頼山陽は数え年38歳のときに九州に旅立った。筑紫から南へ行き、日田の廣瀬淡窓を尋ねた。私も、偶然同じ道をたどった。
九州に転属になった友人の無聊をなぐさめるために赤坂に行き、友人と話した。次の日に天神で車を借りて大分に向かった。途中で朝倉路に向かい、甘木ICを降りてまっすぐに進み、途中二度ほど道を折れると甘木歴史資料館にたどり着く。
甘木歴史資料館は現在工事中で見学中ずっと威勢の良い音が聞こえる。甘木絞りを初めてみて、いたく感銘を受けた。鹿子の紋様をあしらったその絞りはデザインは素晴らしいのだが、和裁をしている自分の視点では、とくに袖口が気になった。最近の男性着物は袖に財布をしまうためか、袖口が大きく作られている。一方で、私が自分のために仕立てている今の着物は、袖口を小さくしている。ひとことでいうと、ドアノブをあけるのにひっかかるのが嫌なので袖口を小さくしている。しかし、そもそも労働をしている人間が口の大きい着物をはおるなど想像に難い。展示されてる甘木絞りには人形があるので男物だとすぐにわかったのだが、男女問わず着ていたのかもしれない。
このあたりで発見された青銅鏡の複製の展示も興味深かった。紋様は細密で、漢字が彫られている。古墳時代の中国文化との交流はわからないことが多いが、対馬経由での交流が数千年はある九州だけはあって古代の出土品は奈良よりもはるかに古い。そらみつやまとに対してしらぬひ筑紫のヤマト朝廷に併合される過程がますます気になった。なお、甘木歴史資料館の入り口横にある風化した郵便ポストもなかなか趣がある。
高速に戻って大分の日田に入った。「こころよきつかれなるかな息もつかず仕事をしたる後のこの疲れ」と『一握の砂』の「我を愛する歌」に所収されている短歌が揮毫された真新しい御影石の石碑が目に入って、なんのゆかりもないのにどうしたのだろうと思った。最近はどの地方でもそういうものなのかもしれない。気を取り直して豆田町の商店街に入ると、風情のある街並みが目の前に広がった。昼ごはんをまずは宝華ですませた。日田焼きそばという少し硬い麺で炒められた焼きそばなのだが、フライパンで湯がく焼きそばとは異なる食感でなかなか楽しめた。味についても、ソースの風味よりも塩胡椒を基調にしているようで、大変おいしかった。
昼食後、資料館に向かった。日田の観光では「天領日田」という標語によく出会う。この資料館も例に漏れず「天領日田資料館」という名前だった。外装は江戸時代の商家を意識している。中はぐるりと一周の回るのにじっくり読んでも30分程度だったが、よくまとまっていた。なお、天領は明治時代行以降の呼称なのだが、江戸時代の展示が大きく割合を占めているのは政治的な配慮なのかもしれない。九州の主要な都市では、西南戦争の慰霊碑が残っているので、こうした展示の内容にも無視できない歴史の要請があるのかもしれない。展示では日田はそれほど西南戦争の被害はなかったようだった。印象に残った展示としては、廣瀬淡窓の塾「咸宜園」だった。頼山陽は廣瀬淡窓に会いに行っている。そこでの交流についてはあまり触れられていなかったが、寛政年間の文人ネットワークが広島と日田を繋いでいるのになかなか感慨深いものがあった。
資料館のあとで、クンチョウ酒造に向かった。恥ずかしながら大分の酒には詳しくなく、「薫長」というブランドも知らなかったので久兵衛(本醸造甘口)・秋子(本醸造辛口)・薫長(純米)の三種類350mlセットを購入した。ホテルで飲んだが、本醸造は口に強い香りが残るが、飲みやすく驚いた。薫長はそれほどではないが軽い口当たりが塩気のある食事とよく合いそうだった。