は、たんに妄想しているだけではなさそうです。

といったところで、年代が急にさかのぼってしまったので、みなさん少しだけ注意してください。いまは2008年の話をしています。この頃、ゼロ年代批評の議論は、「決断主義」といった勢いの強そうな言葉を中心に語られていましたが、そういった議論は、この本に基づいていました。そして、さやわかさんは書評の中で、次のように2つの課題を指摘しています。見取り図はいいけれど、(1)自身の指摘したゼロ年代コンテンツの課題を解決するようなコンテンツが提示されているが、説得力のある議論ができていない、(2)広い読者とわかちあえるような議論になっていない。以下では、この2つの課題を、さやわかさんが自ら引きうけているということをお話できればと思います。

(1)の具体例をあげます。さやわかさんは、ゼロ年代的なものを超えたコンテンツとして著作の中で評価されていた、2003年放送の宮藤官九郎脚本のテレビドラマ『マンハッタン・ラブストーリー』が当時の視聴者に拒絶された事実を宇野さんが重くみていない、と指摘しています。次のとおりです。

宇野はポスト決断主義的であると考えられる作品に独自の読みを行ない、その可能性を示せているとは言えるが、しかしそのような「新しい」作品が事実として視聴者に拒否されてしまったのであれば、宇野がここまでに展開してきた文化社会学的な検証のスタイルから見て、説得力を失うものである。宇野はこの視聴者からの拒否という事実を、もっと重く受け止めるべきだったのではなかろうか。

「時代を切り拓くサブ・カルチャー批評『ゼロ年代の想像力(早川書房)』」【前編】」より引用。http://sniper.jp/011review/0111book/post_1045.html R18記事へのバナーがでているので閲覧時にはご注意ください。

「文化社会学的な検証のスタイル」とは、「みんなが好きなものは、社会の全体像を示しているってことを前提にしてコンテンツの成立する社会的背景を説明をしました」、という意味です。確かに、宇野さんはずっとみんなが好きなものについて話してきたのに、みんなが好きにならなかったどころか拒絶したものを肯定的に評価したとしたら、その意味はよくわからないですよね。宇野さんは、消費者がどう考えたかよりも、自分の価値観を優先させてしまったと言えるでしょう。このことは、『ゼロ年代の想像力』の随所にみられる、ネットが一般的ではない時代に、ネットでしか知り得ない情報を無自覚に前提としているような書きぶりの閉鎖性についても同様に指摘できるでしょう。さやわかさんは、その閉鎖性について、「彼らにとっては「ゼロ年代の想像力」について考える前に、ほとんど「宇野常寛の想像力」についていけない、ということになるだろう」(「時代を切り拓くサブ・カルチャー批評『ゼロ年代の想像力(早川書房)』【後編】」より引用。 http://sniper.jp/011review/0111book/post_1044.html R18記事へのバナーがでているので閲覧時にはご注意ください)と、批判しています。

勘の鋭いお白洲民のみなさまは、この批判が、「符号の現代文化論」でも継続していることにお気づきかと思います。宇野さんはみんなが好きなもの、執着しているものについてそれがどんな記号なのかを、ひとまず「決断主義」といった難しい言葉を使って教えてくれます。でも、『マンハッタン・ラブストーリー』とかネット論壇のような、自分が出してきた好きなものの例について、なんでそれが大事なのかぜんぜん読者と分かち合いません。そして、仮に「決断主義」とかいうものが好きな、あるいは共感できる消費者が、それが好きである理由を消費者がどう考えるべきかも、別に議論されていないのです。私の言葉で言い換えれば、「執着の愛」については饒舌で、「責任の愛」については沈黙しているのです。しかし、当時のさやわかさんは次の引用のように、ご自身でもこの課題をコンテンツと消費者に基づいて解決する方法が見えていなかったようです。

しかしまた、宇野が見出した、現在においては真正な物語を峻別することではなく、物語への態度、つきあい方を考える必要性こそが重視されるべきだという本書において提出された課題はいまだに残されたままだ。

「時代を切り拓くサブ・カルチャー批評『ゼロ年代の想像力(早川書房)』【後編】」より引用。http://sniper.jp/011review/0111book/post_1044.htmlR18記事へのバナーがでているので閲覧時にはご注意ください。

とはいえ、10年代を通じてカルチャーに向き合ったさやわかさんには、「物語への態度、つきあい方を考える必要性こそが重視されるべきだという本書において提出された課題」を、いまや符号という言葉を使うことで語っています。「物語への態度、つきあい方を考える」とは、自分がその作品の中の記号を読み取ってしまう行為について考えることにほかなりません。このように、長い月日が経っても、自身が批判した事柄の本質に向き合い続けて、ゼロ年代的なテーマに対する符号を私たちと分け合っているのは、「責任の愛」と呼べるでしょう。「愛について」語る責任を、まさにさやわかさんはここで引き受けているのです。一方で、宇野さんはというと、宮崎駿・押井守・富野由悠季を2017年に刊行された『母性のディストピア』で論じ、最終章も「「政治と文学」の再設定」といったように、旧来の文芸批評に回帰していくだけで、『ゼロ年代の想像力』で積み残した課題についてはいまいち関心すらないようです。私はこの点について、深く残念に思います。

