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米原将磨

「カルチャーお白洲」お手紙回2022年10月(連載第3回)

さやわかさん、カルチャーお白州民のみなさま、こんかんるちゃ。でぃおんたむと申し上げます。

8月20日に開催されました「正々堂々秘密の大集会」にて、さやわかさんにお送りしたお手紙で連載の予告をいたしました。8月、10月と2回連載させていただきましたが、今回が最終回です。年を越さなくて良かったです。とはいえ、最終回なので大長編です。覚悟の1万7192字。さやわかさん、どうぞよろしくお願いいたします、と書いていたのですが、さすがに長過ぎるので、ほどよいところで区切りました。というわけで、今回は、私が早稲田大学に入学してから東浩紀と出会った日から始まり、どうしてゼロ年代批評的なものの空気が消えてしまっていたのかについて、全部で4つの観点から分析したもののうち、最初の1つについて説明しています。

では毎回長いお手紙のため、いつもどおり前回の振り返りをさせていただきます。

連載第1回では、webゲンロンで連載中の「愛について──符合の現代文化論」の要約をし、ゼロ年代批評で積み残された課題にどう向き合っているのかに関わることをしているのだ、と指摘し、さやわかさんの継続的な批評行為について、その文脈を明確にしました。全文はこちらでお読みいただけます。【連載1回目 https://diontum.com/「カルチャーお白洲」お手紙回2022年8月/】

連載第2回では、文学フリマとさやわかさんのことを知った頃のことをお話いたしました。2010年代の初頭では、文学フリマで批評は売れていたけど、実は少数派だったということや、四皇や七武海になぞらえて当時の批評家たちの整理をしました。ちなみに、さやわかさんは四皇でした。全文はこちらでお読みいただけます。【連載2回目 https://diontum.com/「カルチャーお白洲」お手紙回2022年10月(連載第2回/】

では、今回のお話にはいらせていただきます。以下、6980文字。さやわかさん、どうぞよろしくお願いいたします。

2012年5月18日金曜日、少し雨がちらつく夜のことでした。私の目の前に気っ風よく弁舌をふるう初老の男性がいました。煙草の煙がゆったりと天井にのぼっていく薄暗いお店の中で、若い男性たちが彼を囲んで意味ありげにその話に相槌を打っています。一方で、テーブルの端のほうでは、最近のコンテンツについての意見交換や、誰それと誰それがまたやりあっているといった論壇ゴシップがやかましくかわされていました。

みなさんお気づきのこととは思いますが、この男性とは、東浩紀さんのことです。そこには、2011年9月に『ゴーストの条件―クラウドを巡礼する想像力』を出版した村上裕一さんもいらっしゃいました。当時の東さんが担当していた授業のゲスト講師として村上さんがいらっしゃっていたのです。私はその授業を受講してはいなかったのですが、ツイッターで東さんが告知をしていたたため、勝手に行っていいだろうと忖度して期待に胸をくらませて行くことにしていました。わたしの頭の中では、席とり合戦の起きたアンリ・ベルクソンのコレージュ・ド・フランスの講義、階段に座り込む学生に溢れたヴァンセンヌ時代のジル・ドゥルーズの授業を思い描き、そういった時代を作るような、ひりつくような熱気がそこにはあるはずだ、と思っていました。万が一座る席がなくなってしまうことにも備え、キャンプ用の簡易的なパイプ椅子を鞄につめて、何がなんでも受講してやるという決死の覚悟を決めていきました。

しかし、いざ当日になって教室に行ってみると、扉に張り紙もなく、中に入っても教室は閑散としていました。私より先に来ていたのは、2人か3人かの男性だけで「あれ、君は見ない顔だけど、誰?」みたいな顔をされました。机にきっちり座れば40人は入れるであろう教室はあまりにも広すぎて、私が想像していたゼロ年代の熱気は存在していませんでした。時間になればきっと大量の人が押し寄せるのだろうという期待も虚しく、集まったのは10人いるかいないか程度でした。

かなり早くから待っていた私は、他の人からツイッターアカウントの候補から消去法で特定され、「もしかして、ツイッターのアカウント名は米原将磨(よねはらしょうま)さんですか」といきなり話しかけられました。「ネトスト怖い!」とびくつきながら「は、はい、そうです」などといったやりとりがありましたが、まったく雑談が続かず、教室はふたたび静寂に包まれました。話しかけていただいたのは大変ありがたかったのですが、私には雑談する力がまったくなかったのです。

