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佐藤正尚 南礀中題

12/5

今日はトリッペンで靴を買った。メンズの靴サイズがあまり合わなかったのでレディースを勧められたので持ってきてもらうと、皮の伸びを考慮するとジャストフィット。ジャズダンスシューズのような感じだが、スタイリッシュでよい。今持っているニューバランスのスニーカーは靴底の修理に出さないといけない。

靴慣らしで原宿から渋谷に歩いて行った。まだ少し硬いが、2,3kmくらいではまったく足が痛くならないので確かにいい靴だ。スタバに寄って本橋『愛の不時着論』、『根のないフェミニズム』、『ざっくりわかるファインナンス』を読了。愛の不時着論はシーンを思い出してカフェで涙ぐんでしまった。『根のないフェミニズム』は、2010年代韓国フェミニズム運動の総決算のような本で、読んでいて非常に勉強になった。If booksという出版社のことが気になる。日本ではフェミニズムを中心にとりあげる叢書はでているが、出版社がないので、韓国では、若い世代でも、運動と出版が日本よりはるかに強く結びついているなと思った。

家人が親友の結婚式に出席するためしばらくワーケーションで里に帰ったので、一人で新大久保で韓国料理。タンコギの店があるというのできてみたらすでに影もなし。近所の店でプルコギとキムチ。ビールですっとすませる。帰りにコンビニでドーナツとワッフル、ジャスミン茶を買う。家で松下哲也のシラス放送を視聴。レビュー・スタァライトがとにかく見るべき、映画は特に、というのは十分わかったが、はやくアマプラで公開してくれないと見れる時間に映画館でかかっていないので、なんとかしてほしい。

少し気になったのは、前にも書いた気がするが、近藤銀河のシン・エヴァ評価で、異性愛カップリングで解決した物語、という見立てについてだ。彼女の他の論点とちがって明らかにここだけ飛躍があるといつも思う。そもそもシンジとカヲルを同性愛的な関係で見ているのは作品受容者の側の話でしかない。中学生の頃から男子校なので、私はあれだけみても2人のセクシャリティについてはまったく断定できない。中学生男子どうしが恋愛関係を結ぶ映像作品に見られるような、性行為やキスといったシーンもないのに、あたかも同性愛を断定できるかのような文脈自体、物語受容としては問題ないが、解釈としては偏見に近いものだと思う。そもそも、シンジはバイセクシャルかもしれない。ジェンダー批評するならその可能性を全て物語的整合性において論じないとなかなか納得できない。例えば、私は異性愛者だが、男の子どうしが手を繋ぐ、腕を組む、ピアノを連弾する、といったことについてシンジとカヲルの関係が同性愛的だ、というのは良いのだが、同性愛を断定する根拠にはあまりならないだろう。もちろん、同性愛が性的関係だけに決定されないかもしれないが(そもそもある人物が同性愛なのかどうかを仕草や言葉から推察して決定することに問題があるのではないか?)、そこまでいくと、もっと強い解釈の枠組みが必要だ。つまり、特定のアニメ物語史観とか、なにかの文脈においてしか成立しない議論なのだ。私は、まだ近藤の議論からはその強い枠組みを見いだせない。だから、異性愛的な物語への回収、という言い方にはとても頷けない。さらに、マリを否定的に論評する、近藤以外にも広く共有されている点についていつも思うのだが、それでいいのではないのだろうか。マイナス宇宙での経験を分かち合うことができる数少ない人を愛することで異性愛的物語化といって否定するのはマリがバイセクシャルかもしれないのに、何か一方的すぎる気がする。作品の可能性に期待するのはいいのだが、それが失われた結果、作品を批判する人々をゼロ年代の論者含めてたくさんみてきた。自分の気持ちが大事、というのは尊重したい。だが、私のシン・エヴァへの高い評価には何一つとして影響しないし、いまさら指摘されている問題はアニメシリーズの頃からずっとあったものばかりだ。なぜそれを愛したのか、それについて考えるほうが私には意義深いと思う。

筆がのってしまったので最後に一言だけ。第三村の知識労働者が男性しかいない、という批判は、ヴィレのクルーが第三村への帰還を暗示する最後のシーンでリツコを含めた知識労働者が到来することによって90年代以前の世界観がおわり、新しい時代を暗示しているのを単に無視している。第三村は黒電話、銭湯、昭和中期の電車、ヒカリの父、といった私たちが過去のものだして認識できる符牒に満ちていて、その理由はヴィレに知識労働者が集約されているからというのに他ならない。映画に描かれていることを無視できるほどの解釈は、実はそんなに簡単ではないことの一例だろう。

