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米原将磨

From Twitter to X

自分はなんとも思わなかったが、人々が熱くいろいろ語るのに驚いた。ITサービスはいろいろ変わる。そういうものでしかないし、そう思って付き合っていくしかない。

私はTwitterを15歳の時から使っている。いま活躍している研究者たちが30代になった頃にTwitterを使っていて、それを読むのが楽しかったが、サービス利用者の拡大に伴うコスト増大と、利用者増加に伴うサービス性質の変化があり、そもそもマスクの登場以前から、とっくに2008年から2014年くらいまでの6年間のTwitterのセミクローズドな雰囲気は失われて、私はそれ以降、情報収集や宣伝として以外にはサービスを使わないようにしてきた。とはいえ、懐かしむ気持ちもない。それは、ただ単にそういう時代があったということに過ぎない。

永遠に制約のない無料なものは存在しないし、思い出を過度に美化してサービスと一体化することもない。単に、企業としては心配だが、全ては資本が解決するかどうかを見届けたい。あるいは、ロケットを宇宙に飛ばすよりも、SNSの経営は難しいのだろうか?

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TERECO 米原将磨

光の曠達の目的と寄付が必要な理由

先日の配信について、編集者の方や著名なライターなどに言及された。大変ありがたいとともに、光の曠達が今までより広く名前が知られていく最初の過程に入ったと感じた。そこで、光の曠達の目的と寄付が必要な理由、あるいは寄付以外での支援の方法についてここで述べておきたい。

まず、光の曠達をなぜやっているのかについてのモチベーションを説明する。次に、隠すことはないので、会計について明らかにし、なぜ寄付を募っているか説明する。最後に、光の曠達を続けていくことの行く末について語る。

(1)米原はなぜ光の曠達を主催し、江永泉さんに参加していただいてるのか。

これは、私が江永泉さんのファンであり、もっと活躍してほしいからだ。私たちは長い付き合いがあり、信頼関係があるなかで光の曠達をしている。そうした信頼関係あればこそ、彼にとっては前例のない、台本もほとんどない長時間配信で話し続けるリスクを引き受けてくださっている(驚かれるかもしれないが、米原が思いつきで話し始めることはほとんど事前に打ち合わせしていないのに、江永さんはその全てを的確に打ち返すのだ)。そして、何より、配信の中で江永さんが取り上げる本は常に興味深く、解説する視点も、含蓄に満ちている。また、犬の漫才師のように喋り続ける隣の米原の発言に対して同調とは違う適切なコメントをする賢者のような鋭さがある。この江永泉の痺れるような技巧を世に伝えることで、文章の仕事が増えてほしいと考えている。また、江永泉の人柄も多くの人々に知ってほしい。彼は、たとえ姿を見せることがなくても、ユーモアと慈愛に満ちた素晴らしい人であることが伝わると嬉しい。

(2) 常に寄付が必要な理由、そして寄付以外の支援

光の曠達は配信場所をお金を払ってお借りしている。その場所は南米フォルクローレを中心に音楽活動をしている山下Topo洋平さんが所有しているスタジオ「KOKOPELLI」だ。現在、有料貸出されており、配信プラットフォーム「シラス」内にあるチャネンル「山下Topo洋平のHappy New Moment」(https://shirasu.io/c/topo)に登録すると、その中で詳細情報・応募方法が開示されている。私は、ひょんなことからTopoさんと直接お会いする機会にめぐまれたので、その中で有料スタジオ貸出プロジェクトの最初の利用者として半年ほど利用させていただいている。スタジオは音楽録音を目的としているが、配信やライブ演奏もできるように比較的に広く機材が充実しており、下記の利用料金は都内では破格の安さだと考えられる。

半年にわたる配信の中で、サービス利用方法のベストな形を探っており、Topoさんと相談の上、新規の料金をプランを作成した。このプランでは、光の曠達の1回にかかるスタジオ利用に関わる料金が約8000円となる。また、書籍をコンテンツとして取り上げた場合、書籍代がかかり、米原のようにコンテンツがひとつのテーマになっている場合、資料代は書籍にはとどまらない。そして、当然のことながら、配信の間の飲食代はすべてTERECO(光の曠達の運営元)が提供し、江永さんに支払われている雀の涙ばかりで、私にとって慚愧に堪えない謝礼も計上される。簡単にいうと、現在、1回配信するたびに1万円以上はかかっており、上振れはいくらでもありえる。

