カテゴリー
佐藤正尚 南礀中題 米原将磨

今後の予定について

今後の仕事の計画がおおよそ決まって来たので、以下で紹介する。というのも、私は動画配信以外の手法で、オンライン上で積極的に意見を述べることや文章を発表することが極端に少ないので、どのような仕事をしているのかを第三者からみて可視化できるようにするためだ。このサイトを作った当時、二週間ほどはデイリーで更新していたが、いまのメインの仕事の都合で書く仕事に時間を費やすよりかは読む仕事に時間を使うため、文章を書かなくなってしまった。また、私は書く時間があれば書きはするものの、それよりかはずっとおしゃべりな人間なので、配信のためにスライドをまとめる程度のほうが向いている。

私は結果として発表もされない文章を年間で10万字程度は常に書いているが、そのほとんどは調べ物の書き抜きやメモをまとめていくものだ。ある一つの仮説を抱いて文章を書き出すととにかく調べたくなってしまって書けなくなってしまう。また、実力も伴っていないし、業界は優れた書き手だらけなので仕事の依頼もない。とはいえ、配信のたびに批評について何か言っているやつとしての体面を保つ以上は、どんなことをしているのかをお見せしつつ、計画的な事業の中で自分の書く仕事を位置づけていることをここに表明し、「口だけクソやろう」だとか「態度だけでかいやつ」という汚名を返上しておきたい(直接言われたことはないが、だいたいそんなふうに見られているだろう)。ちなみに、これらのほとんどは2015年から足かけ8年程度で蓄積したものを再整理しているものなので、いきなり無からつくるわけではない。いわば、いったん継続的な仕事を一区切りするものがほとんどとなる。

では、以下に、2026年までの計画について、研究者(佐藤正尚)としての仕事と、批評家(米原将磨)としての仕事で分けて、整理したものをご提示する。各年月は公開予定の時期を意味している。

佐藤正尚としての仕事

2024年4月 アルフォンソ・アレとパヴロフスキーの系譜学的な読解についての論文。Julien Schuhの象徴主義におけるセナークル論とDevin Griffithsの科学アナロジー論を統合し、作品分析をするもの。

2024年5月 19世紀末から20世紀初頭のフランスにおける科学と哲学における原子論、および創作における原子表象の差異についての論文。

2024年9月 スピリチュアリスムにおけるUnité概念と反知性(l’anti-intelligence)の同時代受容における同質性についての論文。

2024年10月 ガストン・ド・パヴロフスキー『額の中の皺』のユーモア表現についての論文。ただし、必要な資料の一部について、フランスに資料閲覧を行く必要があり、渡仏できない場合はこの論文については発表できない。

2025年3月 余裕があれば、パヴロフスキーにおけるユーモア概念の変遷および戦時下におけるユーモアの意義を問う論文。

2025年6月 デジタル・ヒューマニティーズと批評理論を統合する理論的枠組みをする論文。査読誌はおそらく『言語態』。

2025年10月 博士論文「ガストン・ド・パヴロフスキーの思想の全体像の解明」を機関に提出。口頭審査後、一般公開。

2026年5月 出版社がとくに決まらない場合、自社であるフヒトベ(下記を参照のこと)から僅少部数(500部程度?)で博論を一般向けにして出版予定。題名は未定。

米原将磨としての仕事

2024年1月 メディア事業者である合同会社フヒトベを登記。事業内容はYoutubeチャンネルTERECOの運営、年刊雑誌『そらみつ』の発刊、不定期更新オンライン文芸誌『うまこり』の運営。

2024年2月末ないし3月中旬 不定期更新オンライン文芸誌『うまこり』をローンチ。美しい織物、すなわちテクストを意味することから。基本は有料サイト。無料記事、一部無料記事もある。すでに連載は1つが確定、2つが仮内定している。

2024年6月 『批評なんて呼ばれて』の普及版『批評なんて呼ばれた』をフヒトベより刊行。手紙形式ではなく一人称形式にし、構成も一部見直す。

2024年12月 雑誌『そらみつ』の創刊。タイトルは音感が好きなためで意味はとくにない。できれば文フリで売りたい。

2025年4月 タイトル未定の批評文化論についての本をフヒトベより刊行。『批評なんて呼ばれた』は2010年代の個人的な回想だったのに対して、こちらは1980年代から2010年代にかけての批評史をインターネットインフラの発展やソフトウェアエンジニアリングの技術変遷などを踏まえつつ、ジャーナリスティックな手法でまとめる予定。刊行が間に合わない場合、『うまこり』などで連載予定。

