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佐藤正尚

どうしてDon’t Look Back in Angerなのか

2023/10/8-9で開催されたイベントぶんまるで、なぜかバンドをすることになった。最初に決まった時から、“Don’t Look Back in Anger”をやることになっていた。simesaba がなぜ「この曲やるしかないやろ」、となったかについては知らないが、私にとっては当たり前だった。

私は中学生になるまで、自発的にカラオケというものに行ったことがなかった。中学生になって初めて友人とカラオケに行くことになったとき、私は最後に“Don’t Look Back in Anger”を歌った。小学生の頃から親の影響で海外の曲を聴いていたので、Oasisの曲はYouTubeが無法地帯だったときに有名な曲はぜんぶ聞いたし、アルバムも何枚か金を出して借りてデータコピーをしていた。歌詞の意味も、Oasisオタクがネットに書いていたので、英語を自分で学びながらなんとか理解していった。そうして、一番好きになったOasisの曲は“Don’t Look Back in Anger”になった。

しかし、多くの詩がそうであるように、歳をとると詩の意味が違って見えてくる。最初の頃はなんとなく“Take me to the place where you go, where nobody knows if it’s night or day”とかのフレーズに惹かれていた。ここ以外のどこかへ行きたいという抽象的な行き場のない感情を表現するときによく言うやつだ。中学生くらいだから好きだったのだろう。

しかし、高校生くらいになりあることに気づく。サビは、サリーとなる女性と一緒にはもう歩くことはない、彼女の心は離れていくという失恋を予感させるように読める。だから、“but don’t look back in anger I heard you say”というように、彼女は「怒って振り返って私をみないで」ということを通り過ぎていった語り手に言ってるように普通は思える。しかし、look backはよく考えたら日本語とまったく同じように「思い出」と「後ろ」を振り返るという意味がある。もちろん、思い出を振り返るという意味であれば、look back の後ろにon/to/atがないという違和感を覚えなくもない。しかし、これは詩なのだから、意味さえ繋がれば実際に歩いていたかは関係なく、「怒って思い出を振り返らないで」という解釈もできるだろう。そう思い、歌詞を読み直してみると、そもそも曲の歌詞全体はかなり意味不明だということに気づいた。

まず、youが誰かわからないまますすみ、“So Sally can wait ”でいきなりサリーに対して歌うので「ああyouはサリーだったのか」と思う瞬間に、“she knows”と「え、youじゃないんかい、サリー」となる。また、 “she knows its too late as we’re walking on by”のasの意味もほとんど読みとれない。つまり、サビの部分だけ聴いた人は、「彼女は待つことができる」・「彼女は遅すぎると知っている」・「自分たちは(お互いに?)通り過ぎていく」の3つのセンテンスの意味がどうつながっているのかは、ほとんど読みたい人の気持ちをそのまま反映するしかないつくりになっているのだ。そして、それがゆえにおそらく英語圏ではそれぞれの人が自分にとっての“Don’t Look Back in Anger”を心に持つのだと気づいた。全体を知ると意味不明だが、サビだけどこかで聴いた時にだけ聴いた人にとっては多様な意味を持ってしまい、しかも微妙に切なさを刺激する言葉だけが並んでいる。実に見事だ。

私はそのことに気づいた時に、むしろ、「これは自分に向かって言っていると感じられるところはどこだろう」と思った。サビがなぜ効果的なのかはわかった今、あらためてこの歌詞を読むことで自分にとって何か大切なものがあるんだろうか?そうして、このフレーズが重大なことを言っているのに気づいた。

Please don’t put your life in the hand of a Rock’n’Roll band who’ll throw it all away
お前の人生をロックンロールバンドの手には委ねるな。あいつらは全て投げ出すんだろ。