このときカルチャーお白洲があれば、2022年7月5日配信「理論編(ノウハウ #27)「説明の技術」⑥~苦手な人のための会話術:相手の答え方を指定する」で、ほどほどな感じで雑談する方法を身につけられていたのに……。しかし、私も18歳でしたし、シラスもありませんでした。当時の先輩方には申し訳ないのですが、雑談が続かなかったのは、別に不機嫌だったわけではなく、雑談力もなかったし、緊張してうまく話せなかっただけです。

そんなこんなで、三々五々に人が集まると、私以外の全員がお互いに知り合いのような雰囲気の中、東さんと村上さんが教室に入ってきて、『ゴーストの条件』について村上さんがレクチャーをはじめました。

レクチャーの間、私だけが何かにとり憑かれたようにメモをしていました。そのためか、レクチャーが終わったときには疲れ果て、質問時間になっても、私はぼうっとしていて漫然としていました。会場でも、そもそも本を熟読してきた人間はいないらしく、本を読んでなくてもできるようなあいまいな質問が1つか2つでました。東さんもなんとか授業を楽しくさせようといろいろ意見を出していたのですが、いまいち盛り上がりません。そんな中、こちらを向いた東さんが私にこう言いました。

「君、すっごいメモしてたけど、何か質問とかない、大丈夫?」

いきなり話かけていただき、心の中で「貴様ッ!見ていたなッ!」と叫んだのですが、私の口からでてきたのは「あーうー」という曖昧な言葉ばかりでした。そして、数秒後、なんとかして、ない頭を振り絞ってこんな質問をしました。

【ト書き 少し震え声で】「早稲田大学の近くにある夏目坂をのぼっていくと、清源寺というお寺があり、水子供養をしています。『ゴーストの条件』では、水子が重要なモチーフになっていますが、こちらには行かれて何かの参考にしたことがありますか」

当時の米原将磨の質問内容(再現)

「レクチャー関係ないじゃん!、何をメモしてたんだよ」と今の私は過去の私にツッコむしかないのですが、この質問は「え、そうなんだ」と東さんもリアクションできる程度にはまともな質問だったようです。村上さんもそのお寺には訪れたことがあるそうで、水子供養と日本の文化の結びつきについて、いろいろ考えていたようです。なお、夏目坂の夏目は、あの夏目漱石に由来しています。彼が養子になって住んでいた家があったことにちなんでいます。

ところで、自分でツッコミをいれたように、私は人の話や授業のときに、すごくメモするタイプの人でした。それはそれで勉強になったのですが、「質問ありますか」という貴重な時間を有効活用するうえで、メモしがちな人は弱いように思います。リアルな場所で人の話を聞くときは、ある程度の詳細を諦めて、「この人の話をよく考えると、すこしわからないところがあるぞ」といった内省の時間を確保するほうが重要なようにいまは思います。もちろん、内省なしでとにかくメモ、というのは受験勉強のときや語学勉強のときには役に立つと思っています。さやわかさん、お白州民のみなさま、いかが思われますか。

さて、レクチャーが終わったあと、フォレスタというお店で打ち上げすることになりました。大学から一番近い店で、ネットで検索したかぎり確実にノンアルコールビールを提供している店でした。東さんはその日は車で来ていたので、そうした理由でフォレスタに入ることになりました。フォレスタは、夏目坂を下りきったところにあるお店でした。

レクチャーの打ち上げには、村上さんや坂上さんといった七武海が何人かいて、私より先に航海にでていたルーキーたちもいました。『アニメルカ』に掲載されていた批評もすでに読まれていて、「君があれが書いてた人なのか」、と村上さんに細かい点でのアドバイスをもらいました。

席の入れ替えがあり、東さんの向かいに座ることになった私は挨拶をすませると、コンテクチュアズがゲンロンに社名を変更したばかりだったので、その話をしました。そのまま今後のビジネス事業の展開についての話になり、東さんは言いました。

「僕ね、カフェやろうと思ってんだよね、今年には始まる予感……」

「カフェ? コーヒーとか出すんですか」

勘の悪い私は要領を得ません。

「そうじゃなくて、ロフトプラスワンみたいにイベントとかやるんだよ」

「え、すごい」

当時の会話の内容をそれらしくしたもの

この些細なやりとりは覚えているのですが、それ以外は覚えおらず、人間の記憶とはつくづく怪しいものです。ちなみに、私は人生で一度もロフトプラスワンに行ったことがないです。

東さんが帰るタイミングでいったん打ち上げは解散し、夏目坂をのぼりきったすこし先にある駐車場に向かう東さんを見送りながら七武海とルーキーたちは二次会に向かいました。東さんがはきはきとのぼっていく夏目坂の先に、当時の私の下宿があったので、自分の姿をそこに重ねさえしました。18歳というのは、そういうものですよね。