2025年8月 合同会社イースニッドよりADV PCゲーム「アイリス・オデッセイ第一作 『パンドラの少女』 」を発表予定。米原はプロデューサー、ナラティブデザイナー、演出効果で参加。ゲームはsteamで販売予定。

2026年4月 フヒトベより、音楽批評集『恋は二度死ぬ、あるいは死なない』を刊行。『うまこり』で個別に販売することも考えている。現在予定してる目次は以下の通り。

  • 恋は二度死ぬ、あるいは死なない ― aikoについて
  • リズムの哲学者 ― 山下Topo洋平について
  • 世界が終わるほどのロック ― チャットモンチーの世紀末的感性について
  • 踏むのは手続きと韻だけ ― 短歌とラップについて
  • 最初から最後の恋 ― 宇多田ヒカルについて
  • ミス・アメリカーナの肖像 ― テイラー・スウィフトについて
  • アイロニーのアメリカ人 ― エミネムについて

2026年6月 小説『負債の星』をフヒトベから刊行。経済批評の実践として債券・仮想通貨・人工衛星をテーマに小説を刊行。

2026年12月 アニメ批評集を刊行。「声と死と」・「シャフ度の系譜学」といった米原初期の批評を完全にリバイズ。その他、3DCGアニメ論、ミュージカルアニメ論を執筆する予定。

以上である。こう書いてみると、体調が崩れると一瞬で破綻するので健康に気をつけたい。では、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

カテゴリー
佐藤正尚

結婚式で使用したBGM一覧

2023年12月3日結婚式をしました。いろいろな事情があり、どんな曲も版権を気にせず使用できるということでしたので、すべての場面の曲について夫婦で選択させていただきました。「あの曲なんていうの」という声をいくつかいただいたので共有させていただきます。ご笑覧いただけますと幸いです。

BGMリスト

海の見える街, 久石譲
All I want for Christmas is you, Mariah Carey
愛を込めて花束を, Superfly
Merry-Go-Round(人生のメリーゴーランド), 久石譲
自由への扉(日本語版), 小此木麻里
Je te veux, Olga Scheps
Piano Concerto No. 21 in C Major, K. 467: II. Andante, フリードリヒ・グルダ, ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 & クラウディオ・アバド
Love Story, Dallas Storing Quartet
気まぐれロマンティック, いきものがかり
クリスマスイブ, 山下達郎
涙のふるさと, BUMP OF CHICKEN
双子姉妹の歌, Bud Shank version
Under the sea, Samuel E. Wright
The Avengers, Alan Silvestri
Can’t Take My Eyes OFF of You, John Lloyd Young
Hi-D!!!, DEPAPEPE
Shut up and dance, Walk the moon
流星群, 山下Topo洋平
Think out Loud , Ed Sheeran
Don’t stop me now, Queen
Don’t know why, Norah Jones
If It Makes You Happy, Sheryl Crow
Fix you, Coldplay
La plus bell pour danser, Sylvia Vartan
Closing Credits:Sherry / December, John Lloyd Mills Young
Heart Shaker -Japanese Ver-, Twice
Don’t Look Back In Anger, Oasis
Piano Man, Billy Joel
I’m coming out, Diana Ross
If…, 上原ひろみ
reflection eternal, nujabes
Yuri On ice, 梅林太郎
おジャ魔女カーニバル, MAHO堂
One(reprise)/finale, from Chorus line
Dreamgirls, Beyoncé
Seasons of love, from Rent
スキンブルシャンクス・レイルウェイキャット, from Cats
Defying Gravity, from Wicked
사랑은 마치, from RED BOOK
花束を君に, 宇多田ヒカル
Dancing queen, ABBA
Remember me, Miguel
Hoppípolla, Sigur Rós
Moon River, Audrey Hepburn