レビュー・スタァライトトークショーで勉強したのち、『現代スピリチュアリティ文化論』読了。伊藤雅之が90年代初めにラジーニを論じていたのは知らなかった。偶然だったらしいが、同時代的にも貴重な試みだったと思う。本も非常に勉強になった。新興宗教系のスピリチュアリティではなく、マインドフルネスとヨガといったビジネスよりのスピリチュアリティについて文脈を理解できた。また、アンドリュー・コプソンが20世紀になってヒューマニズムの意味が全く変わった、という論の紹介は興味深かった。その論旨が私の研究しているパヴロフスキーの態度と似たものを感じた。これは何かに活かせるかもしれない。

トレーニングを簡単に済ませて、1:00から風呂。四十分ほどだらだら浸かってから就寝。

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佐藤正尚 南礀中題

12/4

土曜出勤。ゴミ捨てのために早起き。冬の透徹とした空気を吸うと落ち葉の香りがする。朝飯を家で済ませても良かったが、せっかくなので近くのドトールまで歩いてモーニング。ミニトマト入りのチーズホットサンドとブレンド。

気合いで半ドンで終わらせたかったが、昼休憩なしで13:30まで。大学図書館で洋書を延長処理する必要があり、遅いお昼を食べた後での移動時間を考えると和裁を1時間もできないことがわかったので、研究と雑事に時間を充てることに。

昼は、近所で食べることにした。ガパオライスでも良かったが、ふとフィレオフィッシュが食べたくなったのでマックへ。14:00前なのに混んでいて驚く。学生の時、よく徹夜して執筆していた席に向かう。店内も混んでいる。学生は少なく年齢層は多様。フィレオフィッシュのフライを見るたび、フランス人の知り合いが、冷凍食品の魚フライのCMのせいで、小学生がみんな四角い魚が海で泳いでいると思っているという話を思い出す。Poisson carré. ブルトンの場合は、Poisson soluble.

移動の電車の中でゲンロンβ64を読む。樋口恭介が東浩紀とエミネムを比較していた。ざっくり言うと、二人とも誰に対しても常に全力だ、ということだった。この2人のいずれとも直接長い会話をしたことがないので実際のところはよくわからないが、前からこの2人は自分にとって70年代生まれ世代のメルクマールだ。オタクであり、出世すると自分で会社を立ち上げて、自分の作品のほとんどを自分の会社から出している。東浩紀はゲンロンで、エミネムはシェイディレコードで。産業の規模的にセレブリティは異なるが、本質的には同じ2人なのだろう。エミネムはインタビューで、冗談と冗長のなかでふとパンチラインを挟んでくる。話し方は違えど、東浩紀もそうだろう。

本の延長処理をして、図書館の渡り廊下を改装したスタンドデスクへ。来年度の授業料を貯金に余裕を持って払えない可能性があるので、いったん休学するための書類作成とすっかり連絡していない先生にご挨拶のメール。

調べ物はユートピア文学復習と動物に関係するもの。動物になることはあっても、意外と動物から人になるのはラテン文学にはなかったらしいことを直感。確証はない。そのほか、ユートピア文学歴史本を借りてきたが、少し方向性がずれている気がする・・・。ユーモアとユートピアについては抑えたいが、これでいいかわからない。

「悪い場所」論について違和感があったので椹木の本を借りた。いつも思うが、この世界のあらゆる文化において真に中心などあるのか?敗戦後の日本文化論としては見るところがあるが、これを日本の歴史全体に適用する理論は怪しいと思った。1/3くらいぱらぱらめくったがまだわからない。

オミクロン株について、悲喜交々の世相。深刻な病という噂と普通のインフルエンザなみという医師の見解で錯綜。

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佐藤正尚 南礀中題

12/3

20:00まで仕事。3時間話していたので疲れた。土曜日出勤が決まった。Netflixでだらだらとビパップを見る。フェイの同性愛描写は昔から似たことを考えたので得心。意外と実写版は、2話くらいから面白いと思った。

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12/2

日記ぐらいはクリスマスまで毎日やりたい。

仕事先に21:00まで。帰りに寿司をつまむ。『愛国の構造』をようやく読了。かなりまとまった愛国言説整理なので、大変助かった。購入したいのだが、4700円税抜きなので少し躊躇。

