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米原将磨

「カルチャーお白洲」お手紙回2022年8月(連載初回)

盛夏のみぎり、さやわかさま、「カルチャーお白洲」ご視聴者のみなさまにおかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。diontum(でぃおんたむ)と申し上げます。

チャンネル公開したその日から当番組が2年目を迎え、こうして視聴者のみなさまと顔を合わせる機会を、つくっていただき、さやわかさん、ありがとうございます。

この度は、「カルチャーお白洲」で初めて開催されるオフ会こと「正々堂々秘密の大集会」に合わせて、初めてお手紙を出させていただきました。拙い文章ではございますが、お聞きいただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、利発で聡明、ウィットに富んだお白洲民のみなさまが、長野県南北に別れた2つのサッカーチームが対立する背景にある抗争の歴史から、プラネタリウムの最新事情まで、幅広いカルチャーを配信してくださる名物コーナー、それがお手紙回です。しかし、意外なことですが、配信しているさやわかさん自身については、私がお手紙回を聞いた限りでは、実はどのお手紙でも語られたことがありませんでした。カルチャーについて語るさやわかさん自身もまた、その来歴を考えると、カルチャーとして語るべき対象のように私には思われます。

そこで、今回はさやわかさんがwebゲンロンで連載している連載「愛について──符合の現代文化論」について、実はまだ読んでいない、あるいは、「読んだけどそんなに内容を覚えていないかも……」というお白洲民のみなさまにご紹介するかたちで、「カルチャーとしてのさやわかさん」について説明しようと思います。

このお手紙では、「カルチャーとしてのさやわかさん」として、「カルチャーを語ってる人のカルチャー、つまり、カルチャーを語るカルチャーがあるとしましょう」という、ちょっとメタな視点を導入します。さやわかさんは、カルチャーについて語るのと同じくらいに、カルチャーを語る人についても話題にする人なのでこれはご納得いただけると思います。最近でも、「サブカルチャー」をめぐる暗黒の歴史について配信していましたね。では、さやわかさんはどんな「カルチャーを語るカルチャー」の中にいるのでしょうか。いつか書かれるさやわかさんについての批評では様々な観点が提示されるひとでしょうが、今回は、時代という観点を取りましょう。「カルチャーお白洲」でも「理論編(ノウハウ #10)「さやわか式・資料の読み方、集め方、あと管理」④~超重要!年表を作るノウハウ」(https://shirasu.io/t/someru/c/someru/p/20210824214437)で、年を整理することの重要性やクリエイティブな側面が語られていました。今回は、ひとまずゼロ年代に書かれていたさやわかさんの文章に注目して、「ゼロ年代から10年代にかけてのカルチャー批評のカルチャーに関わっていたさやわかさん」、という観点から、「愛について──符合の現代文化論」を説明したいです。なぜ、ゼロ年代かについては、あとでご説明しますが、ざっくり2000年から2020年までの20年の年表をみなさんの頭の中に用意していただけますと幸いです。いち、に、さん、はい、もうみなさんの頭の中に20年の間にあったカルチャーとして大事なコンテンツや事件が頭の中に思い浮かびましたね。それを心にとめながら、次からのお話を聞いていただけますと幸いです。

まず、「愛について──符合の現代文化論」の連載が始まった年を確認しましょう。連載が始まったのは、2019年10月でした。2010年代が終わる最後の年です。この年は、戦後のカルチャー史においてとても象徴的でした。2010年代のコンテンツにおいて、とりわけ重要だったMCUシリーズの区切りとなる作品『アベンジャーズ/エンドゲーム』が公開され、2010年代が見事に総括されました。そして、「愛について」の第一回は、「(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」というタイトルがつけられました。

しかし、いまこのタイトルを聞いた多くのみなさまが、「「愛」と「符号」?、配信の中で聞いたかもだけど、なんだっけ」と思ったかもしれません。そこで、まずはタイトルの意味について説明させていただきます。

