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佐藤正尚 南礀中題 米原将磨

今後の予定について

今後の仕事の計画がおおよそ決まって来たので、以下で紹介する。というのも、私は動画配信以外の手法で、オンライン上で積極的に意見を述べることや文章を発表することが極端に少ないので、どのような仕事をしているのかを第三者からみて可視化できるようにするためだ。このサイトを作った当時、二週間ほどはデイリーで更新していたが、いまのメインの仕事の都合で書く仕事に時間を費やすよりかは読む仕事に時間を使うため、文章を書かなくなってしまった。また、私は書く時間があれば書きはするものの、それよりかはずっとおしゃべりな人間なので、配信のためにスライドをまとめる程度のほうが向いている。

私は結果として発表もされない文章を年間で10万字程度は常に書いているが、そのほとんどは調べ物の書き抜きやメモをまとめていくものだ。ある一つの仮説を抱いて文章を書き出すととにかく調べたくなってしまって書けなくなってしまう。また、実力も伴っていないし、業界は優れた書き手だらけなので仕事の依頼もない。とはいえ、配信のたびに批評について何か言っているやつとしての体面を保つ以上は、どんなことをしているのかをお見せしつつ、計画的な事業の中で自分の書く仕事を位置づけていることをここに表明し、「口だけクソやろう」だとか「態度だけでかいやつ」という汚名を返上しておきたい(直接言われたことはないが、だいたいそんなふうに見られているだろう)。ちなみに、これらのほとんどは2015年から足かけ8年程度で蓄積したものを再整理しているものなので、いきなり無からつくるわけではない。いわば、いったん継続的な仕事を一区切りするものがほとんどとなる。

では、以下に、2026年までの計画について、研究者(佐藤正尚)としての仕事と、批評家(米原将磨)としての仕事で分けて、整理したものをご提示する。各年月は公開予定の時期を意味している。

佐藤正尚としての仕事

2024年4月 アルフォンソ・アレとパヴロフスキーの系譜学的な読解についての論文。Julien Schuhの象徴主義におけるセナークル論とDevin Griffithsの科学アナロジー論を統合し、作品分析をするもの。

2024年5月 19世紀末から20世紀初頭のフランスにおける科学と哲学における原子論、および創作における原子表象の差異についての論文。

2024年9月 スピリチュアリスムにおけるUnité概念と反知性(l’anti-intelligence)の同時代受容における同質性についての論文。

2024年10月 ガストン・ド・パヴロフスキー『額の中の皺』のユーモア表現についての論文。ただし、必要な資料の一部について、フランスに資料閲覧を行く必要があり、渡仏できない場合はこの論文については発表できない。

2025年3月 余裕があれば、パヴロフスキーにおけるユーモア概念の変遷および戦時下におけるユーモアの意義を問う論文。

2025年6月 デジタル・ヒューマニティーズと批評理論を統合する理論的枠組みをする論文。査読誌はおそらく『言語態』。

2025年10月 博士論文「ガストン・ド・パヴロフスキーの思想の全体像の解明」を機関に提出。口頭審査後、一般公開。

2026年5月 出版社がとくに決まらない場合、自社であるフヒトベ(下記を参照のこと)から僅少部数(500部程度?)で博論を一般向けにして出版予定。題名は未定。

米原将磨としての仕事

2024年1月 メディア事業者である合同会社フヒトベを登記。事業内容はYoutubeチャンネルTERECOの運営、年刊雑誌『そらみつ』の発刊、不定期更新オンライン文芸誌『うまこり』の運営。

2024年2月末ないし3月中旬 不定期更新オンライン文芸誌『うまこり』をローンチ。美しい織物、すなわちテクストを意味することから。基本は有料サイト。無料記事、一部無料記事もある。すでに連載は1つが確定、2つが仮内定している。

2024年6月 『批評なんて呼ばれて』の普及版『批評なんて呼ばれた』をフヒトベより刊行。手紙形式ではなく一人称形式にし、構成も一部見直す。

2024年12月 雑誌『そらみつ』の創刊。タイトルは音感が好きなためで意味はとくにない。できれば文フリで売りたい。

2025年4月 タイトル未定の批評文化論についての本をフヒトベより刊行。『批評なんて呼ばれた』は2010年代の個人的な回想だったのに対して、こちらは1980年代から2010年代にかけての批評史をインターネットインフラの発展やソフトウェアエンジニアリングの技術変遷などを踏まえつつ、ジャーナリスティックな手法でまとめる予定。刊行が間に合わない場合、『うまこり』などで連載予定。