私は、高校生の頃から批評をやっていたので、Twitterやはてなブログにいた「批評クラスタ」のさまざまなメンツを見ていた。そのクラスタのほとんどは当時の大学生だったろうし、私の知らない知識を豊富に持っていてとにかくすごいな、いつか関わりたいな、と思った。しかし、迷いもあった。とにかくグループの離合集散が激しい。批評とは名ばかりのゴシップ記事を面倒で難しい言葉に置き換えただけの文章も散見された。その雰囲気については『批評なんて呼ばれて』に書いたとおりだ。その人たちに感じていた気持ちはまさに“Rock’n’Roll band who’ll throw it all away”だった。あれはロックバンドにすぎない。すぐ喧嘩するし、いつかいなくなる。一方的に知っているだけだが、向こうは自分のことなんか知らない。構っちゃくれない。何より、これはOasisというすでに最高のロックバンドだったロックバンドが言っている。ただのスカしかもしれないが、彼らは本当に兄弟仲が悪く、曲ができたあと、何度も活動休止と解散を繰り返す。ギャラガー兄弟の愛するビートルズもメンバーが生きている間に解散した。たぶん、リーダーである兄のノエルはこのことを本気で書いたのだ。そして同時に、私にとっても本当の言葉だった。

ある時期まで、私は人に期待されるのも、人に期待するのも嫌いな人間だった。なぜか。それは私が無責任な人間だったからだ。無責任であるがゆえに、人に期待されても本気で向き合えないし逃げる。そして、人に期待しないことで、その人に対して期待したぶんの責任から逃げる。ただ、自分のことだけを考える。世界はいつ滅んでもいい。いろんな宗教の終末論が示すとおり、人類はいつも人類はいったん滅ぶしかないと信じている。適当にその場しのぎにはちゃめちゃに楽しんで、あるとき本当に嫌になったら自殺すればすむ。若いということはそういうことだ。自分のことだけを考えていくことで生きてよいし、どうせみんなそんなふうにしか考えていないんだと感じる時期は人生に一度はある。そんなとき、この言葉は「みんなすべてを投げ出すんだからお前は他の人を信じなくていいんだ」という意味に思えたし、心の慰めになったのだ。

しかし、大学生のときにいろいろあり、私は生活の態度を見直すことになる。人は人に期待してしまうし、自分も本当はどこかでいつも他人に期待してしまっている。だから、自分に期待してくれる人に私も期待しよう。心の底からそう思うようになった。その時、“Please don’t put your life in the hand of a Rock’n’Roll band who’ll throw it all away”が真逆の意味に感じられた。「すべてを投げ出すようなやつらもいるんだから、お前はちゃんとそうじゃないやつらを信じろ」。こうして、私は批評のコミュニティから離れることになった。少なくとも、当時の自分が信じられる人がいる世界はそこにはなかった。

だから、ぶんまるでこれを歌うことは当然なのだ。あなたの愛する人や物を奪うかもしれないこの世界はいまだに滅びるべきかもしれない。それでも、あそこに来たあなたを私はただ単に信じているのだ。そして忘れてはいけない。突発バンドを信じてはいけない。メンバーの中でもsimesabaと私は酒を飲みすぎる。少なくとも今日は信じないでおこう(“At least not today”)。ぶんまるにいたあなたが、そこで他の誰かを信じていけること。それ以上にどんな喜びがあるのだろう?

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米原将磨

電子版『批評なんて呼ばれて』の販売について

この記事で、8月末までに電子版『批評なんて呼ばれて』の販売を宣言していたが、他の課題を有せする必要があり、追加の後書きを仕上げた段階から動けていない。もう少々お待ちいただきたい。

PDFくらいはなんとか早めに作ってしまいたいが、B5サイズのままでいいのか、など考えてしまったが、いったんそれでやるしかないで、700-800円程度でB5サイズのPDF電子版を売ろうと思う。実際、この手のほんの読者の中には、紙で印刷する用途があるそうなので、それに対応したい。とはいえ、だとするとA4版もセット販売してしまうべきでは・・・、というのは悩ましいが、Indesignに相談してみる。

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TERECO

常にもう一度アニメーションを見ること

私はアニメーションについてはストイックなので、どんなに短くても50カットくらいまでは映画を見ながら数えない人の意見は聞かない。それすらできない人の「演出」なる議論は聞いてもしょうがないと思う。

物語と演出の重なりについても、アニメーションについて語ることはそんなに易しいものではない。とはいえ、楽しい。まず、アニメーションにやられること。だから、常にもう一度アニメーションを見ないといけない。

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米原将磨

MAC OS ver. OBSでZOOMの音声を配信にのせる方法

環境(2023年8月現在)
  • MacBook Air M1, 2020, メモリ 16 G, Ventura 13.4
  • ZOOM バージョン5.14.10
  • LadioCast バージョン000013000
  • Blackhole バージョン 0.4.1
手順