愛について語ろうとするこの連載の副題には「符合の現代文化論」とあります。つまり、「符号」というさやわかさんの設定したテーマに沿って「愛」が論じられているということです。そこで、「符号」が何かについてさやわかさんがどう定義しているのか見てみましょう。

つまり筆者が考えたいのは符号、すなわち、記号が意味へ対応するメカニズムについてではない。私たちが記号的な事象に対して意味を対応させてしまう行為、それ自体についてだ。

(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」より引用 https://www.genron-alpha.com/gb042_01/

もともと記号というテーマは、『ゲンロンβ』39 号(2019年7月)初出の「記号的には裸を見せない──弓月光と漫画のジェンダーバイアス」(https://www.genron-alpha.com/gb039_03/)がもとになっていたのですが、2016年の『キャラの思考法』でも部分的に類型的な背景や設定の記号性が論じられていました(「打ち上げ花火を、今なお、どう見るべきか岩井俊二とポストセカイ系の解決」『キャラの思考法』)。ただし、すこしまだ分かりづらいので、ここで記号の具体例をあげてみましょう。

夏の田舎道、青空と夕暮れ、友達と行く夏祭り、学習教材、駅までしか行けなかった逃避行、夜のプールに着衣のまま飛び込む少女

『キャラの思考法』kindle版より引用

私はいま、単語の羅列しか並べていませんが、みなさま、何かを想像しましたね。「夏の田舎道」は、文字通りにとると、特定の季節の特定の場所についての情報を意味するものでしかないです。それにもかかわらず、あなたは何かの歌や、何かの登場人物を思い浮かべました。そのように、ただの記号に方向性の定まった想像をしてしまうような、そんな対応づけをさやわかさんは「符号」という言葉で提示して、こちらのほうをより議論をするべきなんだと提示しています。以上が「符号」についてのご説明です。

次に、連載タイトルの「愛」について説明します。さやわかさんは、初回で愛について次のように定義しています。

この連載には「愛について」とタイトルを付けた。筆者は、この偏執的なこだわりを、人間のごく当たり前の感情、愛に類するものとして語ろうと思うのだ。【中略】強い執着が、私たちを分断に導いている。ならば私たちはその愛情、記号と意味の一対一の符合に耽溺するのでなく、その符合を読み解き変形するようなリテラシーを作るべきではないか。

「愛について──符合の現代文化論(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」より引用 https://www.genron-alpha.com/gb042_01/

符号はさきほど見たように、特定の対象に特定の想像をする行為です。さやわかさんはこれを「強い執着」と表現しています。さやわかさんによると、カルチャーについて語る時、語るその人が「愛」を表現することは、たいていの場合「執着」にすぎないそうです。確かに、オタクとかマニアって「おまえはわかってる」とか「あんたはわかってない」とかすぐに言いがちですが、これってようは、執着しているか、執着していないかだけを問題にしているのと同じということです。そして、さやわかさんは、記号によって対象を結びつける符号から生まれる愛を競い合うのではなくて、その愛が発生してる文脈や環境に目を向けましょう、と言っています。

この考え方は連載の中で発展していきます。連載の12回目で、「愛」はあらためてこう定義されました。

人々は古い意味の符合にとらわれない、流動的なコミュニティを欲するようになったが、それは責任を回避できるという意味ではない。責任を持って、新しい符合を他者と分かち合う態度、それこそを、筆者は改めて「愛」と呼びたい。

「愛について──符合の現代文化論(12) 新しい符合の時代を生きる(2)符合の責任論」より引用 https://www.genron-alpha.com/gb070_05/