カテゴリー
佐藤正尚

WordPress 関係のアプリのバグについて

ある時からWordPress のiOS アプリで投稿編集ができなくなった。Jetpackの統合アプリを使えば良いっぽいのでそちらに切り替えたが、新規投稿はできるものの更新はやはりできない。何かお金を払う必要があるのかとくに面倒なので調べでいない。というか、JetPackインストールで成功したことがない。結果的にWP-adminで編集するのが一番早い、ということらしい。

カテゴリー
佐藤正尚

どうしてDon’t Look Back in Angerなのか

2023/10/8-9で開催されたイベントぶんまるで、なぜかバンドをすることになった。最初に決まった時から、“Don’t Look Back in Anger”をやることになっていた。simesaba がなぜ「この曲やるしかないやろ」、となったかについては知らないが、私にとっては当たり前だった。

私は中学生になるまで、自発的にカラオケというものに行ったことがなかった。中学生になって初めて友人とカラオケに行くことになったとき、私は最後に“Don’t Look Back in Anger”を歌った。小学生の頃から親の影響で海外の曲を聴いていたので、Oasisの曲はYouTubeが無法地帯だったときに有名な曲はぜんぶ聞いたし、アルバムも何枚か金を出して借りてデータコピーをしていた。歌詞の意味も、Oasisオタクがネットに書いていたので、英語を自分で学びながらなんとか理解していった。そうして、一番好きになったOasisの曲は“Don’t Look Back in Anger”になった。

しかし、多くの詩がそうであるように、歳をとると詩の意味が違って見えてくる。最初の頃はなんとなく“Take me to the place where you go, where nobody knows if it’s night or day”とかのフレーズに惹かれていた。ここ以外のどこかへ行きたいという抽象的な行き場のない感情を表現するときによく言うやつだ。中学生くらいだから好きだったのだろう。

しかし、高校生くらいになりあることに気づく。サビは、サリーとなる女性と一緒にはもう歩くことはない、彼女の心は離れていくという失恋を予感させるように読める。だから、“but don’t look back in anger I heard you say”というように、彼女は「怒って振り返って私をみないで」ということを通り過ぎていった語り手に言ってるように普通は思える。しかし、look backはよく考えたら日本語とまったく同じように「思い出」と「後ろ」を振り返るという意味がある。もちろん、思い出を振り返るという意味であれば、look back の後ろにon/to/atがないという違和感を覚えなくもない。しかし、これは詩なのだから、意味さえ繋がれば実際に歩いていたかは関係なく、「怒って思い出を振り返らないで」という解釈もできるだろう。そう思い、歌詞を読み直してみると、そもそも曲の歌詞全体はかなり意味不明だということに気づいた。

まず、youが誰かわからないまますすみ、“So Sally can wait ”でいきなりサリーに対して歌うので「ああyouはサリーだったのか」と思う瞬間に、“she knows”と「え、youじゃないんかい、サリー」となる。また、 “she knows its too late as we’re walking on by”のasの意味もほとんど読みとれない。つまり、サビの部分だけ聴いた人は、「彼女は待つことができる」・「彼女は遅すぎると知っている」・「自分たちは(お互いに?)通り過ぎていく」の3つのセンテンスの意味がどうつながっているのかは、ほとんど読みたい人の気持ちをそのまま反映するしかないつくりになっているのだ。そして、それがゆえにおそらく英語圏ではそれぞれの人が自分にとっての“Don’t Look Back in Anger”を心に持つのだと気づいた。全体を知ると意味不明だが、サビだけどこかで聴いた時にだけ聴いた人にとっては多様な意味を持ってしまい、しかも微妙に切なさを刺激する言葉だけが並んでいる。実に見事だ。

私はそのことに気づいた時に、むしろ、「これは自分に向かって言っていると感じられるところはどこだろう」と思った。サビがなぜ効果的なのかはわかった今、あらためてこの歌詞を読むことで自分にとって何か大切なものがあるんだろうか?そうして、このフレーズが重大なことを言っているのに気づいた。

Please don’t put your life in the hand of a Rock’n’Roll band who’ll throw it all away
お前の人生をロックンロールバンドの手には委ねるな。あいつらは全て投げ出すんだろ。

