さやわかさん、カルチャーお白州民のみなさま、こんかんるちゃ。でぃおんたむと申し上げます。
8月20日に開催されました「正々堂々秘密の大集会」にて、さやわかさんにお送りしたお手紙で連載の予告をいたしました。しかし、なんと、その後『ユリイカ』から原稿の依頼があり、一ヶ月がまるまるつぶれてしまい、お手紙を書く時間がなかなかとれず、連載2回目のお手紙が遅れてしまいました。ちなみに、原稿は10月発売の今井哲也特集に掲載予定で、タイトルは「世界はおもちゃ箱――今井哲也について」です。ペンネームは、米原将磨(よねはらしょうま)です。この『ユリイカ』の号には、なんと、あのさやわかさんのインタビュー記事も掲載されています。私の原稿はどうでもいいのですが、さやわかさんのインタビューがとっても面白そうなので、みなさん要チェックですぞ。
さて、二ヶ月も時間が経ってしまったということもあり、前回の内容を忘れてしまった人も多いと思いますので、最初にかんたんにあらすじを述べさせていただきます。その次に、さやわかさんを私が初めて知った頃のこと、そのとき、なぜ私が批評などというものをやっていたのかについて「文学フリマ」の往年の雰囲気を語りつつ、ご紹介します。なお、予め申し上げるのですが、編集前のお手紙は3万字くらいあるため、今回もちょうどいいところで区切って次回に続きます。どうぞよろしくお願いいたします。
では、さっそく前回の要約をさせていただきます。
前回のお手紙では、webゲンロンで連載中の「愛について──符合の現代文化論」の要約と、ゼロ年代批評で積み残された課題にどう向き合っているのかについて、ゼロ年代的なスタイルのスタンダードを作った宇野常寛の主著をとりあげてお話しました。簡単にまとめると、連載「愛について」は、オタク的なコンテンツへの偏愛は「執着の愛」でしかなく、自分が執着する行為を一歩引いて理解して他人とわかちあい、それに責任をもつことを「責任の愛」とする、といった要約を私がしました。次に、宇野さんの『ゼロ年代の想像力』についてのさやわかさんの書評を、ゼロ時代のコンテンツの整理をして限界を指摘しているものの、最後は執着の愛に閉じた議論に終始して、コンテンツの消費者や読み手のことを無視した論を展開していた、とさやわかさんはたぶん考えていて、さやわかさんは10年代を通じて責任の愛について取り組んできたと言えるけど、それってとってもすごいよね、と私がまとめました。
要約もすんだとろこで、さやわかさんの文章と出会うところから今回はお話させていただきます。以下、6590字です。さやわかさん、よろしくお願いいたします。
時は2011年4月22日未明、神奈川県横浜市某所。多くの人々がそうであるように、私は寝ている家族を起こさないように、リビングルームのテレビの音を小さくして、食い入るように画面を見つめていました。
注釈。若人に言っておきたいのですが、当時はTVerなどという便利なサービスはないので、テレビを個人的に見る手段は限られていました。自室PCで見るためにPC用チューナーを買うとか、TVモニターを自分の部屋もちこみ、TV用の回線を引く、とかしか方法がないのです。そのいずれもできない場合は、一家に一台のテレビでアニメを静かに見るしかないのです。いいですか、これは、とっても辛いことです。でも、やるしかないんです。
さて、そんな私が家の人を起こさないようにこっそり見ていたその時のアニメとは、「魔法少女まどか☆マギカ」の最終回でした。一ヶ月前の3月5日に第11話「最後に残った道しるべ」が放映されたのですが、3月11日には東日本大震災が起きたため、「魔法少女まどか☆マギカ」の最終回の放送が延期になったのです。津波を思い起こさせる表現がある、といったことだったと記憶していますが、東京の被害もかなりあったので、単に放送することでのメリットがなかったのかな、と今となっては思います。結局は、一ヶ月後に軽微な被害を受けた地域に住む人々の生活が安定してきた4月22日に最終回が放送されたのでした。食い入るように最終回を見ていた私は、雑誌『ユリイカ』で「まどまぎ」の特集号が10月に刊行されたときには書店でつかみとって即購入。本屋を出たら、歩きながら頁をめくりだしていました。いまの『ユリイカ』からはあまり想像ができないのですが、かなり作り込んだレイアウトになっていました。最初に目を引くのが、各話のあらすじが、マットコート4色フルカラーで、1ページごとに各話のシーンの複数ショット付きで紹介されている点です。さらには、カラー口絵も志村貴子・今日マチ子・吾妻ひでお、などなどが手がけるという豪華なラインナップでした。はたまた、飯田一史による「魔法少女まどか☆マギカ事典」という3段組19頁という狂気の資料ページまでついていました。
私はそこで、さやわかさんのお名前を初めて知りました。ばるぼらさんとの対談「メディアにおける/としての『魔法少女まどか☆マギカ』」は、当時の「まどまぎ」が世代ごとにどう消費されたかの雰囲気を伝える非常に重要な記事なのですが、10年ぶりに読み返すと、「トランスクリプション&構成=さやわか」となっていて、中身うんぬんとかよりも、「え、対談した人が書き起こしまでやってるの……、見なかったことにしよ」といろいろ感じいってしまいました。