あの時初めて東さんと話したフォレスタは、ビルごと解体され、新しいビルはいまだに建たず、店舗が別の場所に戻ってくることもありませんでした。新型コロナウィルス感染症流行下での出来事でした。東さんや、七武海やルーキーたちがかつてあそこにいたことを証明するものは更地以外にはもう何も残っていません。

ところで、東さんの考えていたその「カフェ」は、翌年の2013年にイベントスペース「ゲンロンカフェ」としてオープンしました。『ゲンロン戦記』で語られているように、経営上では会社の徒花でしかなかったはずのゲンロンカフェが、いつのまにか売上を支えるようになり、2015年には新芸術校と批評再生塾という2つのスクールが開講します。しかし、このスクールにはいわゆるゼロ年代のカルチャー批評の集団は、七武海の黒瀬陽平がスクール運営の主催をつとめている以外、ほぼ参加していなかったといえるでしょう。2015年までにゼロ年代批評の集団は自然消滅していこうとしていたからです。

とはいえ、その消えかける手前の2014年、私は村上裕一さんによる、ビジュアルノベルについてこの世界で最後に総合的な文化批評を行った『ノベルゲームの思想』というゲンロンカフェでの講義に参加し、最後の熱気を感じることができました。このとき、「ゲンロンスクール」と題してパッケージ化されたイベントが組まれていて、『ノベルゲームの思想』は全部で3回の講義でした。第1回目が盛り上がり、第2回目から現地参加者が増え、40人近く集結し、私もその中にいました。第3回が開催された4月19日は終わりゆくヴィジュアルノベルゲームは一体どこに向かっていくのかについて、スマートフォンの普及によってキャラクターとの物語を通じた擬似的にインタラクティブな関係を構築できるようにするスマホゲームが今後ますます普及し、ノベルゲームのミームは生き続けるといった主張を展開し、感動した聴衆が大盛りあがり。現場にかけつけていた東浩紀が「朝まで『Air』をやるしかないだろう」とスクリーンに『Air』を投影し、名シーンを振り返るなど、現場感に溢れてました。あゝ、ゼロ年代。しかし、よく考えると、ゼロ年代批評の中心的コンテンツだったヴィジュアルノベルゲームの時代が終わった、と宣言する講義だったのですから、その盛り上がりは奇妙なものでした。しかも、その後の批評はどこに向かうのかというと、ヴィジュアルノベルゲームのミームを追う、という内容でした。

確かに、多くのヴィジュアルノベルゲームのライターたちは、現在、スマホゲームのシナリオライターをしていますし、スマホゲームの体験をヴィジュアルノベルゲームの形式を応用して再現できているのはスマートフォンというアーキテクチャのおかげなのだ、といえなくもないです。しかし、新しいツールでの新しいコンテンツは、先行世代の文脈を引き受けつつ、新しい文脈を展開していきます。だからこそ、「ヴィジュアルノベルゲーム」といったように、ただの小説でもゲームでもないコンテンツとしてジャンルをわざわざ区切ってはいなかったでしょうか。だとすると、スマホでノベルゲームをしているとき、それは本当に「ヴィジュアルノベルゲーム」と言ってしまっていいのかどうかまず考えるべきではないでしょうか。そう、何が言いたいかというと、ゼロ年代批評はこのとき、すでに、次に何をすべきかという方向性を個々人では持っていたとしても、自分たちの所属していたクラスタで何をしていくかについて考えていた人は一人もいなかったのです。だからこそ、2015年にスクールが開講したさいに、自分の向かう先の決まった人や、自分だけでしたいことの決まっていたゼロ年代批評勢はスクールの動きに積極的に合流しようとしなかったのだと、想像しています。

では、なぜこんなことになってしまったのでしょうか。いまから、その理由について、(1)閉鎖性、(2)脆弱性、(3)依存性、(4)時代性という4つの観点から説明させていただきます。今回のお手紙では、(1)閉鎖性のみお話いたします。

閉鎖性と聞くと、これは誰もがゼロ年代批評界隈のイメージとして共有していることだと思います。具体例を挙げましょう。

ゼロ年代批評をやっていく、ということは『前田敦子はキリストを超えた』のような本についていくということです。当たり前ですが、ついていけません。普通に考えて超えるとか超えないの話ではないですし、こういう競争を煽って何かの優位性を示したがる傍若無人なタイトルそのものが強烈なホモソーシャル性を前景化していたと言えるでしょう。