私は、高校生の頃から批評をやっていたので、Twitterやはてなブログにいた「批評クラスタ」のさまざまなメンツを見ていた。そのクラスタのほとんどは当時の大学生だったろうし、私の知らない知識を豊富に持っていてとにかくすごいな、いつか関わりたいな、と思った。しかし、迷いもあった。とにかくグループの離合集散が激しい。批評とは名ばかりのゴシップ記事を面倒で難しい言葉に置き換えただけの文章も散見された。その雰囲気については『批評なんて呼ばれて』に書いたとおりだ。その人たちに感じていた気持ちはまさに“Rock’n’Roll band who’ll throw it all away”だった。あれはロックバンドにすぎない。すぐ喧嘩するし、いつかいなくなる。一方的に知っているだけだが、向こうは自分のことなんか知らない。構っちゃくれない。何より、これはOasisというすでに最高のロックバンドだったロックバンドが言っている。ただのスカしかもしれないが、彼らは本当に兄弟仲が悪く、曲ができたあと、何度も活動休止と解散を繰り返す。ギャラガー兄弟の愛するビートルズもメンバーが生きている間に解散した。たぶん、リーダーである兄のノエルはこのことを本気で書いたのだ。そして同時に、私にとっても本当の言葉だった。

ある時期まで、私は人に期待されるのも、人に期待するのも嫌いな人間だった。なぜか。それは私が無責任な人間だったからだ。無責任であるがゆえに、人に期待されても本気で向き合えないし逃げる。そして、人に期待しないことで、その人に対して期待したぶんの責任から逃げる。ただ、自分のことだけを考える。世界はいつ滅んでもいい。いろんな宗教の終末論が示すとおり、人類はいつも人類はいったん滅ぶしかないと信じている。適当にその場しのぎにはちゃめちゃに楽しんで、あるとき本当に嫌になったら自殺すればすむ。若いということはそういうことだ。自分のことだけを考えていくことで生きてよいし、どうせみんなそんなふうにしか考えていないんだと感じる時期は人生に一度はある。そんなとき、この言葉は「みんなすべてを投げ出すんだからお前は他の人を信じなくていいんだ」という意味に思えたし、心の慰めになったのだ。

しかし、大学生のときにいろいろあり、私は生活の態度を見直すことになる。人は人に期待してしまうし、自分も本当はどこかでいつも他人に期待してしまっている。だから、自分に期待してくれる人に私も期待しよう。心の底からそう思うようになった。その時、“Please don’t put your life in the hand of a Rock’n’Roll band who’ll throw it all away”が真逆の意味に感じられた。「すべてを投げ出すようなやつらもいるんだから、お前はちゃんとそうじゃないやつらを信じろ」。こうして、私は批評のコミュニティから離れることになった。少なくとも、当時の自分が信じられる人がいる世界はそこにはなかった。

だから、ぶんまるでこれを歌うことは当然なのだ。あなたの愛する人や物を奪うかもしれないこの世界はいまだに滅びるべきかもしれない。それでも、あそこに来たあなたを私はただ単に信じているのだ。そして忘れてはいけない。突発バンドを信じてはいけない。メンバーの中でもsimesabaと私は酒を飲みすぎる。少なくとも今日は信じないでおこう(“At least not today”)。ぶんまるにいたあなたが、そこで他の誰かを信じていけること。それ以上にどんな喜びがあるのだろう?

カテゴリー
米原将磨

電子版『批評なんて呼ばれて』の販売について

この記事で、8月末までに電子版『批評なんて呼ばれて』の販売を宣言していたが、他の課題を有せする必要があり、追加の後書きを仕上げた段階から動けていない。もう少々お待ちいただきたい。

PDFくらいはなんとか早めに作ってしまいたいが、B5サイズのままでいいのか、など考えてしまったが、いったんそれでやるしかないで、700-800円程度でB5サイズのPDF電子版を売ろうと思う。実際、この手のほんの読者の中には、紙で印刷する用途があるそうなので、それに対応したい。とはいえ、だとするとA4版もセット販売してしまうべきでは・・・、というのは悩ましいが、Indesignに相談してみる。

カテゴリー
TERECO

常にもう一度アニメーションを見ること

私はアニメーションについてはストイックなので、どんなに短くても50カットくらいまでは映画を見ながら数えない人の意見は聞かない。それすらできない人の「演出」なる議論は聞いてもしょうがないと思う。

