さやわかさん、カルチャーお白州民のみなさま、こんかんるちゃ。でぃおんたむと申し上げます。
8月20日に開催されました「正々堂々秘密の大集会」にて、さやわかさんにお送りしたお手紙で連載の予告をいたしました。8月から10月にかけて3回の連載をさせていただきましたが、今回が最終回に……、なりませんでした。連載って怖いですね。もともとの3万字のお手紙は加筆修正を重ねてとっくに4万字近くに膨れあがり、分割して体裁を整え、それをおたよりにしています。
いまやこの「おたより連載」は、『新世紀エヴァンゲリオン』にたとえることができるかもしれません。今回はTV版最終回「世界の中心でアイを叫んだけもの」で、次回は劇場版「Air/まごころを君に」となります。などと、カッコをつけてたとえてみせたものの、自分で言っておいてなんですが、「その構成で大丈夫なの……、まさか「新劇場版」が始まってしまうの……、おたよりの連載に10年かけるなんて嫌だ……」、と不安になってきましたが、がんばります。
毎回長いお手紙のため、いつもどおり前回の振り返りをさせていただきます。
連載第1回では、webゲンロンで連載中の「愛について──符合の現代文化論」の要約をし、ゼロ年代批評で積み残された課題に取り組むさやわかさんの継続的な批評行為について、その文脈を明確にしました。連載第2回では、文学フリマとさやわかさんのことを知った頃のことをお話いたしました。2010年代初頭での文学フリマの様子について簡単にまとめて、その頃の批評シーンを四皇や七武海になぞらえて説明しました。ちなみに、さやわかさんは四皇でした。連載第3回では、私が東浩紀さんに話かけられてびくびくしたり、村上裕一さんの著作が批評シーンの外では、今やまったく読まれていないことを「閉鎖性」という観点でまとめて説明しました。全文はこちらでお読みいただけます。また、1回目と2回目はさかのぼって読むことができるので、リンク先にアクセスしていただけますと幸いです。
では、今回のお話にはいらせていただきます。以下、8447文字。さやわかさん、どうぞよろしくお願いいたします。
前回、私はゼロ年代の批評シーンの消滅について4つの観点から整理すると予告させていただきました。(1)「閉鎖性」を除く3つの論点は、(2)脆弱性・(3)依存性・(4)時代性でした。今回は(2)脆弱性についてお話させていただけますと幸いです。
(2)脆弱性
脆弱性については、「低い参入障壁」・「生計を立てる」・「個人」の3つについて、順にお話したいと思います。
「低い参入障壁」について考えるうえで、「ゼロアカ」という言葉についてまず振り返りたいと思います。この言葉が、脆弱性を説明するのにうってつけのためです。ゼロアカは「ゼロ年代のアカデミズム」という言葉を縮めたものとされていますが、東浩紀さんは、「アカデミズムを「ゼロ」にしてしまう、リセットしてしまう」(講談社BOX編、『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦』、2009年、543頁)、それが「ゼロアカ」だったと総括しました。東さんはそれまでの批評の価値観がゼロアカ道場の第4関門の中で瓦解していったことを説明するときにこの言葉を使うのですが、皮肉なことに私は「アカデミズムがゼロ」なのは、ある程度の価値があるものだと思っています。なぜかというと、後からやってくる世代からしてみると、それは参入障壁が低いことを意味するからです。
私はちょうどゼロアカ道場が終わった頃、高校生になったばかりでしたが、この時からゼロアカ道場とは関係なく批評っぽいことをしていました。とはいえ、そもそも高校生なんて無知が全裸に靴だけ履いて歩いているようなものなので、誰かがちゃんと服を着せてあげないといけません。当時は、参入障壁の低い同人誌にやってきたルーキーに対して、編集者が、「とりあえず全裸はだめだから布をかぶろう」、ということでちゃんと服を着せてくれました。それは素晴らしいことでした。しかし、当時をふりかえってみると、この参照障壁の低さは、かえって大きな弱点をかかえていました。流動性が高すぎて、自分の発言に責任を持つことがその構造上できないため、共同体としての結束やお互いの批評への参照関係が生まれず「最近本になった誰それの批評」についてばかり話している、脆弱な集団だったのです。