このサイトを見て、LadioCast とBlackholeを揃える。なお、Blackholeを無料で公式からDLする方法はよく知らない。ただ、無料で使用するのはおかしいので支払いをすべきだろう。Stripe経由での支払いなので、クレジットカード入力しても情報が盗まれる可能性は低い。

このサイトでも、設定が公開されているので各自参考すると良いが、このサイトはOBSの設定が掲載されていないので私はLadioCast とBlackholeの設定に加えてOBSの設定も示す。

LadioCastの設定

LadioCastの設定

ZOOMの設定

ZOOMの設定

OBSの設定

「My Microphone」には、自分が使用しているマイクを設定する。「ZOOMキャプチャ」には、Blackholeを設定する。それによって、ZOOMの参加者の声をOBSに出力しつつ、自分の声も入力できる。OBSのモニターをオフにすれば、自分の声のフィードバックも聞こえずにすむ。

いろいろ検索してもこれというのがヒットしなかったので、書いた。

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米原将磨

みんなTwitterでものを考えすぎだと思う

この記事で書いた通り、私はTwitterに人々が信じるような価値があったのはそもそもわずかな期間でしかなく、それは規模の拡張のために失われていったと書いた。多かれ少なかれ、人々の集いの場とはそういうものである。少人数の集まりに感じられた豊かさは、無料や使いやすによってその豊かさだけを欲する人を自然に呼び寄せる。そして、それに対応するために、集いの場を色々な方法で改善しようと努力する。その結果、元の場所はなくなり、同じ名前の別の場になっていく。あるいは、別の名前の同じ場所になっていく。こうした場合、最初の頃からいた人は、みんなこんなふうに言う。「この場所の良さは、最初の頃にあった、あの性質なのだ」。しかし、それはもう存在しないし、そこまでいうなら、場を維持する努力を具体的な形でしてこなかったではないか、としか反論されないだろう。

他にも、2010年代後半のTwitterに公共性があるといっている人がいた。私にはほとんど理解できない。公共性があるということは現実に近くなるということであり、そんなものであるくらいならむしろ現実でいいのでないのだろうか。逆にいうと、そんなにもTwitterだけが現実になってしまうような世界で私は生きてこなかった。Twitterに公共性があるという主張をする人たちが正しいかどうかにももはや関心はなく、Twitterに本当に世界があると思っている人への心配のほうがつのる。

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米原将磨

さやわか文化賞2023批評賞受賞にあたって

受賞への感謝と『批評なんて呼ばれて』について

批評家・物語評論家のさやわかさんによって、「さやわか文化賞」が創設され、「さやわか文化賞2023」の発表が、2023年8月2日(水)から2023年8月3日(木)にかけて配信された。配信の様子は以下で閲覧することができる(アカウント作成および購入が必要)。

ついに発表!「さやわか文化賞2023」!!!https://shirasu.io/t/someru/c/someru/p/20230802205243

応募総数は36件あり、全てに対して真摯な選評が開示されるという、おそらく日本では類を見ない賞となった。大賞は安川徳寛『もしかして、ヒューヒュー』(映画)、さやわか賞(副賞)は池田暁子『池田暁子の必要十分料理』(マンガ)だった。その他、ニーツオルグ賞・批評賞・物語賞・紙媒体賞・物理物件賞で、それぞれの受賞者がいた。

私はこの賞に楽曲(diontum名義 EP『酒と珈琲』」https://dinotum.bandcamp.com/album/–2)とそれについての批評、そして、『批評なんて呼ばれて』を応募した。そして、大変名誉なことに、『批評なんて呼ばれて』に対して、神山六人さんという、カルチャーお白洲では有名な大変素晴らしい書き手の方と並んで、批評賞を授けていただいた。お読みいただいた皆様、また、こうした場を授けていただいたさやわかさんに改めて感謝の気持ちを示したい。なお、現在、『批評なんて呼ばれて』は紙版が絶版のため、電子版を刊行したい。8月末までにはPDFの用意をし、間に合えばepubでも用意したい。普及版として紙版も刊行したいが、予算の都合もあり、いつになるかは不明だ。