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佐藤正尚 南礀中題

ひとりアドベントカレンダー をしようとしたけど無理だった

オミクロン株など数ヶ月周期の変異体の出現があるので、12月1日はCOVID-19について、とも思ったが『ゲンロン12』感想でも書いてしまおうと思う。書きかけのものがあったからだ。

年間誌『ゲンロン12』は、いま日本語で読める雑誌のうち、年鑑ではなく論考・エッセイ・小説・座談会・対談記事が載っている雑誌である。一般的に年に一度しか発刊されない刊行物が雑誌で、かつ、興味深いテーマを扱っているので届くとすぐに読んでしまう。どのテーマについてもいろいろ書けるのだが、今回は東浩紀「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」を読んでの雑感を書きたい。

AからDの4つのパートに分かれているこの論考の主張はこうだ。公共性について考える場合、ひとは家族制度を共同体イメージとしている。家族を拡大して社会とそこでの公共性について考えているといえる。しかし、哲学は家族に対してその閉鎖性を指摘する。では、どうすれば哲学的に家族と公共性について語れるのか。そのヒントはヴィトゲンシュタインの家族的類似性など、20世紀初頭のいわゆる分析哲学者たちにある。そして、彼らの訂正可能性の主張は家族の閉鎖性を解き、新しい共同体と公共性のイメージを与えるというものだ。

家族的類似というタームにこのように肉薄して、家族を論じるための哲学を実践するのには驚かされた。一方で、私は自分が学部生の頃に学んでいた共同体論について思い出していた。

2000年代には、世界的に免疫モデルの共同体論を構築することが流行っていた。自己免疫の徹底が他者の排除の徹底であると同時に免疫をもつ主体の自滅につながることから、共同体ととは、免疫がそうであるように、他者をゆるやかにうけいれなければ滅んでしまう、という理屈だ。とはいえ、当時から批判としてあったとは思うが、ペストや天然痘、インフルエンザなどの多くの人々が死んだことに対して、こうした議論は個人がどう生きるべきなのか何も教えてくれない。免疫とは、現実的な生命の死生を決定づけるものである。その他者というのを受け入れると死ぬこともあり得るというわけだ。では、なぜこんな議論が流行ったかというと、それは生権力論のブームがあったからだ。2013年の2月号の『思想』(岩波)も特集号を組んでいる。ここでの生権力論では、ざっくりいって2つの方向性で議論される。権力の働き方と権力への抵抗である。免疫共同体論も、単なる共同体の捉え方の話に過ぎないかと思えば、権力論なのだ。なぜ免疫が権力の話になるかというと、体内に異物が混入することを許すのは、共同体の中に共同体の全体の方針とは異なる考えを持つ人がいても良い、ということになる。つまり、権力に抵抗する主体は共同体に必然的に必要なのだ、というロジックを立てることができる。

いまよりもずっと若い頃、この病理学を援用した議論のスタイルに心底やられたものだが、冷静になると、免疫という隠喩を使った詐術のようにも考えられる。他所からやってきた人が不動産を支配するであるとか、人を殺してしまうだとか犠牲者については何が言えるのだろうか。また、免疫の概念は、人における病とは何か、健康とは何かといった、様々なテーマを持ち合わせている。この現実の社会で個別の具体例ではなく、免疫と共同体の語源を遡及して比較するスタイルには私は手続きとしては賛成できるが、そこから論理を組み立てるのも、概念の変遷を追っていくなかでそもそも発音が変化し、発音と語彙の関係も複雑なものであること考えると、語彙の転化がどの程度哲学的に考察するに値するかもうわからない。

そうして、COVID-19がやってきた。呼吸器および神経系に作用するため、基礎疾患患者の致死リスクが高い一方で、感染してもなんの影響もない人も大勢いる。しかも、伝染性が他のウィルス性感染症と比べても極めて高い。簡単に言い換えると、大勢の人が死ぬかもしないが、若い人はあまり死にそうにないし、中堅どころの人はギャンブル、というわけだ。社会の構成員ごとに致死率が異なり、弱者に容赦がないという人類の共同体のあり方が試される病だった。結果としてわかったことは、人々は免疫的な共同体などでは生きていないし、人の交流を容赦なく制限した。できるだけ安全を、という主張はいまに始まったことではなく、生権力論でもよく対象になるような、リスク低減を理由にした権力介入であり、人々が願い続けてやまないものだった。