いきなりこれまでの文章にない言葉のでてくる引用をしてしまい、ごめんなさい。整理します。はじめ、「愛」は執着する感情全般について考えるものでした。愛はとても大事ですが、執着は「わかってる・わかってない」論争を生み、みんな冷静に話ができなくなってしまうので、愛を読み解くためのリテラシーが必要だとされていました。次に、さきほど引用した連載の12回目では、自分が執着する行為を一歩引いて理解して他人とわかちあい、それに責任をもつことのほうがむしろ「愛」とよべるのではないか、とさやわかさんは提案しています。わかりやすくするため、最初の執着としての愛を「執着の愛」として、後者を「責任の愛」とします。そうすると、実は、連載タイトルである「愛について」の「愛」とは、「執着の愛」と「責任の愛」という2つの要素で構成されているといえます。「執着の愛」だけでは、その人は、記号にともなった符号化の行為については無自覚です。「責任の愛」では符号化に自覚的になり、かつ、ここが重要なのですが、他人とそれを共有する、ということです。たとえば、前者は引きこもって、ネットだけが世界で、レスバトルでしかコミュニケーションできない感じがするのに対して、後者は引きこもりをやめて外にでて、他人と、つらいけどなんとかコミュニケーションしている感じがしますね。こんなふうに、2つの愛が渾然一体になっているのが普通の人のカルチャーへの関わり方で、たぶん批評することとは、後者の「責任の愛」なのかもしれません。

そんなこんなでタイトルの説明をするだけでもう4000字近くになってしまいました。次にさやわかさんは連載の中で、家族のような「共同体」やセックスとジェンダーの「性」といった、えてして「執着の愛」に還元されがちなテーマについてフォーカスを当ています。広くマイノリティ表象が課題とされている現代で再度取り組むべき重要なテーマを扱っているといえるでしょう――、なんていうまとめを、私はしたいわけではありません。

私はこうしたテーマを扱っている裏に別の文脈を感じとっています。というのも、「共同体」も「性」のテーマも、ゼロ年代批評シーンで、宇野常寛など様々な人がさかんに取り上げ、どこかゼロ年代的なテーマ、宇野さんの著作のタイトルをそのまま借りると、まさに『ゼロ年代の想像力』のうちにあるようなテーマを思い出させるからです。ところで、さやわかさんは「webスナイパー」というネットメディアで、『ゼロ年代の想像力』の単行本が発売されてまもない2008年の8月に『ゼロ年代の想像力』の書評を掲載していました。「愛について──符合の現代文化論」を読んでゼロ年代を思い出した私は、たんに妄想しているだけではなさそうです。

といったところで、年代が急にさかのぼってしまったので、みなさん少しだけ注意してください。いまは2008年の話をしています。この頃、ゼロ年代批評の議論は、「決断主義」といった勢いの強そうな言葉を中心に語られていましたが、そういった議論は、この本に基づいていました。そして、さやわかさんは書評の中で、次のように2つの課題を指摘しています。見取り図はいいけれど、(1)自身の指摘したゼロ年代コンテンツの課題を解決するようなコンテンツが提示されているが、説得力のある議論ができていない、(2)広い読者とわかちあえるような議論になっていない。以下では、この2つの課題を、さやわかさんが自ら引きうけているということをお話できればと思います。

(1)の具体例をあげます。さやわかさんは、ゼロ年代的なものを超えたコンテンツとして著作の中で評価されていた、2003年放送の宮藤官九郎脚本のテレビドラマ『マンハッタン・ラブストーリー』が当時の視聴者に拒絶された事実を宇野さんが重くみていない、と指摘しています。次のとおりです。

宇野はポスト決断主義的であると考えられる作品に独自の読みを行ない、その可能性を示せているとは言えるが、しかしそのような「新しい」作品が事実として視聴者に拒否されてしまったのであれば、宇野がここまでに展開してきた文化社会学的な検証のスタイルから見て、説得力を失うものである。宇野はこの視聴者からの拒否という事実を、もっと重く受け止めるべきだったのではなかろうか。

「時代を切り拓くサブ・カルチャー批評『ゼロ年代の想像力(早川書房)』」【前編】」より引用。http://sniper.jp/011review/0111book/post_1045.html R18記事へのバナーがでているので閲覧時にはご注意ください。