たとえば、編集がついてくれているのであれば、過激な言い回しや極度な内輪ネタといった点は直していただけます。外にだしても大丈夫な文章をつくるべく、責任をいっしょに負ってくれる、というわけです。加えて、論者どうしがお互いに書いたものについて感想を言い合える場をつくることで、徐々に自分の共同体の中での立ち位置と外に出ていくときのアイデンティティを確保していきます。2010年代にお世話になった編集の方は本当に偉大でした。今でも感謝しています。しかし、それが2010年代では、多くの場合に保たれていたとは言えませんでした。
ところで、一般的にいうと、このように集団内で配慮していくことができるのは、いい職場でも同じですよね。いい職場ほど職員どうしで会話しています。仕事をどうすればもっとうまく進められるか、段取りでミスがあれば相手を助けてあげて、自分も誰かに助けられる。外のお客さんとの打ち合わせの前に、何をどう話してどう話を進めていくか自分たちの情報を整理してどの立場で進めていくか決める。もしも、文化について語る批評という仕事をしている会社があるとすれば、きっとそんな職場になるでしょう。あれ……、身近なところでいうと、これって「ひらめき☆マンガ教室」ですよね。だから、「ひら☆マン」からは素晴らしいマンガ家が出てくるんだな、と実感を込めて私は言えます。というわけで由田果さん、『少年サンデー』での連載、あらためておめでとうございます!みなさん、『君と悪いことがしたい』、要チェックですぞ。
ところで、「ひら☆マン」の例を出したのは「脆弱ではない集団」を示すということ以外に、もう一つの理由があります。それは、「ゼロアカ道場」に由来するゼロ年代批評の性質を示す、大きな違いがあるからです。ゼロ年代批評は、最初はゼロ年代のアカデミズムをつくるべく大学とは違う批評の書き手を育てようとしました。しかし、回を重ねるごとに、「ゼロアカ道場」は、2010年代末からの、SNSのアテンションを集めたものが勝ちというゲームを先取りした姿になっていき、そこに参加していた人々自身が批評を続けることを困難にしました。確かに、「ゼロアカ道場」は文芸批評などといった既存のグループとは違う批評のクラスタをつくりあげるきっかけづくりにはなりました。しかし、継続するうえで重要な、目標を数値で管理するとか、どういうコアメンバーが必要で、何のためにやるのかとか、雑誌で連載を持ったあとの人脈紹介といったように、グループを存続するための考えは批評の書き手側にはないのでした。東さんの書いていた、「アカデミズムを「ゼロ」にしてしまう、リセットしてしまう」という嘆きにこめられていたことの意味は今から振り返るとこのことを指し示すことにもなっていたように見えます。一方で、「ひら☆マン」では、その逆がすべて用意されています。目標を数値で管理することで仕事量をコントロールする方法も伝授し、アシスタントを雇うことになった場合にはどういう組織構成が必要で、雑誌で連載につながるまでの人脈紹介まですべて用意されています。自分で書いていて思うのですが、すごいですね、「ひら☆マン」。
また、「ひら☆マン」は他の点でもゼロ年代批評の影響をうけたクラスタとはわかりやすい違いがあります。それは、ゼロ年代批評的なクラスタは、(1)閉鎖性で説明したような理由で、意図的ではないにせよ、あまり人を受け入れる雰囲気がないところが少々あった点です。これは、最初に説明したように、参入障壁が低いために、どんどんと新人が来るには来るのですが、閉鎖的な場に嫌気が差してどんどん出ていってしまうのです。すると、次第に流動性のない閉鎖的な場になってきます。
そして、閉鎖的な場というのは、自分たちがしていた本来の仕事を忘れて自分の立ち位置を確保しようと躍起になることがあります。ざっくりいって権力闘争というやつですね。権力闘争はやっている本人からしてみるととても真剣なので周囲もあまり注意できません。また、そもそもゼロ年代批評にコミットして何か利益があるというわけでもないので当然のことながら、関わるのも面倒くさくて人も離れていきます。見事な悪循環というわけです。もちろん、私にしても善人ではないので、この当時は閉鎖的な態度をとっていたかもしれません。このお手紙を書く中でいろいろ思い出しました。いまとなっては自分についても多くを反省しています。