結局、ゼロコロナはゼロリスク社会のことだった。例えば、中国共産党のゼロコロナ政策はその実、個体として人間を管理する2010年代以降の情報技術監視のひとつの形態にすぎない。度重なる災害や経済的な危機といったリスクは管理できないのに対して、人流の統制である程度リスク低減できるというのは、帝国が人民をどう処置するかについての長い伝統の帰結にすぎない。

安全性はかかる前とかかった後についても求められる、例えば、後遺症。細菌性感染症、呼吸器疾患性の感染症の後遺症に悩む患者はCOVID-19パンデミック以前でも多くいた。後遺症の問題からCOVID-19を軽視するべきではない、という主張に対してはこれまでも後遺症を軽視してきた社会に対する批判がないのであれば一切議論の意味がない。また、COVID-19は、神経系に作用するのでかつての水俣病患者のように、少し動き回るだけで疲れを覚えるといった目に見えない障害が人々の偏見を呼ぶことだろう。

社会はこうしてその限界を試され、訂正可能な共同体という免疫とはまた違う形でもう一度、この社会の流動性に賭ける哲学がでてきた。これからの論の進め方に期待したい。私とはいえば、訂正可能性という言葉をみてすぐに統計学を思い浮かべた。これを最後にしたい。

SIRモデルを使った感染症拡大モデルがそれほどおかしいと私は思わない。ただし、SIRモデルは、現象の予測ができるだけで、具体的な政策を決定できるだけのエビデンスになることはまずない。それは統計学を少しでも学べばわかることだ。このことをわかっている科学者たちがなぜか政治に介入している。科学哲学なことをいえば、本来は数理モデルであるはずのSIRがなぜか商店を閉めれば感染症は拡大しないといった判断をすることができる工学モデルにすり替えられているのだ。つまり、これは科学ではなくて、政治である。生権力の統治性がこれほど見事に使用されていたのに、この手の議論はここのところみかけない。

しかし、私はすでに言ったようにSIRモデルを使うことにはなんの問題もないと思う。人は世界を理解しようとするときにいくつかの手段を使う。その中に統計学があるだけだ。統計学は魔法ではないし、それだけでは公共性について答えを出すことはできない。一方で、統計学はモデルを提示し、複雑な世界の現象に確からしい視座を与える。モデルは何度も訂正され、その度ごとにそれまでは考えつかなかった新しい概念を示すことができるかもしれない。私は、統計学が政治的に使用されるこの時代にこそ、統計学のもつ本来的な訂正可能性を信じている。

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2021/11/30

仕事先から中国語へ。中国版画像大喜利を通じて、発音練習と文法の復習。終わったあと、『你好,李焕英』の日本公開の話、台湾の里長制について講演する女性活動家の同時通訳のことから、フェミニズムと活動家についてざっくばらんに議論。なぜか、藤子不二雄の『毛沢東』の話に。今日はカロリーを抑えていたので23:00から強烈に腹が減り、ゆで卵をワインと合わせて食べた。

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2021/11/29

昨日は夜遅くに紅茶を飲んでしまったせいか、全然寝れなかった。ほどほどに働いて終業。12月8日ゲンロンカフェで実施される架空戦記イベントは現地券が当たらなかった。

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2021/11/25

久しぶりに1:00前に寝たが、疲れているのを感じる。19:00まで客先。お昼前に移動してから5時間近く常に何かしていたので本を少し読んで寝る。

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2021/11/24

レジュメ作りのため、ずっとInvention nouvelles et dernières nouveautéの軍事の項目を読んでいた。どこがユーモアとして考えられるのかをずっと説明する非常に辛い作業だったがフランス人のドイツに対する中傷のパターンのようなものが非常によくわかったのでよかった。今月はもう徹夜する元気が流石になく、五時半すぎにいちど就寝し、9:00前には起きて仕事をしつつレジュメを作成。研究会では有益なコメントをいただく。とくに良かったのは、自分はユーモアは基本的に娯楽だけでなく中傷やイデオロギー的な歪みを抱えていることが前提だったのだが、私だけそうで、一般にはそういうわけではなかったようだ。愛国ビジネスは文学研究ではあまり前提ではないらしい。