さて、「愛について──符合の現代文化論」をどうしてみなさんがお読みになったほうがいいかは、もうおわかりいただいたと思います。ここに連載初回「(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」のリンクを貼っておくので、ぜひ読んでみてください。

https://www.genron-alpha.com/gb042_01/

また、最初の目標であった「カルチャーを語るカルチャー」としてのさやわかさんについても説明できたと思います。ゼロ年代批評というカルチャーの中で「責任」という、あまりにも当たり前過ぎてかえってゼロ年代批評には存在しなかった概念を導入したあと、この連載がどう展開していくのか、目が離せませんね!

というわけで、以下は余談、ささやかな追伸です。

この連載が始まった時から、私はさやわかさんのyoutubeの配信を見るようになりました。いつしか、それはシラスのチャンネルになりました。シラスから始まってからというもの、私の人生に、カルチャー薔薇色時代が始まりました。「カルチャーお白州」で紹介されるいろんなお話が楽しいですし、配信で劇団「普通」を知ることができて本当に感謝しています。もう「カルチャーお白洲」がない頃の生活が信じられないほどです。でも、配信を聞きながらずっともやもやしていたことがあります。「あの連載を読んでゼロ年代批評を引き受けていると思っているのなら、自分が10年代の批評に少しでも参加していたことを引き受けて、自分の責任を果たさないといけないのではないか」、といったようなずっしりと胸の底にたまるような感情です。とはいえ、私も生活に疲れ、そして悩みすぎて批評することをやめ、すっかり批評同人誌からも引退し、ほそほぞと生きていくだけでした。

「カルチャーお白州」が始まって1年と半年が経ったゴールデン・ウィーク、ひょんなことから、シラスのチャンネル「生うどんつちやの「シラスの台地で生きていく。」」の配信をしている第二期「ひらめき☆マンガ教室」受講生の土屋耕児郎こと土屋耕二さんの経営するうどん屋さんに数人のシラス視聴者のみなさんと一緒にお伺いすることになりました。そこで焼酎「佐藤」のうまさに感激して一升瓶を半分くらい飲んでしまった限界状態のときに土屋さんのチャンネルで、深夜から配信が始まりました。配信が始まると、「ひら☆マン」受講生のみなさまもご存知のある方が、土屋さんに見事なインタビューをはじめました。

さて、だんだんと私の意識も朦朧としていくなかで、なぜかトークテーマが「愛」となっていました。素晴らしいインタビューをしていた方は、私から「多少何かは引き出せるだろう」と思ったのか、私に質問していただいたのですが、酔っ払った私は、「なんでそんな難しいことを聞いてくるんだ」とまったく理不尽に怒り出してしまいました。泥酔、良くない。なぜかそのときの配信を見ていたさやわかさんにもコメント上で仲裁に入っていただき、事態は収拾されました。落ち着いてから、その方に「さやわかさんの愛についての連載は、どういうふうに読んでるんですか」と質問していただきました。私は間髪入れずに「神だよ」と答えました。それに対して、「中身については?」と具体的な点を深堀りする質問をしていただいたのですが、そのときは意識も怪しかったため、ぐだぐたになってきちんと答えられませんでした。でも、おそらく今日のお手紙で十分に「愛について──符合の現代文化論」がいかに大事かを語ることができたと思います。

私は生きている間に、こんなふうにして自分の人生の一部を形作ったものに責任を引き受けてくれた人の文章を読むことができて、死なずにいて良かったです。また、自分が10年代にした仕事にも責任をもつべきだということを思い起こさせていただきました。私も昔の批評を見直して、今の関心も加えて、リライトしていこうと思います。こんな気持にしていただいて、さやわかさん、本当にありがとうございます。

いろいろ話してきましたが、拙い文章をお聞きいただいたお白洲民のみなさま、こんな長文を読んでいただいたさやわかさん、本当にありがとうございました、というか、長くてごめんなさい。でも、このお手紙はもともと三部構成3万字のお手紙を2万字に短くしたけど、2万字も長いというわけで、第三部だけを再編集してすっごく短くしたお手紙なのです。もとのお手紙では、私が2010年代のはじめにゼロ年代批評とさやわかさんを知った頃のことや、ゼロ年代批評シーンが崩壊していった過程とその理由が書いてありました。このままどこにも発表しないのものもったいないので、お手紙回のお時間をお借りして連載させていただこうかな、などと考えています。もしもご感心あるかたは、来月からもう少しだけお付き合いいただけますと幸いです。また、さやわかさんには、来月から、もうちょっとだけ私のお手紙をお読みしていただきます。今後とも何卒よろしくおねがいします。それでは、みなさま、今日のオフ会を引き続きお楽しみください。また、今日という日を迎えた「カルチャーお白洲」が末永く続きますようにお祈ります。「愛は祈りだ。僕は祈る」。ご清聴ありがとうございました。