2025年8月 合同会社イースニッドよりADV PCゲーム「アイリス・オデッセイ第一作 『パンドラの少女』 」を発表予定。米原はプロデューサー、ナラティブデザイナー、演出効果で参加。ゲームはsteamで販売予定。

2026年4月 フヒトベより、音楽批評集『恋は二度死ぬ、あるいは死なない』を刊行。『うまこり』で個別に販売することも考えている。現在予定してる目次は以下の通り。

  • 恋は二度死ぬ、あるいは死なない ― aikoについて
  • リズムの哲学者 ― 山下Topo洋平について
  • 世界が終わるほどのロック ― チャットモンチーの世紀末的感性について
  • 踏むのは手続きと韻だけ ― 短歌とラップについて
  • 最初から最後の恋 ― 宇多田ヒカルについて
  • ミス・アメリカーナの肖像 ― テイラー・スウィフトについて
  • アイロニーのアメリカ人 ― エミネムについて

2026年6月 小説『負債の星』をフヒトベから刊行。経済批評の実践として債券・仮想通貨・人工衛星をテーマに小説を刊行。

2026年12月 アニメ批評集を刊行。「声と死と」・「シャフ度の系譜学」といった米原初期の批評を完全にリバイズ。その他、3DCGアニメ論、ミュージカルアニメ論を執筆する予定。

以上である。こう書いてみると、体調が崩れると一瞬で破綻するので健康に気をつけたい。では、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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佐藤正尚

どうしてDon’t Look Back in Angerなのか

2023/10/8-9で開催されたイベントぶんまるで、なぜかバンドをすることになった。最初に決まった時から、“Don’t Look Back in Anger”をやることになっていた。simesaba がなぜ「この曲やるしかないやろ」、となったかについては知らないが、私にとっては当たり前だった。

私は中学生になるまで、自発的にカラオケというものに行ったことがなかった。中学生になって初めて友人とカラオケに行くことになったとき、私は最後に“Don’t Look Back in Anger”を歌った。小学生の頃から親の影響で海外の曲を聴いていたので、Oasisの曲はYouTubeが無法地帯だったときに有名な曲はぜんぶ聞いたし、アルバムも何枚か金を出して借りてデータコピーをしていた。歌詞の意味も、Oasisオタクがネットに書いていたので、英語を自分で学びながらなんとか理解していった。そうして、一番好きになったOasisの曲は“Don’t Look Back in Anger”になった。

しかし、多くの詩がそうであるように、歳をとると詩の意味が違って見えてくる。最初の頃はなんとなく“Take me to the place where you go, where nobody knows if it’s night or day”とかのフレーズに惹かれていた。ここ以外のどこかへ行きたいという抽象的な行き場のない感情を表現するときによく言うやつだ。中学生くらいだから好きだったのだろう。

しかし、高校生くらいになりあることに気づく。サビは、サリーとなる女性と一緒にはもう歩くことはない、彼女の心は離れていくという失恋を予感させるように読める。だから、“but don’t look back in anger I heard you say”というように、彼女は「怒って振り返って私をみないで」ということを通り過ぎていった語り手に言ってるように普通は思える。しかし、look backはよく考えたら日本語とまったく同じように「思い出」と「後ろ」を振り返るという意味がある。もちろん、思い出を振り返るという意味であれば、look back の後ろにon/to/atがないという違和感を覚えなくもない。しかし、これは詩なのだから、意味さえ繋がれば実際に歩いていたかは関係なく、「怒って思い出を振り返らないで」という解釈もできるだろう。そう思い、歌詞を読み直してみると、そもそも曲の歌詞全体はかなり意味不明だということに気づいた。

まず、youが誰かわからないまますすみ、“So Sally can wait ”でいきなりサリーに対して歌うので「ああyouはサリーだったのか」と思う瞬間に、“she knows”と「え、youじゃないんかい、サリー」となる。また、 “she knows its too late as we’re walking on by”のasの意味もほとんど読みとれない。つまり、サビの部分だけ聴いた人は、「彼女は待つことができる」・「彼女は遅すぎると知っている」・「自分たちは(お互いに?)通り過ぎていく」の3つのセンテンスの意味がどうつながっているのかは、ほとんど読みたい人の気持ちをそのまま反映するしかないつくりになっているのだ。そして、それがゆえにおそらく英語圏ではそれぞれの人が自分にとっての“Don’t Look Back in Anger”を心に持つのだと気づいた。全体を知ると意味不明だが、サビだけどこかで聴いた時にだけ聴いた人にとっては多様な意味を持ってしまい、しかも微妙に切なさを刺激する言葉だけが並んでいる。実に見事だ。