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2021/11/21

午前中は和裁。ジャクソン・ポロックの柄が気に入っていたので、5年ほど前に古着で買った。女物だったので仕立て直すことにして、6ヶ月ほど週1回ほどいったりいかなかったりしたが、先生の教え方が非常にうまいのもあり、自分で着るには問題ない仕上がりになった。写真の通りだ。

拱手の様子
拱手
帯前で両手を重ねる
手前で両手組み

次は唐草模様の紫の綿か何かの生地で位置から女物を裁ちと縫いをする予定。

午後は幼馴染のITエンジニアと庵野秀明展に行った。松下哲也が「松下哲也のアート講釈日本地」で指摘していたように、最初の庵野の着想源となった60年代以降の特撮のホビー玩具群(模型)は日本でホビー玩具がデパートの屋上で展示される催しがあった。1990年代に生まれ、1歳から5歳までの4年ほど宇都宮に住んでいた私でも、地方のデパートは現在とは違い、コインを入れると動き出すパンダの乗り物が置いてあったように思う。ただし、楽しい思い出はない。経済規模が停滞していった初期のデパートの屋上の記憶は哀愁につきまとわれている。高度経済成長時代の日本が世界に対して文化的優位性を発揮していた最後の時代は、庵野秀明のにとって最良の時代だったろう。実際、公的に確認できる史料でこれほど日本が経済的かつ文化的に影響を世界に与えてきたことはないし、いまや国際的競争力を失いつつありビジネス的なメリットが何もない日本語を学ぶ人々が世界中にいるのは、かつての神話が生きているからだ。現代でも日本の文化が世界に影響を与えている時、いつも戦後の50年程度の歴史が前提となっている。

庵野秀明の若い頃の制作はまさしく経済的成長に裏付けられた楽観的世界観によって成立していたと思う。中学生時代の同人誌の絵についてはとくに目を引くものはないが、高校生の時のフィルム作品『ナカムライダー』は圧巻だった。作品が撮影禁止だったので詳細についてうろ覚えだが、8mmのフィルムだったかもしれない。スペシウム光線を自己流に表現するためにフィルムに傷をつけたとのことだが、言うは易しで、1秒18コマの8mm四方の小さなフィルムに机上でひたすら傷をつけている庵野のことを想像すると慄然する。アニメーションの撮影の工程でエヴァはかなり前衛的なことをやっていたが、そのキャリア最初期からシン・エヴァンゲリオンにいたるまで、アニメーション、というか媒体自体を加工する映像表現の核心を突いていたように思う。

しかし、展覧会のクオリティは低いと思った。「さやわかのカルチャーお白洲」でさやわかが指摘していたように、特撮からアニメーションに行くことをあの展覧会から説明できる人はいないだろう。編年的な展示にはポルノアニメ時代の庵野の活動は抹消されていて、そしてそのときの同時代的なポルノ表現が『トップをねらえ!』以降の作品で明らかに活かされているのだから庵野を論じるうえでこの時代の活動は外せない。編年的な無文脈性と歴史修正に伴う様式史の欠落は展覧会の質としては私には高いものには思えなかった。

夜、私の家で友人と食事。GO langでAPIフレームが最新のサービス開発で主流にならざるをえない理由は面白かった。国際規格についてアメリカのビッグカンパニーが握り続けていたが、情報通信社会では、API通信を設計することでプラットホームを握ることができるそうだ。また、SEO対策の話を展覧会に行く前に話していたのだが、グーグルの検索性についても現在にいたってもかなり問題があるそうだ。グーグルの提示するルールに従ってウェブページを設計するだけでページが優遇されるのだが、当然、内容は問われないので、怪しいサイトはいくらでも上位に来るそうだ。グーグルは結果として権威を与えるシステムを作成しているのだが、保管されているデータのどれを優先して表示するかは常に利用され、意図と離れたかたちでルールが適用される。『アーカイブの病』では、公文書は権力者によって常に保存が選別されるが、検索では、文書自体はすべて保存されるかわりに検索アルゴリズムが表示によって権威が生じている。これはページランキングのアルゴリズムのときから指摘されていたが、現在は違うアルゴリズムが適用されているので古いアルゴリズムに基づいた議論は更新される必要があるだろう。

日本の財政出動ベースのリフレは債務不履行で絶対にすべきではない、という元マル経学生の友人に対して米国保護領日本の金融市場の信用は米国に担保されているという形での議論や、エリーティシズムで日本の情報系の学生は毎年質が高まっていることが明らかといった話が面白かった。いい休日だった。