そうして、さやわかさんのことを知った私でしたが、お書きになった批評をきちんと読んだのは、また別の機会でした。それは、さやわかさんご著作『世界を物語として生きるために』に所収された米澤穂信論「日常系を推理する 米澤穂信と歴史的遠近法のダイナミズム」のもととなった論考を手にとったときです。つまり、その文章が所収された『BLACK PAST』第二巻の刊行された、2012年ことでした。ところで、多くのお白洲民はこの雑誌のことをあまりご存じないでしょうし、ご存知でも配布部数が多くはないため、お手にとったことのある方は少ないでしょう。『BLACK PAST』はゼロ年代の狂騒が少し落ち着いた2011年に第1号が文フリで刊行されました。私はこの時ちょうど高校2年生でした。実は、さきほど触れた飯田一史の「魔法少女まどか☆マギカ事典」でも、『BLACK PAST』が参照されています。なぜなら、「魔法少女まどか☆マギカ」の脚本を担当した虚淵玄のインタビューが掲載されたのが、その『BLACK PAST』だったからです。というわけで、私はその本もまた買っていたのでした。
また、文学フリマは、近年各地で開催されていることもあり名前を知っている方はまぁまぁいらっしゃるかと存じますが、ひら☆マンでCOMITIAが有名な一方で、カルチャーお白洲をご視聴のみなさまはあまり文学フリマに馴染みがないかもしれないので、念の為、ゼロ年代から十年代初期にかけての文学フリマの様子を説明したいと思います。
まず、文学フリマとは、ざっくりいってマンガ以外の同人誌を売るところです。小説や詩、そして批評だけでなく、独自の調査で集めた資料などもあります。紀行文つきの廃墟写真集なんかもありますし、ある作家の全集未収録作品を発見してきて解説付きで収録して頒布している人もいました。というか、マンガ以外とか言いましたが、マンガを頒布している人もいたので、「文字ばっかりの同人誌が多いCOMITIA」と思っていただければと思います。
そんな文学フリマの名前が広く知られるようになったのは、その昔、東浩紀が中心となって開催された「ゼロアカ道場」という一連のプロジェクとイベントがその一因であるとはいえるでしょう。2007年に「第四回関門」と呼ばれるイベントが開かれ、同人雑誌を編集してつくり、文学フリマで売ることになりました。東京都中小企業振興公社秋葉原庁舎で開催されたそのイベントは大盛りあがりでした。諸事情あり、翌年からは大田区産業プラザPiO 大展示ホールでの開催となりました。なお、私はゼロアカは直接経験していなかったので、大田区産業プラザPiOで開催された文学フリマが初めて行った文学フリマでした。2010年を少し過ぎた頃の文学フリマは、今のように書店でも流通するような批評同人誌とは異なり、野良な感じの批評同人誌がたくさんありました。例えば、私にとって愛着があるものに限って挙げると、アニメ批評同人誌『アニメルカ』や腐女子批評誌『girl!(ガール!)』といったものがありました。ほかにもさまざな批評同人誌があり、売れ筋のものは数百部印刷しても印刷費がほぼ会場で回収できるという時代でした。そう、10年代に入ってからもゼロ年代の批評の空気は生きていたのです。そして、私もまた、高校生の頃から批評同人誌の論評に対してツイッターで論戦を張り、その結果『アニメルカ』編集長に発掘され、高校生のうちに『アニメルカ』へちょっとした批評を掲載することにもなりました。
また、若くて勢いだけはとにかくあった私は、『短歌研究』という短歌専門雑誌の評論賞部門で高校生の時に次席になるなどもしていました。現在ではカルチャーの中で短歌が目立っているので、アニメとかで批評を書いている人が短歌について論じても違和感はあまりないですが、当時はそうではありませんでした。理由としては、セミクローズドなmixiとは違う、オープンなSNSがいまほど普及していなかったので、若い世代の短歌クラスタがつくられず、アニメと短歌を両方語る事自体奇妙に見えているようでしたし、SNSの短文投稿で気軽に短歌を共有できるということもなかったため、短歌をやることがカルチャーっぽさとして広まっていなかった、ということも考えられます。
もちろん、深く短歌の創作に熱を上げていれば、すでにウェブ頁をもっていた短歌サークルに接触できたでしょうが、アニメ・音楽・批評に大忙しだった私はとくに探しもしませんでした。私自身は昔から短歌を読んでいたとはいえ、応募することにした理由は、短歌というコンテンツがとても好きだったからというより、本屋で適当に評論賞で応募できるところがないかを探していたときに『短歌研究』を手に取ると、評論部門のお題がたまたま自分に書けるものだったというだけです。若いと怖いくらいに調子のったやつになりますが、若いということはそれ以外取り柄がないので、もしもこのお手紙を耳で聞いている高校生か大学生の人がいたら、YouTubeでもブログでもなんでもいいので、とにかく行動しましょう。「カルチャーお白洲」の理論編で鍛えた力を発揮するのです!