受賞にあたっての選評と受賞の言葉

『批評なんて呼ばれて』に対するさやわかさんによる選評は次の通りだった。

これは、よくできた論考だと思います。造本もすこくいいです。いいんですが、非常に僕の立場からは賞賛しにくい本でもある。なせなら、これは僕のやった仕事について書かれているからですね。照れというのもあるし、これを褒めると自画自賛みたいになってもしまう。俺の言ったことがわかったんだなよしよしと偉そうに思っているようにも見えてしまう。だからなんだか褒めにくいんですが、そういうものを褒めないところが僕のよくないところだとメタレベルをひとつ上げた悩ましさも自覚しています。厳しい言い方かもしれませんが気になるのはこの本が対話形式になっていることについてで、そういう形式でやることをちょっとナルシスティックに思えてしまったのですが、先を読み進めるとそれについては作者自身が第二版のあとがきで言及していました。いわば作者は「恥ずかしいのはわかってる、わかってるんだ」と言い募っていらっしゃるわけです。ただ、作者がこの書き方を必要としたのも事実な訳で、それを乗り越えなけれは書き始めることができないことって、ありますよね。僕は老人なのでわかるのですが、特に若いうちは、あります。だから、これはある種のハッピーバーステーな一冊であり、そしてこの作者は(自身が書かれているとおり)ここから始まるのでしょう。そういう意味では、この次のものを確実に書くのがいいと思います。大事なのはこのあとがきをもひとつの自己愛に回収せず、書き続けることかなと思いました。次が楽しみです。

さやわかさんの番組視聴者の層はとても広く、カルチャーお白洲のおたよりの投稿は常にレベルが高く、商業デビューしている人々が当たり前のように視聴しているこの番組の文化賞はかなりレベルが高いことが想定されたので、正直なところ、『批評なんて呼ばれて』が受賞することは難しいと考えていた。また、拙著はある問題点を抱えていて、それも受賞をしない理由になるだろうと考えていた。

さやわかさんが指摘しているように、まずさやわかさん自身をかなり肯定的に書いてしまっている本であり、なにかの理論的な乗り越えをしようとはしていないので、さやわかさんにとって、この本を肯定的に論評する時点である種の自分褒めになってしまう側面がある点だ。次に、拙著は手紙という対話形式をとり、最終的に奇妙な和解をする二人を登場させることでナルシシズムの体裁をとっている点だ。しかし、「作者がこの書き方を必要としたのも事実な訳で、それを乗り越えなけれは書き始めることができないことって、ありますよね。僕は老人なのでわかるのですが、特に若いうちは、あります」と評していただいた通り、私にとっては、批評のリハビリをしていた執筆当時、自分で書いた文章をそのまま批判し、その批判にさらに応じていくといった書き方、つまりは自分自身につきあってあげる、という「自己愛」を通じてしか本の完成は叶わなかったのだ。2022年に『ユリイカ』の今井哲也特集(http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3741)には「世界はおもちゃ箱 今井哲也について」という批評を寄せたものの、私の中ではまだうまく批評を書くことができず、編集の方には大変な迷惑をかけてしまった。その中で平行して、毎月1万字近く書きながらお白洲のおたよりを書いていた。『批評なんて呼ばれて』の原型はそんなふうにして作られた。

2010年代後半に批評から撤退した時期がなければ、本来、こうした本は5、6年前に書いておくべきだったのだろう。しかしそれでも、選評で言われているように、この本がもしも若さを保っているなら、私がまだ20代の半ばだったときに書いておくべきだったことを、おそらく当時よりもうまく感情を操作することで、必要なことを的確に表現できていたとも思える。それはそれで、歳を重ねたのにも意味があったのかもしれない。とはいえ、この選評にもある通り、これは若書きであり、人生の中で1回しか放てない弾丸なのだ。しかし、出し惜しみする理由はない。「出し惜しまず溜めなし紡ぐたびクラシック」と、自分で「Водка」(https://dinotum.bandcamp.com/track/–3)に書きつけた通り、いまこの瞬間使えるものはすべて使いきるつもりだ。だからこそ、次の本を書かなければこの本に価値はほとんどないと言っていいだろうし、私は、66部が人々の手に渡っているなかで、その読者に対する責任を負っている。そして、次の本が最初の本の読み手から評価されたときに、この本はほんとうの意味で価値のあるものとなるだろう。