また、コンテンツ批評で対象となる範囲はとても狭い、と連載第2回のお手紙で指摘しました。これも閉鎖性をもたらす要因でした。そもそも、コンテンツとは様々なジャンルを包摂できるマーケティング用語を批評に持ち込むことで、批評する対象の垣根を超えていこうとする目的もあったはずでした。しかし、麻枝准作品、アイドルゲーム、AKBを中心としていたように、コンテンツの範囲は限られ、ジャンルの序列化がなされ、結局は本来はなくそうとしていたジャンルの垣根を自分たちでもう一度作ってしまったのです。なお、こうした垣根をつくることで何が生み出されるかというと、自分が一番「愛」についてよく知っているという閉鎖的な競争です。まさしく、執着の愛であり、これはどれほど批評的な言葉を使っていたとしても、あまり広がりがありません。とはいえ、アカデミズムでも「自分が一番わかっているやつなんだ」という競争はありますから、とくにゼロ年代批評の問題というわけではなく、同質的な狭いコミュニティではこれが起きがちなのかもしれません。この「自分が一番わかっている」という執着の愛から一歩引く責任の愛とは本当に難しいものです。

とはいえ、閉鎖性は言葉の雰囲気とは別に、ポジティブな側面もあります。これはかつて私を見込んでくれた方々に感謝する必要があるので、きちんと触れておきたいです。

今の私がこんなふうに連載できるような引きのある文章をつくり、対談などの編集を任されてそれなりに読み物として面白く記事を作れるのは、その閉鎖性ゆえに、私に仕事がたくさん回ってきて、経験を積む機会をいただいたからです。向こうとしては人手不足、こちらとしては編集の経験つめるしお金も入るという循環は、ある程度の仕事相手の「知識」・「能力」・「締め切りを守れるどうか」といった信頼をあらかじめ推し量ることができるようなコネがないと生まれません。つまり、ある程度は閉鎖的だからこそできるわけです。ただし、この構造は、閉鎖性が強すぎると、「お前は別のグループのやつと仕事したな、この裏切り者!総括だ!」と連合赤軍になってしまうので、何事もほどほどが重要ですね。なお、私の知っている範囲ではそこまでひどい閉鎖性はゼロ年代批評の人たちにはなかったように思います。あったとしても、運良く私はそうした人たちとは関わっていませんでした。

最後に、閉鎖的であることによってもたらされた結末についてお話します。

私がフォレスタで食事をともにし、『アニメルカ』に掲載していた批評にコメントをしてくれた人として登場していただいた村上裕一さんですが、彼の主著『ゴーストの条件』の副題は、「クラウドを巡礼する想像力」でした。この「巡礼」とは、「聖地巡礼」のことで、観光社会学やツーリズムに着目した文化批評では重要な概念となっています。簡単にいうと、聖地巡礼は、昔は宗教的施設といったモニュメントをめぐるものだったものが、現在は、アニメという虚構で参照された場所にいき、同じ構図で写真をとるだけといった行為になっている、という違いをどのように考えるべきか、という議論です。村上さんはキャラクターの存在の実感を高めるのに土地との結びつきが重要であると、かなり初期に指摘した人だったといえます。例えば、この議論によって「温泉むすめ」というキャラクターが、そもそもなぜキャラクターとして求められたのか、という問いを立てて考察することも可能にするなど、2020年代にも通用しそうな話ではあるわけです。

しかし、ある研究会で聖地巡礼の話になったとき、観光社会学の中での最近の「聖地巡礼」的な議論の土台となっているものには、2014年の『サブカルチャー聖地巡礼 : アニメ聖地と戦国史蹟』だとか、2018年の『アニメ聖地巡礼の観光社会学』 といった学術書ばかりでした。つまり、村上裕一さんは存在しないことになっていたのです。なぜそんなことになったかというと、村上さんの議論の型だけを取り出して外に展開する人が後に続かず、彼が取り上げたコンテンツの話しかできない人、あるいは特定のコンテンツの話しかしたくない人だけが残っていたからだと思います。2012年のあの熱気のない教室からも察せられるように。そして、あの教室から10年後、ゼロ年代批評の重要な著作はもうすでに忘れ去られていたのでした。

閉鎖性については以上です。そして、ここで今回のお手紙は終わりです。次回の最終回では、残された論点である(2)脆弱性・(3)依存性・(4)時代性についてお手紙を書いています。七武海と四皇たちの10年代の活動をすべてをたどりながら、新世界にたどり着かず、グランドラインを生き延びることができなかったかつての自分と仲間たちに鎮魂歌を捧げ、私がもう一度新世界を目指す話をしたいと思います。

次回、最終回。絶対運命黙示録。