そういうわけで、若かった私は短歌について書いたのですが、これには同時代的な理由があったと考えています。というのも、地元の書店が『短歌研究』というマイナーな専門誌をおいているほど、2010年に入る頃の短歌界は大きな変革の時代を迎え、流行の兆しがあったと指摘できると思うからです。具体的には、80年代生まれの世代が短歌界隈で台頭し始め、笹井宏之(ささいひろゆき)の衝撃からまもなく、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)で2013年に「新鋭短歌シリーズ」の刊行が開始しました。現代短歌の歴史をふりかえってざっくり整理すると、80年代の俵万智という転換点の一人勝ち、90年代の穂村弘・東直子(ひがしなおこ)ほか新しい歌人たちの登場による60-70年代の歌人の撤退、そして、瀬戸夏子(せとなつこ)や笹井宏之といった10年代歌人たちの台頭と短歌批評シーンの変化、そして穂村弘の再流行、と簡単にまとめられます。穂村弘の2010年前後の流行で、短歌を詠む人というのは文学フリマで目立っていました。当時の文学フリマの参加グループを見ればわかるように、「詩歌」とよばれるような短歌、俳句、現代詩を扱ったブースは全体の2割から3割くらいを占めていたようで、多くは短歌でした。そして、客観的にみれば私のような批評好きたちのブースは、1割を占める程度の少数派でした。しかし、批評同人誌がまぁまぁ売れていたせいもあり、たちの悪いことに、自分たちは十分に世間で認められてるのだ、と考えていた節さえあったように思います。
少し固有名詞が多くなってきたので、いったん当時の状況を『ONE PIECE』にたとえて整理しましょう。10年代のはじめは、私のような有象無象のルーキーたちが航海に乗り出していきました。『BLACK PAST』の仕掛け人坂上秋成さんなどの七武海(福嶋亮大・泉信行・黒瀬陽平・村上裕一・藤田直哉・山川賢一)、そして宇野常寛・濱野智史・鈴木健・さやわかといった四皇が10年代に入ったばかりの海に散らばっていました。世はまさにカルチャー批評全盛時代。なお、この分類は当時からそう見えたのではなく、今から振り返って、ゼロアカ周辺の風景はこのように整理できたのではないか、という図式です。宇野さんと同様に、濱野さんの『アーキテクチャの生態系』は、それはそれはみんな引用していましたし、鈴木さんの『なめらかな社会とその敵』は同時代のSF界隈に大きな影響を与えました。そして、当時はまだ広く読まれてはいないさやわかさんでしたが、コンテンツの単体の批評での名前を見ないときがないほどたくさん書いていらっしゃいましたし、多くの雑誌で構成のお仕事をしていることからも、極めて重要なプレイヤーでした。しかし、昔はそういったことを何一つとして理解していませんでした。現実は『ONE PIECE』ではないので、そのときには七武海とか四皇とか、そんなにはっきり分類できるようにはもちろんなっていませんでした。
では、整理したところで、私がさやわかさんの名前を知った頃に話を戻しましょう。高校を卒業して大学生になり、2012年に偉大なる航路(グランドライン)に入ったばかりなのに、いっぱしの批評家気取りだった私は、『BLACK PAST』の第2巻を買うときにも、「いまはどんな人が「同業者」なんだろう」と、若者にありがちな微笑ましい傲慢な気持ちで「さやわか」という名前を目にしました。そして、さやわかさんの「日常系を推理する」を読んでも、私は愚かな感想を抱くばかりでした。
【ト書き ここは生意気っぽく】
んー、アメリカのポスモダからミニマリズムの流れをセカイ系から日常系にあてはめるんだー。面白いけど、京アニも米澤もアメリカ以外の文脈多すぎるし、たんにだいたいの芸術は純粋になって先鋭化するってやつでは?というか、作品が常に未来から参照されるなんて当たり前じゃん、何をしょっぱいことを言ってるんだ、そういや、『ユリイカ』のまどまぎ特集にもこの人いたけど、「さやわか」ってなに?