さて、ここまでは「低い参入障壁」についてお話してきました。次に、「生計を立てること」についてお話しましょう。
言い換えると、経済的な理由で書き手がいなくなっていった、ということです。ゼロ年代批評やその後の2010年代批評シーンの蓋を開けてみると、10年代初頭にでてきた書き手は4年から6年の大学生活を経て就職すると書き手をやめてしまい、「低い参入障壁」ゆえの高い流動性のために、いなくなったあとにその場をうめる新人がおらず、10年代の折返し時点で「あれ、あなたずっといるよね」という人しかいないような状態になっていました。そして、その就職先も驚くべきことに、アカデミズムやアカデミズムに近い編集者への就職、というのが割とあったのです。ゼロ年代「以後」のアカデミズムという意味での「ゼロアカ」は確かに成立していたというわけだったのです。自分でそのことをちゃんと責任をもって引き受けてくれればいいのですが、ゼロアカの影響なしに自分が今のような仕事ができているかのように振る舞い、自分の中にあるはずの歴史的事実は記憶からなかったことになっているようです。
なお、「生計を立てる」ために働いていると、同人誌の編集者も、会社の中で役職が徐々にあがって中堅になり、書き手だけではなく、最初の頃と同等のクオリティで同人誌を続けていくことがだんだんと難しくなっていきました。だからこそ、集団体制をとって引き継いでもらうとか、どうすれば効率的に継続できるか、ということを考えるとよいのですが、それはあとからいくらでも言えてしまう話かもしれません。10年代中頃までは、いまみたいにSNSをベースとした有料メディアサービスがどんどんでてきて、ここまでメディアの中心になり、ましてやマネタイズできるとは予期できませんでしたし、予期できていたとしても、みんな自己犠牲と熱意で同人誌を作っていたので、継続のために投資をする時間もなかったでしょうから、あまり当時の人をせめることはできません。私はいまふつうに働きながら夜なべしておたよりを書き上げていますが(冗談ですよ!)、そんな中であんなクオリティの高い同人誌をお作りになっていた先人のみなさまには畏怖の念を抱くばかりです。とはいえ、事実として、書き手の確保も、発行元の確保も困難になっていき、それについて有効な解決策があまりなく、編集の外注、雑誌を薄く廉価なものにする、外部に査読者のような立場の人をおいて作成する委員会方式といった事務的な解決策以外はあまりなかったのでした。
ところで、これまで集団の性質の話ばかりしてきて、集団の構成員の話をしてきませんでした。実際のところ、批評クラスタを維持するうえでの、一番の脆弱性とは、この構成員、つまりは個人です。たとえ話をしましょう。それなりの規模の会社で働いている人はよくセキュリティ講習を受けると思うのですが、そこでは大抵の場合、個人のふとした行動がいかに会社の情報漏洩のリスクになるかを教わると思います。じっさい、クラウドサービスを利用したファイルシェアを採用していない会社はメールで添付ファイルを開かせ放題なので、マルウェア感染を防ぐことはきわめて難しいです。このように、組織のセキュリティリスク、すなわち脆弱性は個人です。より限定して言うと、脆弱性とは、心のことです。
これまで、当時、「ゼロアカ道場」からその10歳下までの範囲で批評をやっていた人々をルーキーとワンピースになぞらえて呼んできました。しかし、よく考えると、ワンピースのルーキーたちは海賊団を組むほどの組織力や人望をあの年齢でもっているわけですから、大したものです。四皇や七武海は確かな立場があったのに対して、ルーキーたち、は『ワンピース』に比べると極めて脆弱な人々でした。今回は、最後に、私にとって思い出深い人の話をしたいと思います。
90年代生まれで批評同人誌のリーダーになった方が何人かいました。例えば、私は、大学サークルに所属していたので、そのサークルの機関誌を批評同人誌化するといったことによって、批評同人誌を立ち上げるコスト、人件費を削減し、批評同人誌を発行していました。批評同人誌を継続するうえで、これら2つのコストは一番お金と時間がかかりますから、合理的な選択でした。なので、私は自分のことをルーキーとか言ってましたが、ワンピース的には、フーシャ村のマキノのような酒場の店主に近いといっていいでしょう。しかし、『アニメルカ』にはほぼ毎年関わっていたため、かろうじてルーキーの面目を保っていました。