物語と演出の重なりについても、アニメーションについて語ることはそんなに易しいものではない。とはいえ、楽しい。まず、アニメーションにやられること。だから、常にもう一度アニメーションを見ないといけない。

カテゴリー
米原将磨

MAC OS ver. OBSでZOOMの音声を配信にのせる方法

環境(2023年8月現在)
  • MacBook Air M1, 2020, メモリ 16 G, Ventura 13.4
  • ZOOM バージョン5.14.10
  • LadioCast バージョン000013000
  • Blackhole バージョン 0.4.1
手順

このサイトを見て、LadioCast とBlackholeを揃える。なお、Blackholeを無料で公式からDLする方法はよく知らない。ただ、無料で使用するのはおかしいので支払いをすべきだろう。Stripe経由での支払いなので、クレジットカード入力しても情報が盗まれる可能性は低い。

このサイトでも、設定が公開されているので各自参考すると良いが、このサイトはOBSの設定が掲載されていないので私はLadioCast とBlackholeの設定に加えてOBSの設定も示す。

LadioCastの設定

LadioCastの設定

ZOOMの設定

ZOOMの設定

OBSの設定

「My Microphone」には、自分が使用しているマイクを設定する。「ZOOMキャプチャ」には、Blackholeを設定する。それによって、ZOOMの参加者の声をOBSに出力しつつ、自分の声も入力できる。OBSのモニターをオフにすれば、自分の声のフィードバックも聞こえずにすむ。

いろいろ検索してもこれというのがヒットしなかったので、書いた。

カテゴリー
米原将磨

みんなTwitterでものを考えすぎだと思う

この記事で書いた通り、私はTwitterに人々が信じるような価値があったのはそもそもわずかな期間でしかなく、それは規模の拡張のために失われていったと書いた。多かれ少なかれ、人々の集いの場とはそういうものである。少人数の集まりに感じられた豊かさは、無料や使いやすによってその豊かさだけを欲する人を自然に呼び寄せる。そして、それに対応するために、集いの場を色々な方法で改善しようと努力する。その結果、元の場所はなくなり、同じ名前の別の場になっていく。あるいは、別の名前の同じ場所になっていく。こうした場合、最初の頃からいた人は、みんなこんなふうに言う。「この場所の良さは、最初の頃にあった、あの性質なのだ」。しかし、それはもう存在しないし、そこまでいうなら、場を維持する努力を具体的な形でしてこなかったではないか、としか反論されないだろう。

他にも、2010年代後半のTwitterに公共性があるといっている人がいた。私にはほとんど理解できない。公共性があるということは現実に近くなるということであり、そんなものであるくらいならむしろ現実でいいのでないのだろうか。逆にいうと、そんなにもTwitterだけが現実になってしまうような世界で私は生きてこなかった。Twitterに公共性があるという主張をする人たちが正しいかどうかにももはや関心はなく、Twitterに本当に世界があると思っている人への心配のほうがつのる。

カテゴリー
米原将磨

さやわか文化賞2023批評賞受賞にあたって

受賞への感謝と『批評なんて呼ばれて』について

批評家・物語評論家のさやわかさんによって、「さやわか文化賞」が創設され、「さやわか文化賞2023」の発表が、2023年8月2日(水)から2023年8月3日(木)にかけて配信された。配信の様子は以下で閲覧することができる(アカウント作成および購入が必要)。

ついに発表!「さやわか文化賞2023」!!!https://shirasu.io/t/someru/c/someru/p/20230802205243

応募総数は36件あり、全てに対して真摯な選評が開示されるという、おそらく日本では類を見ない賞となった。大賞は安川徳寛『もしかして、ヒューヒュー』(映画)、さやわか賞(副賞)は池田暁子『池田暁子の必要十分料理』(マンガ)だった。その他、ニーツオルグ賞・批評賞・物語賞・紙媒体賞・物理物件賞で、それぞれの受賞者がいた。

