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佐藤正尚

どうしてDon’t Look Back in Angerなのか

2023/10/8-9で開催されたイベントぶんまるで、なぜかバンドをすることになった。最初に決まった時から、“Don’t Look Back in Anger”をやることになっていた。simesaba がなぜ「この曲やるしかないやろ」、となったかについては知らないが、私にとっては当たり前だった。

私は中学生になるまで、自発的にカラオケというものに行ったことがなかった。中学生になって初めて友人とカラオケに行くことになったとき、私は最後に“Don’t Look Back in Anger”を歌った。小学生の頃から親の影響で海外の曲を聴いていたので、Oasisの曲はYouTubeが無法地帯だったときに有名な曲はぜんぶ聞いたし、アルバムも何枚か金を出して借りてデータコピーをしていた。歌詞の意味も、Oasisオタクがネットに書いていたので、英語を自分で学びながらなんとか理解していった。そうして、一番好きになったOasisの曲は“Don’t Look Back in Anger”になった。

しかし、多くの詩がそうであるように、歳をとると詩の意味が違って見えてくる。最初の頃はなんとなく“Take me to the place where you go, where nobody knows if it’s night or day”とかのフレーズに惹かれていた。ここ以外のどこかへ行きたいという抽象的な行き場のない感情を表現するときによく言うやつだ。中学生くらいだから好きだったのだろう。

しかし、高校生くらいになりあることに気づく。サビは、サリーとなる女性と一緒にはもう歩くことはない、彼女の心は離れていくという失恋を予感させるように読める。だから、“but don’t look back in anger I heard you say”というように、彼女は「怒って振り返って私をみないで」ということを通り過ぎていった語り手に言ってるように普通は思える。しかし、look backはよく考えたら日本語とまったく同じように「思い出」と「後ろ」を振り返るという意味がある。もちろん、思い出を振り返るという意味であれば、look back の後ろにon/to/atがないという違和感を覚えなくもない。しかし、これは詩なのだから、意味さえ繋がれば実際に歩いていたかは関係なく、「怒って思い出を振り返らないで」という解釈もできるだろう。そう思い、歌詞を読み直してみると、そもそも曲の歌詞全体はかなり意味不明だということに気づいた。

まず、youが誰かわからないまますすみ、“So Sally can wait ”でいきなりサリーに対して歌うので「ああyouはサリーだったのか」と思う瞬間に、“she knows”と「え、youじゃないんかい、サリー」となる。また、 “she knows its too late as we’re walking on by”のasの意味もほとんど読みとれない。つまり、サビの部分だけ聴いた人は、「彼女は待つことができる」・「彼女は遅すぎると知っている」・「自分たちは(お互いに?)通り過ぎていく」の3つのセンテンスの意味がどうつながっているのかは、ほとんど読みたい人の気持ちをそのまま反映するしかないつくりになっているのだ。そして、それがゆえにおそらく英語圏ではそれぞれの人が自分にとっての“Don’t Look Back in Anger”を心に持つのだと気づいた。全体を知ると意味不明だが、サビだけどこかで聴いた時にだけ聴いた人にとっては多様な意味を持ってしまい、しかも微妙に切なさを刺激する言葉だけが並んでいる。実に見事だ。

私はそのことに気づいた時に、むしろ、「これは自分に向かって言っていると感じられるところはどこだろう」と思った。サビがなぜ効果的なのかはわかった今、あらためてこの歌詞を読むことで自分にとって何か大切なものがあるんだろうか?そうして、このフレーズが重大なことを言っているのに気づいた。

Please don’t put your life in the hand of a Rock’n’Roll band who’ll throw it all away
お前の人生をロックンロールバンドの手には委ねるな。あいつらは全て投げ出すんだろ。

私は、高校生の頃から批評をやっていたので、Twitterやはてなブログにいた「批評クラスタ」のさまざまなメンツを見ていた。そのクラスタのほとんどは当時の大学生だったろうし、私の知らない知識を豊富に持っていてとにかくすごいな、いつか関わりたいな、と思った。しかし、迷いもあった。とにかくグループの離合集散が激しい。批評とは名ばかりのゴシップ記事を面倒で難しい言葉に置き換えただけの文章も散見された。その雰囲気については『批評なんて呼ばれて』に書いたとおりだ。その人たちに感じていた気持ちはまさに“Rock’n’Roll band who’ll throw it all away”だった。あれはロックバンドにすぎない。すぐ喧嘩するし、いつかいなくなる。一方的に知っているだけだが、向こうは自分のことなんか知らない。構っちゃくれない。何より、これはOasisというすでに最高のロックバンドだったロックバンドが言っている。ただのスカしかもしれないが、彼らは本当に兄弟仲が悪く、曲ができたあと、何度も活動休止と解散を繰り返す。ギャラガー兄弟の愛するビートルズもメンバーが生きている間に解散した。たぶん、リーダーである兄のノエルはこのことを本気で書いたのだ。そして同時に、私にとっても本当の言葉だった。

ある時期まで、私は人に期待されるのも、人に期待するのも嫌いな人間だった。なぜか。それは私が無責任な人間だったからだ。無責任であるがゆえに、人に期待されても本気で向き合えないし逃げる。そして、人に期待しないことで、その人に対して期待したぶんの責任から逃げる。ただ、自分のことだけを考える。世界はいつ滅んでもいい。いろんな宗教の終末論が示すとおり、人類はいつも人類はいったん滅ぶしかないと信じている。適当にその場しのぎにはちゃめちゃに楽しんで、あるとき本当に嫌になったら自殺すればすむ。若いということはそういうことだ。自分のことだけを考えていくことで生きてよいし、どうせみんなそんなふうにしか考えていないんだと感じる時期は人生に一度はある。そんなとき、この言葉は「みんなすべてを投げ出すんだからお前は他の人を信じなくていいんだ」という意味に思えたし、心の慰めになったのだ。

しかし、大学生のときにいろいろあり、私は生活の態度を見直すことになる。人は人に期待してしまうし、自分も本当はどこかでいつも他人に期待してしまっている。だから、自分に期待してくれる人に私も期待しよう。心の底からそう思うようになった。その時、“Please don’t put your life in the hand of a Rock’n’Roll band who’ll throw it all away”が真逆の意味に感じられた。「すべてを投げ出すようなやつらもいるんだから、お前はちゃんとそうじゃないやつらを信じろ」。こうして、私は批評のコミュニティから離れることになった。少なくとも、当時の自分が信じられる人がいる世界はそこにはなかった。

だから、ぶんまるでこれを歌うことは当然なのだ。あなたの愛する人や物を奪うかもしれないこの世界はいまだに滅びるべきかもしれない。それでも、あそこに来たあなたを私はただ単に信じているのだ。そして忘れてはいけない。突発バンドを信じてはいけない。メンバーの中でもsimesabaと私は酒を飲みすぎる。少なくとも今日は信じないでおこう(“At least not today”)。ぶんまるにいたあなたが、そこで他の誰かを信じていけること。それ以上にどんな喜びがあるのだろう?