とはいえ、そうしたコストを度外視する若いルーキーがいました。詳しいことは書かない、というか、書けないので少し曖昧にします。そのルーキーは2010年代初期に流行した「合法ハーブ」の使い手で、ある種の精神疾患を抱えていました。キャラクターでたとえると、MCU版スパイダーマンのM.J役で有名になったゼンデイヤが演じる、テレビドラマ『ユーフォリア』のルー・ベネットみたいな感じです。ちなみに、ルーの日本語声優は高垣彩陽です。というわけで、仮にこのルーキーの名前をルーとしましょう。なお、実際の性別についてはここでは触れないでおきます。
2013年の春先のことだったと思います。ルーキーで一番の実力者だったエヌ氏に私は声をかけられ、現在は書評家として有名な積読主義者が主催する読書会に誘われました。読んだ本はアラン・バディウの『ドゥルーズ 存在の喧騒』というささやかな哲学書でした。まだあまりコミュニケーションの適切なやり方をわかっていなかった私は、会場のカフェでとなりに座っていても、本人かどうか確認すればいいのに声をかけられず、「たぶんここにいる人がエヌ氏と積読主義者なんだけど、こっちから声かけるなんて無理」というわけで時間をすぎてもなかなか声をかけられずにいました。エヌ氏が時間になると、おもむろに本を取り出したのを見て、横からぬっと出ていき、「ドーモ」とニンジャスレイヤーの登場人物のように声をかけました。エヌ氏に、「え、そこにいたんだったら、先に言ってよ」と苦笑いされました。
読書会が少しずつ進んでいき、1時間した頃でしょうか。小休憩をとろうという時に、向こうから痩せこけた頬の人がやってきて、エヌ氏に何かを言って、私に向かって「ルーです」と挨拶し、空いている席に座りました。ルーは、少しうつろな目をしていました。ルーは、鞄からおもむろに化粧品クリームが入っているような寸胴な緑色のガラスの容器を取り出しました。もう一度鞄をごそごそと探ると、細長い銀色の棒を取り出しました。銀色の棒の尖端はよくみるとスプーン状になっていて、何かをすくえるようになっていました。それは薬匙でした。ルーは、ルーティンワークであるかのように器用に蓋をあけてみせると、容器に薬匙をさしこみ、肌理の細かい白い粉をすくっていました。ルーは天井をみあげて、ひょいっと薬匙をひねり、口の中に粉を入れました。顔をこちらに向けると、目をぱちくりとしばたかせました。ルーは同じことをもう一度繰り返しました。
「色がはっきり見えるようになるんだよね。これやってアイマス観るとやばいよ」
ルーは容器を持ち上げると、英語で書かれたラベルが見えるように私の目の前にかかげてきました。
「For not human consumption」
「え?」と私は聞き返しました。
「人間用じゃないんだよね」
そう言うと、ルーはケタケタと笑いました。私たちはそうやって出会いました。ダークウェブではなく表のネット通販で買える薬品だそうでした。また、当時は合法ハーブが流行しており、私も一通りの知識を集めていたのでそれ自体で印象が悪くなることはありませんでした。といっても、調べた結果として、やらないほうがいいのは間違いないので、ルーは大丈夫なのかな、と心配しました。
とはいえ、ルーのことを私は会う前から知ってはいました。ゼロ年代批評のなかでもよく用いられていた、ジジェクというひげのおじさんがよく使っていたラカン派精神分析的解釈に基づいて批評したり、同人誌にラカン派精神分析に詳しい論者どうしの対談記事をくんだり、薬を飲んだときのイメージを言語化したような詩を書いたりしていて有名だったからです。
その読書会の後に、私は何かを信用されたようで、彼が主催する同人誌に「メンヘラ」をテーマに書いてほしいと連絡がきました。ルーの印象は良くなかったのですが、上記のようにその仕事ぶりは知っていたので、ひとまず引き受けることにしました。その原稿で私はライトノベルをとりあげました。登場人物の全員が精神的な疾患を抱えた物語で、十文字青さんの書いた『ぷりるん。~特殊相対性幸福論序説~』という作品です。私の原稿の論旨をざっくりとまとめると、精神的に問題行動をとる人ばかりを取り上げるトビアス・ウルフというアメリカ人作家の小説を比較対象にすることで、『ぷりるん。』の特殊な表現を抽出し、抽出した要素を再構築することで、社会通念としての恋愛行為から逸脱した人間、つまり人間をやめた人間の固有性に触れることが恋愛の体験とされている、という解釈をしました。ルーがてがけた同人誌はそれが2冊目だったのですが、その同人誌は比較的によく売れたようです。ルーはその原稿をある程度気に入ってくれたようで、原稿料としてブルース・フィンクの『ラカン派精神分析入門』をもらいました。中古本なので正確な値段はわからないのですが、だいたい5000円くらいでした。もちろん、キャッシュのほうがありがたいのですが、ほぼ同世代ということもあり、当時はとくに気にしませんでした。