ところで、私はもう一つの責任を負っている。さやわか文化賞は今年から始まった。今回の大賞とさやわか賞(副賞)はいずれも商業作品で、選評を読んだ限り、実際に読み、あるいは鑑賞してはいないものの、時代的なコンテクストの中で戦略を練って作られた優れた作品だと思われる。また、大賞・さやわか賞に限らず、ニーツオルグ賞・批評賞・物語賞・紙媒体賞・物理物件賞の受賞者たちの作品はそれぞれ力作ぞろいだった。それが故に、それぞれ活動を継続して他の場所でも成果を出すことができなければ、さやわか文化賞自体が単なる内輪ネタで終わってしまうのだ。それは、ひとりの受賞者としてまったく本意ではない。内輪ネタに終わらないようにするためには、さやわか文化賞に応募したことによって発生する責任を引き受けるほかない。私にとってそれは、自己愛を脱する活動にほかならない。

結果として、『批評なんて呼ばれて』刊行以後、私は他の人を巻き込んだかたちでの活動を開始している。その一つが『闇の自己啓発』という書籍で有名な江永泉さんと月一度配信している「光の曠達」(https://youtube.com/playlist?list=PLqquazgWuPmZUDMr85Gfq_JoDhmzsmQKV)である。江永さんの活躍の場をつくることが目的だが、私と江永さんは意見がおおよそ異なっており、自己の対話とは違って甘えることはできないので、毎月研鑽している。また、2010年代同人誌批評シーンについて、当事者にインタビューするという企画を動かしている。第1回はすでに収録を終え、現在書き起こしをしているところだ。これとは別に、ある方の著作の準備の手伝いを始めている。この本は、サブカルチャー批評で外すことのできない本になるだろうという確信があるが、詳細はまた今度、公表したい。いずれにせよ、私はもう自分と話をすることをやめることができるようになった。そうして、私自身の著作として、『批評なんて呼ばれて』で予告した『Javascpritから遠く離れて』を書き始めている。この本は『批評なんて呼ばれて』で取り上げたさやわかさんの活動ではなく、そこで言及することを避けてしまった、さやわかさんの批評そのものと本格的に対決することになる。また、一時代を画した、私の人生で大きな影響を与えた人物について論じたい。その人は、東浩紀という。なので、仮題として以下を示す。『JavaScpritから遠く離れて――東浩紀について』。このままのタイトルになるか私にはまだ分からないが、おおよそこのタイトルのような本になるだろう。

以上をもって受賞の言葉に代えさせていただます。

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米原将磨

From Twitter to X

自分はなんとも思わなかったが、人々が熱くいろいろ語るのに驚いた。ITサービスはいろいろ変わる。そういうものでしかないし、そう思って付き合っていくしかない。

私はTwitterを15歳の時から使っている。いま活躍している研究者たちが30代になった頃にTwitterを使っていて、それを読むのが楽しかったが、サービス利用者の拡大に伴うコスト増大と、利用者増加に伴うサービス性質の変化があり、そもそもマスクの登場以前から、とっくに2008年から2014年くらいまでの6年間のTwitterのセミクローズドな雰囲気は失われて、私はそれ以降、情報収集や宣伝として以外にはサービスを使わないようにしてきた。とはいえ、懐かしむ気持ちもない。それは、ただ単にそういう時代があったということに過ぎない。

永遠に制約のない無料なものは存在しないし、思い出を過度に美化してサービスと一体化することもない。単に、企業としては心配だが、全ては資本が解決するかどうかを見届けたい。あるいは、ロケットを宇宙に飛ばすよりも、SNSの経営は難しいのだろうか?

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TERECO 米原将磨

光の曠達の目的と寄付が必要な理由

先日の配信について、編集者の方や著名なライターなどに言及された。大変ありがたいとともに、光の曠達が今までより広く名前が知られていく最初の過程に入ったと感じた。そこで、光の曠達の目的と寄付が必要な理由、あるいは寄付以外での支援の方法についてここで述べておきたい。

まず、光の曠達をなぜやっているのかについてのモチベーションを説明する。次に、隠すことはないので、会計について明らかにし、なぜ寄付を募っているか説明する。最後に、光の曠達を続けていくことの行く末について語る。