私はこの賞に楽曲(diontum名義 EP『酒と珈琲』」https://dinotum.bandcamp.com/album/–2)とそれについての批評、そして、『批評なんて呼ばれて』を応募した。そして、大変名誉なことに、『批評なんて呼ばれて』に対して、神山六人さんという、カルチャーお白洲では有名な大変素晴らしい書き手の方と並んで、批評賞を授けていただいた。お読みいただいた皆様、また、こうした場を授けていただいたさやわかさんに改めて感謝の気持ちを示したい。なお、現在、『批評なんて呼ばれて』は紙版が絶版のため、電子版を刊行したい。8月末までにはPDFの用意をし、間に合えばepubでも用意したい。普及版として紙版も刊行したいが、予算の都合もあり、いつになるかは不明だ。

受賞にあたっての選評と受賞の言葉

『批評なんて呼ばれて』に対するさやわかさんによる選評は次の通りだった。

これは、よくできた論考だと思います。造本もすこくいいです。いいんですが、非常に僕の立場からは賞賛しにくい本でもある。なせなら、これは僕のやった仕事について書かれているからですね。照れというのもあるし、これを褒めると自画自賛みたいになってもしまう。俺の言ったことがわかったんだなよしよしと偉そうに思っているようにも見えてしまう。だからなんだか褒めにくいんですが、そういうものを褒めないところが僕のよくないところだとメタレベルをひとつ上げた悩ましさも自覚しています。厳しい言い方かもしれませんが気になるのはこの本が対話形式になっていることについてで、そういう形式でやることをちょっとナルシスティックに思えてしまったのですが、先を読み進めるとそれについては作者自身が第二版のあとがきで言及していました。いわば作者は「恥ずかしいのはわかってる、わかってるんだ」と言い募っていらっしゃるわけです。ただ、作者がこの書き方を必要としたのも事実な訳で、それを乗り越えなけれは書き始めることができないことって、ありますよね。僕は老人なのでわかるのですが、特に若いうちは、あります。だから、これはある種のハッピーバーステーな一冊であり、そしてこの作者は(自身が書かれているとおり)ここから始まるのでしょう。そういう意味では、この次のものを確実に書くのがいいと思います。大事なのはこのあとがきをもひとつの自己愛に回収せず、書き続けることかなと思いました。次が楽しみです。

さやわかさんの番組視聴者の層はとても広く、カルチャーお白洲のおたよりの投稿は常にレベルが高く、商業デビューしている人々が当たり前のように視聴しているこの番組の文化賞はかなりレベルが高いことが想定されたので、正直なところ、『批評なんて呼ばれて』が受賞することは難しいと考えていた。また、拙著はある問題点を抱えていて、それも受賞をしない理由になるだろうと考えていた。

さやわかさんが指摘しているように、まずさやわかさん自身をかなり肯定的に書いてしまっている本であり、なにかの理論的な乗り越えをしようとはしていないので、さやわかさんにとって、この本を肯定的に論評する時点である種の自分褒めになってしまう側面がある点だ。次に、拙著は手紙という対話形式をとり、最終的に奇妙な和解をする二人を登場させることでナルシシズムの体裁をとっている点だ。しかし、「作者がこの書き方を必要としたのも事実な訳で、それを乗り越えなけれは書き始めることができないことって、ありますよね。僕は老人なのでわかるのですが、特に若いうちは、あります」と評していただいた通り、私にとっては、批評のリハビリをしていた執筆当時、自分で書いた文章をそのまま批判し、その批判にさらに応じていくといった書き方、つまりは自分自身につきあってあげる、という「自己愛」を通じてしか本の完成は叶わなかったのだ。2022年に『ユリイカ』の今井哲也特集(http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3741)には「世界はおもちゃ箱 今井哲也について」という批評を寄せたものの、私の中ではまだうまく批評を書くことができず、編集の方には大変な迷惑をかけてしまった。その中で平行して、毎月1万字近く書きながらお白洲のおたよりを書いていた。『批評なんて呼ばれて』の原型はそんなふうにして作られた。