私はそのことに気づいた時に、むしろ、「これは自分に向かって言っていると感じられるところはどこだろう」と思った。サビがなぜ効果的なのかはわかった今、あらためてこの歌詞を読むことで自分にとって何か大切なものがあるんだろうか?そうして、このフレーズが重大なことを言っているのに気づいた。

Please don’t put your life in the hand of a Rock’n’Roll band who’ll throw it all away
お前の人生をロックンロールバンドの手には委ねるな。あいつらは全て投げ出すんだろ。

私は、高校生の頃から批評をやっていたので、Twitterやはてなブログにいた「批評クラスタ」のさまざまなメンツを見ていた。そのクラスタのほとんどは当時の大学生だったろうし、私の知らない知識を豊富に持っていてとにかくすごいな、いつか関わりたいな、と思った。しかし、迷いもあった。とにかくグループの離合集散が激しい。批評とは名ばかりのゴシップ記事を面倒で難しい言葉に置き換えただけの文章も散見された。その雰囲気については『批評なんて呼ばれて』に書いたとおりだ。その人たちに感じていた気持ちはまさに“Rock’n’Roll band who’ll throw it all away”だった。あれはロックバンドにすぎない。すぐ喧嘩するし、いつかいなくなる。一方的に知っているだけだが、向こうは自分のことなんか知らない。構っちゃくれない。何より、これはOasisというすでに最高のロックバンドだったロックバンドが言っている。ただのスカしかもしれないが、彼らは本当に兄弟仲が悪く、曲ができたあと、何度も活動休止と解散を繰り返す。ギャラガー兄弟の愛するビートルズもメンバーが生きている間に解散した。たぶん、リーダーである兄のノエルはこのことを本気で書いたのだ。そして同時に、私にとっても本当の言葉だった。

ある時期まで、私は人に期待されるのも、人に期待するのも嫌いな人間だった。なぜか。それは私が無責任な人間だったからだ。無責任であるがゆえに、人に期待されても本気で向き合えないし逃げる。そして、人に期待しないことで、その人に対して期待したぶんの責任から逃げる。ただ、自分のことだけを考える。世界はいつ滅んでもいい。いろんな宗教の終末論が示すとおり、人類はいつも人類はいったん滅ぶしかないと信じている。適当にその場しのぎにはちゃめちゃに楽しんで、あるとき本当に嫌になったら自殺すればすむ。若いということはそういうことだ。自分のことだけを考えていくことで生きてよいし、どうせみんなそんなふうにしか考えていないんだと感じる時期は人生に一度はある。そんなとき、この言葉は「みんなすべてを投げ出すんだからお前は他の人を信じなくていいんだ」という意味に思えたし、心の慰めになったのだ。

しかし、大学生のときにいろいろあり、私は生活の態度を見直すことになる。人は人に期待してしまうし、自分も本当はどこかでいつも他人に期待してしまっている。だから、自分に期待してくれる人に私も期待しよう。心の底からそう思うようになった。その時、“Please don’t put your life in the hand of a Rock’n’Roll band who’ll throw it all away”が真逆の意味に感じられた。「すべてを投げ出すようなやつらもいるんだから、お前はちゃんとそうじゃないやつらを信じろ」。こうして、私は批評のコミュニティから離れることになった。少なくとも、当時の自分が信じられる人がいる世界はそこにはなかった。

だから、ぶんまるでこれを歌うことは当然なのだ。あなたの愛する人や物を奪うかもしれないこの世界はいまだに滅びるべきかもしれない。それでも、あそこに来たあなたを私はただ単に信じているのだ。そして忘れてはいけない。突発バンドを信じてはいけない。メンバーの中でもsimesabaと私は酒を飲みすぎる。少なくとも今日は信じないでおこう(“At least not today”)。ぶんまるにいたあなたが、そこで他の誰かを信じていけること。それ以上にどんな喜びがあるのだろう?