その後、私自身も20歳前後ということもあり、精神的に不安定になっていました。生きるということと批評するということががぎりなく一致してるがゆえに、自分で考えたことをすぐさまに批判し、それを乗り越えるために勉強するというサイクルは、いまとなっては客観的に処理できるのですが、当時はとにかく辛いものでした。20歳前後というのは、確信のようなものが持てないですからね。この頃、自分の中の確信が「飲酒」になりそうなのをなんとかこらえていました。そうして、私は、ルーから次に来た原稿の依頼を断ってしまいました。
(ルーのDM)「こんにちは。次の同人誌のテーマは「幸福」なのですが、原稿をぜひお願いしたいです」
(でぃおんたむのDM)「ご依頼ありがとうございます。私は「幸福」について何かを書くことができません。今回のお誘い大変ありがたいのですが、ご理解いただけますと幸いです」
私があの頃と変わったと自分でわかるのは、今の私は「幸福」について書くことができるからです。ただ、ルーが「幸福」について依頼してきたのは、ルー自身が「幸福」というものを本当に追求していたからだった気づいたのはルーが死んだ後のことでした。
「幸福」について依頼してきた頃、ルーは、ツイッターというSNSの中で「一人ゼロアカ」のようになっていました。ゼロアカ道場で参照されるような論者や理論についてばかり議論し、「リスカオフ」という集団リストカットをカラオケで行い、複数人で血のこぼれた手首を見せるようにしてこぶしを突き合わせた写真を投稿するなどして、ダークなザクティ革命をするようになっていきました。ただし、これは、ゼロアカとはある一点において異なっています。
ゼロアカ道場はリアリティショーであり、ショーから降りる自由があります。しかし、SNSでアテンションを稼ぎ、承認欲求を満たしながら自分の人生そのものをリアリティーショーにしていくとき、そのショーから降りることは限りなく難しくなります。ゼロアカ道場はよくもわるくも出版社のプロジェクトだったので、集団によるケアがありますが、個人のリアリティーショーはSNSの好奇の目にさらされ、消費されるだけです。一度でもその道を歩んでしまえば、SNSへの依存とそこでの自傷を繰り返すしかなくなってしまうのです。自分でどうにかすることができるはずもありません。そうしてルーは、ベランダから飛び降りることで人生というリアリティーショーに幕を引いたのでした。夕暮れのセミも鳴くことをやめた、2015年の夏の終わりのことでした。ルーが幸せになったのかは、私にはわかりません。ただひとつ言えるのは、ルーはグランドラインを超えていくことはできなかったのでした。
脆弱性については以上です。そして、ここで今回のお手紙は終わりです。次回は、残された論点である(3)依存性・(4)時代性についておたよりをお送りします。いよいよ、七武海と四皇たちの10年代の活動をたどります。
さて、おたよりは以上なのですが、最後に宣伝です。このお手紙が読まれる頃には配信が終了し、アーカイブでの視聴になるかもしれませんが、おたよりを補足する形で2010年代同人誌批評を振り返る配信をYouTubeでします。11月23日の14:00から20:00です。さやわかさん、お手数ですが、次のタイトルとリンクをコメント欄に貼っていただけますと幸いです。
米原将磨×江永泉 司会=ジョージ「ゼロ年代批評崩壊期とは何だったのか。地殻変動以後の時代に三人が回顧する10年代批評シーンと20年代への展望」
貼っていただきましてありがとうございました。ちなみに、江永泉さんは『闇の自己啓発』という本で有名な方で、ジョージさんはジジェクの動画の日本語字幕を作成しているので有名な方です。
それではみなさま、また、次回にお会いしましょう。連載おたより第5回「もう何も怖くない」。