2010年代後半に批評から撤退した時期がなければ、本来、こうした本は5、6年前に書いておくべきだったのだろう。しかしそれでも、選評で言われているように、この本がもしも若さを保っているなら、私がまだ20代の半ばだったときに書いておくべきだったことを、おそらく当時よりもうまく感情を操作することで、必要なことを的確に表現できていたとも思える。それはそれで、歳を重ねたのにも意味があったのかもしれない。とはいえ、この選評にもある通り、これは若書きであり、人生の中で1回しか放てない弾丸なのだ。しかし、出し惜しみする理由はない。「出し惜しまず溜めなし紡ぐたびクラシック」と、自分で「Водка」(https://dinotum.bandcamp.com/track/–3)に書きつけた通り、いまこの瞬間使えるものはすべて使いきるつもりだ。だからこそ、次の本を書かなければこの本に価値はほとんどないと言っていいだろうし、私は、66部が人々の手に渡っているなかで、その読者に対する責任を負っている。そして、次の本が最初の本の読み手から評価されたときに、この本はほんとうの意味で価値のあるものとなるだろう。

ところで、私はもう一つの責任を負っている。さやわか文化賞は今年から始まった。今回の大賞とさやわか賞(副賞)はいずれも商業作品で、選評を読んだ限り、実際に読み、あるいは鑑賞してはいないものの、時代的なコンテクストの中で戦略を練って作られた優れた作品だと思われる。また、大賞・さやわか賞に限らず、ニーツオルグ賞・批評賞・物語賞・紙媒体賞・物理物件賞の受賞者たちの作品はそれぞれ力作ぞろいだった。それが故に、それぞれ活動を継続して他の場所でも成果を出すことができなければ、さやわか文化賞自体が単なる内輪ネタで終わってしまうのだ。それは、ひとりの受賞者としてまったく本意ではない。内輪ネタに終わらないようにするためには、さやわか文化賞に応募したことによって発生する責任を引き受けるほかない。私にとってそれは、自己愛を脱する活動にほかならない。

結果として、『批評なんて呼ばれて』刊行以後、私は他の人を巻き込んだかたちでの活動を開始している。その一つが『闇の自己啓発』という書籍で有名な江永泉さんと月一度配信している「光の曠達」(https://youtube.com/playlist?list=PLqquazgWuPmZUDMr85Gfq_JoDhmzsmQKV)である。江永さんの活躍の場をつくることが目的だが、私と江永さんは意見がおおよそ異なっており、自己の対話とは違って甘えることはできないので、毎月研鑽している。また、2010年代同人誌批評シーンについて、当事者にインタビューするという企画を動かしている。第1回はすでに収録を終え、現在書き起こしをしているところだ。これとは別に、ある方の著作の準備の手伝いを始めている。この本は、サブカルチャー批評で外すことのできない本になるだろうという確信があるが、詳細はまた今度、公表したい。いずれにせよ、私はもう自分と話をすることをやめることができるようになった。そうして、私自身の著作として、『批評なんて呼ばれて』で予告した『Javascpritから遠く離れて』を書き始めている。この本は『批評なんて呼ばれて』で取り上げたさやわかさんの活動ではなく、そこで言及することを避けてしまった、さやわかさんの批評そのものと本格的に対決することになる。また、一時代を画した、私の人生で大きな影響を与えた人物について論じたい。その人は、東浩紀という。なので、仮題として以下を示す。『JavaScpritから遠く離れて――東浩紀について』。このままのタイトルになるか私にはまだ分からないが、おおよそこのタイトルのような本になるだろう。

以上をもって受賞の言葉に代えさせていただます。

カテゴリー
米原将磨

From Twitter to X

自分はなんとも思わなかったが、人々が熱くいろいろ語るのに驚いた。ITサービスはいろいろ変わる。そういうものでしかないし、そう思って付き合っていくしかない。

私はTwitterを15歳の時から使っている。いま活躍している研究者たちが30代になった頃にTwitterを使っていて、それを読むのが楽しかったが、サービス利用者の拡大に伴うコスト増大と、利用者増加に伴うサービス性質の変化があり、そもそもマスクの登場以前から、とっくに2008年から2014年くらいまでの6年間のTwitterのセミクローズドな雰囲気は失われて、私はそれ以降、情報収集や宣伝として以外にはサービスを使わないようにしてきた。とはいえ、懐かしむ気持ちもない。それは、ただ単にそういう時代があったということに過ぎない。

永遠に制約のない無料なものは存在しないし、思い出を過度に美化してサービスと一体化することもない。単に、企業としては心配だが、全ては資本が解決するかどうかを見届けたい。あるいは、ロケットを宇宙に飛ばすよりも、SNSの経営は難しいのだろうか?