「文化社会学的な検証のスタイル」とは、「みんなが好きなものは、社会の全体像を示しているってことを前提にしてコンテンツの成立する社会的背景を説明をしました」、という意味です。確かに、宇野さんはずっとみんなが好きなものについて話してきたのに、みんなが好きにならなかったどころか拒絶したものを肯定的に評価したとしたら、その意味はよくわからないですよね。宇野さんは、消費者がどう考えたかよりも、自分の価値観を優先させてしまったと言えるでしょう。このことは、『ゼロ年代の想像力』の随所にみられる、ネットが一般的ではない時代に、ネットでしか知り得ない情報を無自覚に前提としているような書きぶりの閉鎖性についても同様に指摘できるでしょう。さやわかさんは、その閉鎖性について、「彼らにとっては「ゼロ年代の想像力」について考える前に、ほとんど「宇野常寛の想像力」についていけない、ということになるだろう」(「時代を切り拓くサブ・カルチャー批評『ゼロ年代の想像力(早川書房)』【後編】」より引用。 http://sniper.jp/011review/0111book/post_1044.html R18記事へのバナーがでているので閲覧時にはご注意ください)と、批判しています。

勘の鋭いお白洲民のみなさまは、この批判が、「符号の現代文化論」でも継続していることにお気づきかと思います。宇野さんはみんなが好きなもの、執着しているものについてそれがどんな記号なのかを、ひとまず「決断主義」といった難しい言葉を使って教えてくれます。でも、『マンハッタン・ラブストーリー』とかネット論壇のような、自分が出してきた好きなものの例について、なんでそれが大事なのかぜんぜん読者と分かち合いません。そして、仮に「決断主義」とかいうものが好きな、あるいは共感できる消費者が、それが好きである理由を消費者がどう考えるべきかも、別に議論されていないのです。私の言葉で言い換えれば、「執着の愛」については饒舌で、「責任の愛」については沈黙しているのです。しかし、当時のさやわかさんは次の引用のように、ご自身でもこの課題をコンテンツと消費者に基づいて解決する方法が見えていなかったようです。

しかしまた、宇野が見出した、現在においては真正な物語を峻別することではなく、物語への態度、つきあい方を考える必要性こそが重視されるべきだという本書において提出された課題はいまだに残されたままだ。

「時代を切り拓くサブ・カルチャー批評『ゼロ年代の想像力(早川書房)』【後編】」より引用。http://sniper.jp/011review/0111book/post_1044.htmlR18記事へのバナーがでているので閲覧時にはご注意ください。

とはいえ、10年代を通じてカルチャーに向き合ったさやわかさんには、「物語への態度、つきあい方を考える必要性こそが重視されるべきだという本書において提出された課題」を、いまや符号という言葉を使うことで語っています。「物語への態度、つきあい方を考える」とは、自分がその作品の中の記号を読み取ってしまう行為について考えることにほかなりません。このように、長い月日が経っても、自身が批判した事柄の本質に向き合い続けて、ゼロ年代的なテーマに対する符号を私たちと分け合っているのは、「責任の愛」と呼べるでしょう。「愛について」語る責任を、まさにさやわかさんはここで引き受けているのです。一方で、宇野さんはというと、宮崎駿・押井守・富野由悠季を2017年に刊行された『母性のディストピア』で論じ、最終章も「「政治と文学」の再設定」といったように、旧来の文芸批評に回帰していくだけで、『ゼロ年代の想像力』で積み残した課題についてはいまいち関心すらないようです。私はこの点について、深く残念に思います。

さて、「愛について──符合の現代文化論」をどうしてみなさんがお読みになったほうがいいかは、もうおわかりいただいたと思います。ここに連載初回「(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」のリンクを貼っておくので、ぜひ読んでみてください。

https://www.genron-alpha.com/gb042_01/

また、最初の目標であった「カルチャーを語るカルチャー」としてのさやわかさんについても説明できたと思います。ゼロ年代批評というカルチャーの中で「責任」という、あまりにも当たり前過ぎてかえってゼロ年代批評には存在しなかった概念を導入したあと、この連載がどう展開していくのか、目が離せませんね!