(1)米原はなぜ光の曠達を主催し、江永泉さんに参加していただいてるのか。

これは、私が江永泉さんのファンであり、もっと活躍してほしいからだ。私たちは長い付き合いがあり、信頼関係があるなかで光の曠達をしている。そうした信頼関係あればこそ、彼にとっては前例のない、台本もほとんどない長時間配信で話し続けるリスクを引き受けてくださっている(驚かれるかもしれないが、米原が思いつきで話し始めることはほとんど事前に打ち合わせしていないのに、江永さんはその全てを的確に打ち返すのだ)。そして、何より、配信の中で江永さんが取り上げる本は常に興味深く、解説する視点も、含蓄に満ちている。また、犬の漫才師のように喋り続ける隣の米原の発言に対して同調とは違う適切なコメントをする賢者のような鋭さがある。この江永泉の痺れるような技巧を世に伝えることで、文章の仕事が増えてほしいと考えている。また、江永泉の人柄も多くの人々に知ってほしい。彼は、たとえ姿を見せることがなくても、ユーモアと慈愛に満ちた素晴らしい人であることが伝わると嬉しい。

(2) 常に寄付が必要な理由、そして寄付以外の支援

光の曠達は配信場所をお金を払ってお借りしている。その場所は南米フォルクローレを中心に音楽活動をしている山下Topo洋平さんが所有しているスタジオ「KOKOPELLI」だ。現在、有料貸出されており、配信プラットフォーム「シラス」内にあるチャネンル「山下Topo洋平のHappy New Moment」(https://shirasu.io/c/topo)に登録すると、その中で詳細情報・応募方法が開示されている。私は、ひょんなことからTopoさんと直接お会いする機会にめぐまれたので、その中で有料スタジオ貸出プロジェクトの最初の利用者として半年ほど利用させていただいている。スタジオは音楽録音を目的としているが、配信やライブ演奏もできるように比較的に広く機材が充実しており、下記の利用料金は都内では破格の安さだと考えられる。

半年にわたる配信の中で、サービス利用方法のベストな形を探っており、Topoさんと相談の上、新規の料金をプランを作成した。このプランでは、光の曠達の1回にかかるスタジオ利用に関わる料金が約8000円となる。また、書籍をコンテンツとして取り上げた場合、書籍代がかかり、米原のようにコンテンツがひとつのテーマになっている場合、資料代は書籍にはとどまらない。そして、当然のことながら、配信の間の飲食代はすべてTERECO(光の曠達の運営元)が提供し、江永さんに支払われている雀の涙ばかりで、私にとって慚愧に堪えない謝礼も計上される。簡単にいうと、現在、1回配信するたびに1万円以上はかかっており、上振れはいくらでもありえる。

私はフルタイムの労働をしており、1万円程度はとくに生活するのに障害とはならない。ただし、金銭によるリターンがないと、私の提供している配信の質がどう評価されているかわからない。現在、光の曠達の1回の配信は、平均して4000円程度の寄付がある。2023年6月号は観客が1名おり、おおよそ5500円の売上があった。とはいえ、目標には程遠いため、まだ配信のクオリティや宣伝でのリーチ方法で改善すべきところがあるというのは明らかだ。とりあげる題材もこうした観点で変更し、宣伝の内容も変えていくことになる。配信についての判断のすべてが金銭によるフィードバックに基づいているのだ。私は具体的に金銭を支払った人の評価を比較的に重視する。また、常時配信費用に売上が届かない場合、光の曠達、とくに江永泉を巡るコミュニティを維持するということが難しい。たとえば、観客で来た人が主役になるような配信のないイベントをKOKOPELLIで開催するといったことを実施したいとしても、毎月の光の曠達が赤字のなかでそれを実施することは、持続性を考えるとためらわれてしまう。

以上のように、Topoさんの協力で都内では破格の料金でスタジオを利用させていただき、薄謝で長時間配信をお願いしているのに嫌味のひとつも言わない江永さんの人格によって光の曠達は成立している。私がしているのはせいぜい用意の部分だけである。しかし、その用意で生じる問題のほとんどは資本で解決できるのであり、クオリティの向上もほとんど資本で解決できる問題なのだ。(1)で述べたように江永泉の活躍の支援をするためにも、その後のコミュニティ運営のためにも、寄付を常に受け付けている。