当時の米原将磨の心の声
当時の私を殴ってやりたいです。さやわかさん、ごめんなさい。
あの頃の私は、「常に未来から参照される」、そのことの本当の意味がわからなかったのでした。しかし、今の私にはよくわかります。何かを書き、誰かがそれを受け取り、未来に言葉を紡いでいくことが批評という営為なのです。だからこそ、批評をするとき、未来に参照されるべき人間として、書くことに責任をもつ必要がある。このことの意味と重さを当時の私はまったく理解していなかったのです。
このようにして「さやわか」という10年代を通じてカルチャー批評に大きな足跡を残していった人物について、その名を目にした当時の私はほとんど何も知らず、あまつさえ、愚かな感想を抱いていました。
ところで、お聞きになっているみなさんはそろそろ違和感を覚えているかと思いますが、ここでは現在からふりかえって当時の同人誌批評のジャンルを「カルチャー批評」と呼んできました。しかし、当時はそんな言葉は流通していませんでした。同じものは「サブカルチャー批評」だとか、少し新しい名前として「コンテンツ批評」と呼ばれていたのです。たとえば、2011年に『コンテンツ批評に未来はあるか』という本が出版され、あたかもサブカルチャー批評でもカルチャー批評でも、その他のなんとか批評でもないものが新しく生まれていたかのように喧伝されていたのでした。しかし、そのコンテンツの対象は、私の知る範囲では、極めて限定的で、例えばダイビングについて批評したとしても「それはライターの仕事か、社会学者の仕事で批評の仕事ではない」といったような奇妙な空気が流れていました。コンテンツ批評のコンテンツとは、アイドル、アニメ、ビジュアルノベルを含む文学、マンガ、映画とテレビドラマ、音楽、ニコニコ動画、一部のゲームを対象としているだけでした。
おいしいお店について話すかと思えば水中にも潜ってみせる「カルチャーお白洲」をご視聴のみなさまは信じられないかもしれないですが、いまでも、コンテンツ批評という名前はなくなっても、「カルチャー批評」とか「サブカルチャー批評」と聞いたときには、ニコ動がVtuberに変わるなどしていますが、このあたりが中心になっているかと思います。ゼロ年代は、ビジュアルノベルとニコ動を大きく取り上げた点で過去のカルチャー批評と大きく異なっていましたが、だいたいの若いうるさがたはそういうのに食いつくもので、そのことが何か大きな思想の流れをつくりはしませんでした。ちなみに、「コンテンツ批評」とは何か、あるいは何だったのか、についてはさやわかさんがいつか「お白洲」で詳しく説明してくださると思います、と無茶ぶりしておきます。いずれにせよ、このお手紙では、「コンテンツ批評」という言葉がもしかしたらいまの人たちにはあまり自明ではないかもしれないので使うのを避け、「カルチャー批評」というより一般的に思われる言葉遣いを採用しました。
というわけで、こんなふうにしてふりかえってみると、10年代のはじめの頃、カルチャーに関わる人間として仕事をしていくという夢を何一つ疑いえないほど批評というものは盛り上がっていたのは確かなのです。しかし、ゼロ年代の一連のカルチャー批評の潮流は10年代の中頃に急速に勢いを失っていきました。その崩壊は見えないところではっきりとすすんでいき、見えているところでは何が起きているかもわからないまま目の前のものがどんどん朽ち果てていき、そのすべてが終わる頃には、はじめから何もなかったようになっていたのです。あたかも、かつて人々が何かの目的でつくりあげた建物が廃墟になってしまい、もう誰もそこでの生活の様子がわからなくなってしまったように。
今回はここまでです。次回は、わたくしことでぃおんたむが大学に入学して初めて東浩紀と会話し、そして、どうしてゼロ年代批評のグルーブが消滅していったのかについて、ゼロ年代批評クラスタに近づきつつも離れていた私の観点からお話いたします。
次回も~サービスサービスっ。