というわけで、以下は余談、ささやかな追伸です。

この連載が始まった時から、私はさやわかさんのyoutubeの配信を見るようになりました。いつしか、それはシラスのチャンネルになりました。シラスから始まってからというもの、私の人生に、カルチャー薔薇色時代が始まりました。「カルチャーお白州」で紹介されるいろんなお話が楽しいですし、配信で劇団「普通」を知ることができて本当に感謝しています。もう「カルチャーお白洲」がない頃の生活が信じられないほどです。でも、配信を聞きながらずっともやもやしていたことがあります。「あの連載を読んでゼロ年代批評を引き受けていると思っているのなら、自分が10年代の批評に少しでも参加していたことを引き受けて、自分の責任を果たさないといけないのではないか」、といったようなずっしりと胸の底にたまるような感情です。とはいえ、私も生活に疲れ、そして悩みすぎて批評することをやめ、すっかり批評同人誌からも引退し、ほそほぞと生きていくだけでした。

「カルチャーお白州」が始まって1年と半年が経ったゴールデン・ウィーク、ひょんなことから、シラスのチャンネル「生うどんつちやの「シラスの台地で生きていく。」」の配信をしている第二期「ひらめき☆マンガ教室」受講生の土屋耕児郎こと土屋耕二さんの経営するうどん屋さんに数人のシラス視聴者のみなさんと一緒にお伺いすることになりました。そこで焼酎「佐藤」のうまさに感激して一升瓶を半分くらい飲んでしまった限界状態のときに土屋さんのチャンネルで、深夜から配信が始まりました。配信が始まると、「ひら☆マン」受講生のみなさまもご存知のある方が、土屋さんに見事なインタビューをはじめました。

さて、だんだんと私の意識も朦朧としていくなかで、なぜかトークテーマが「愛」となっていました。素晴らしいインタビューをしていた方は、私から「多少何かは引き出せるだろう」と思ったのか、私に質問していただいたのですが、酔っ払った私は、「なんでそんな難しいことを聞いてくるんだ」とまったく理不尽に怒り出してしまいました。泥酔、良くない。なぜかそのときの配信を見ていたさやわかさんにもコメント上で仲裁に入っていただき、事態は収拾されました。落ち着いてから、その方に「さやわかさんの愛についての連載は、どういうふうに読んでるんですか」と質問していただきました。私は間髪入れずに「神だよ」と答えました。それに対して、「中身については?」と具体的な点を深堀りする質問をしていただいたのですが、そのときは意識も怪しかったため、ぐだぐたになってきちんと答えられませんでした。でも、おそらく今日のお手紙で十分に「愛について──符合の現代文化論」がいかに大事かを語ることができたと思います。

私は生きている間に、こんなふうにして自分の人生の一部を形作ったものに責任を引き受けてくれた人の文章を読むことができて、死なずにいて良かったです。また、自分が10年代にした仕事にも責任をもつべきだということを思い起こさせていただきました。私も昔の批評を見直して、今の関心も加えて、リライトしていこうと思います。こんな気持にしていただいて、さやわかさん、本当にありがとうございます。

いろいろ話してきましたが、拙い文章をお聞きいただいたお白洲民のみなさま、こんな長文を読んでいただいたさやわかさん、本当にありがとうございました、というか、長くてごめんなさい。でも、このお手紙はもともと三部構成3万字のお手紙を2万字に短くしたけど、2万字も長いというわけで、第三部だけを再編集してすっごく短くしたお手紙なのです。もとのお手紙では、私が2010年代のはじめにゼロ年代批評とさやわかさんを知った頃のことや、ゼロ年代批評シーンが崩壊していった過程とその理由が書いてありました。このままどこにも発表しないのものもったいないので、お手紙回のお時間をお借りして連載させていただこうかな、などと考えています。もしもご感心あるかたは、来月からもう少しだけお付き合いいただけますと幸いです。また、さやわかさんには、来月から、もうちょっとだけ私のお手紙をお読みしていただきます。今後とも何卒よろしくおねがいします。それでは、みなさま、今日のオフ会を引き続きお楽しみください。また、今日という日を迎えた「カルチャーお白洲」が末永く続きますようにお祈ります。「愛は祈りだ。僕は祈る」。ご清聴ありがとうございました。