しかし、寄付以外にももちろん支援する方法はある。高評価・チャンネル登録はもちろん、リーチアウトの幅が広がるので大変ありがたい。また、光の曠達のリンクをSNSで貼っていただくのも非常にありがたい。配信に対するコメントはなくてもリンクを貼っておくだけで、誰かが関心を向ける可能性は少しでも高くなる。それは大変心強い。

(3) 光の曠達を続けていくことの行く末について

光の曠達を続けていく中で、いつか江永泉の単著を取り上げる回がくればこれほど嬉しいことはない。とはいえ、それはいつでもいい。ひとまず、江永さんの活動の中で光の曠達が何かに役立ってほしい。

一方で、光の曠達を提供しているTERECOという運営主体としては、光の曠達は今後展開していく様々なイベントの試金石のような扱いとなっている。現在、光の曠達が始まった後では、「シラス」で知り合った方をお呼びしたイベント(id-kabenuke×hideaki×米原将磨(diontum) 『街とその不確かな壁』・『変声 転轍の後で』W刊行記念鼎談イベント「不確かな壁を抜けるために」https://youtube.com/live/qE1KYnM662Y?feature=share)などをTERECOの提供で実施したが、光の曠達の運営で得られた知見が活かされている。また、この配信はアマチュアの方をお呼びしているので、飲食代以外は提供していないが、いずれはすでに商業デビューしている方をお呼びする資本の体制を整えたい。また、長時間のインタビュー動画シリーズも考えていて、その最初の試みとして、私の研究者のお知り合いをお呼びして収録し、その様子を公開した(浅野千咲さん×佐藤正尚「ハイチ文学の味わい ワカンダからハイチへ」パート1 https://youtu.be/eWuTEvNLXKI)。また、動画以外でも、TERECOは、ある同人誌批評の団体へのインタビューや、ある方の文章の書籍化なども視野に入れている。

TERECOはこのような形で、文化について語る場を創出していきたい。

最後に、寄付はこちらから受け付けています。配信を見て支援していただけるかたは、(2)に書いた通り、他の方法でも支援をいただけると幸いです。

doneru の寄付先

https://doneru.jp/TERECO

光の曠達

https://youtube.com/playlist?list=PLqquazgWuPmZUDMr85Gfq_JoDhmzsmQKV

YouTube チャンネル TERECO

https://youtube.com/@tereco9635

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米原将磨

入关学について

中国でのヤフコメ民みたいな人がチャットして政治談義すること”键政(ジェンシャン)”という。過激になっていくと、”键盘侠(ジャンパンシァ)”になる。键盘侠には、理工系が多く、键盘侠の中でも、こうした理工系の人々は”工人党(ゴンレンダン)”と呼ばれている。

こうした人たちに特徴的なのは、人文知を軽視し、歴史・政治について独自の体系を信じている。それが、2019年頃から流行した”入关学(ルガンシュエ)”だ。入关学は以下のような歴史観に従っている。

14世紀から17世紀に存在した中国の王朝「明」を米国にたとえられ、その後成立した「清」が現在の中国になぞらえられている。米国を代表とする資本主義体制の西側諸国は、多くの矛盾を抱えている。明は滅んでいき、清は新しい世界秩序を立ち上げたように、清たる中国が明たるアメリカの覇権を打破する、といった発展史観に引き継がれる。

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TERECO 米原将磨

2010年代からのマンガ批評年表

先日、米原将磨名義の活動でこんな配信をしました。

江永泉と米原将磨「光の曠達」 2023年4月号

こちらでは、高橋敏夫『理由なき殺人の物語―『大菩薩峠』をめぐって』と、「2010年から2023年までのマンガ批評が気になってまして」という2つのテーマで配信しました。後者について、リストを作成したのですが、コメントのフィードバックを追加しました。「share_managa_critic_list_[日付].csv」のデータ名となっています。[日付]の部分には作成日が入ります。定期的にアップデートするかもしれないし、しないかもしれないですが、一応そうなってます。

また、参考文献表のスタイルで書式を統一しようとしていたのですが、うまくスクリプトを組めず、挫折しました。そのまま文献表に載せられる体裁ではないのです。申し訳ないのですが、ご理解いただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

https://drive.google.com/file/d/1DoI-KJBKWNijGRPG-bj-5Te2vcV25z_L/view?usp=sharing

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