私はフルタイムの労働をしており、1万円程度はとくに生活するのに障害とはならない。ただし、金銭によるリターンがないと、私の提供している配信の質がどう評価されているかわからない。現在、光の曠達の1回の配信は、平均して4000円程度の寄付がある。2023年6月号は観客が1名おり、おおよそ5500円の売上があった。とはいえ、目標には程遠いため、まだ配信のクオリティや宣伝でのリーチ方法で改善すべきところがあるというのは明らかだ。とりあげる題材もこうした観点で変更し、宣伝の内容も変えていくことになる。配信についての判断のすべてが金銭によるフィードバックに基づいているのだ。私は具体的に金銭を支払った人の評価を比較的に重視する。また、常時配信費用に売上が届かない場合、光の曠達、とくに江永泉を巡るコミュニティを維持するということが難しい。たとえば、観客で来た人が主役になるような配信のないイベントをKOKOPELLIで開催するといったことを実施したいとしても、毎月の光の曠達が赤字のなかでそれを実施することは、持続性を考えるとためらわれてしまう。

以上のように、Topoさんの協力で都内では破格の料金でスタジオを利用させていただき、薄謝で長時間配信をお願いしているのに嫌味のひとつも言わない江永さんの人格によって光の曠達は成立している。私がしているのはせいぜい用意の部分だけである。しかし、その用意で生じる問題のほとんどは資本で解決できるのであり、クオリティの向上もほとんど資本で解決できる問題なのだ。(1)で述べたように江永泉の活躍の支援をするためにも、その後のコミュニティ運営のためにも、寄付を常に受け付けている。

しかし、寄付以外にももちろん支援する方法はある。高評価・チャンネル登録はもちろん、リーチアウトの幅が広がるので大変ありがたい。また、光の曠達のリンクをSNSで貼っていただくのも非常にありがたい。配信に対するコメントはなくてもリンクを貼っておくだけで、誰かが関心を向ける可能性は少しでも高くなる。それは大変心強い。

(3) 光の曠達を続けていくことの行く末について

光の曠達を続けていく中で、いつか江永泉の単著を取り上げる回がくればこれほど嬉しいことはない。とはいえ、それはいつでもいい。ひとまず、江永さんの活動の中で光の曠達が何かに役立ってほしい。

一方で、光の曠達を提供しているTERECOという運営主体としては、光の曠達は今後展開していく様々なイベントの試金石のような扱いとなっている。現在、光の曠達が始まった後では、「シラス」で知り合った方をお呼びしたイベント(id-kabenuke×hideaki×米原将磨(diontum) 『街とその不確かな壁』・『変声 転轍の後で』W刊行記念鼎談イベント「不確かな壁を抜けるために」https://youtube.com/live/qE1KYnM662Y?feature=share)などをTERECOの提供で実施したが、光の曠達の運営で得られた知見が活かされている。また、この配信はアマチュアの方をお呼びしているので、飲食代以外は提供していないが、いずれはすでに商業デビューしている方をお呼びする資本の体制を整えたい。また、長時間のインタビュー動画シリーズも考えていて、その最初の試みとして、私の研究者のお知り合いをお呼びして収録し、その様子を公開した(浅野千咲さん×佐藤正尚「ハイチ文学の味わい ワカンダからハイチへ」パート1 https://youtu.be/eWuTEvNLXKI)。また、動画以外でも、TERECOは、ある同人誌批評の団体へのインタビューや、ある方の文章の書籍化なども視野に入れている。

TERECOはこのような形で、文化について語る場を創出していきたい。

最後に、寄付はこちらから受け付けています。配信を見て支援していただけるかたは、(2)に書いた通り、他の方法でも支援をいただけると幸いです。

doneru の寄付先

https://doneru.jp/TERECO

光の曠達

https://youtube.com/playlist?list=PLqquazgWuPmZUDMr85Gfq_JoDhmzsmQKV

YouTube チャンネル TERECO

https://youtube.com/@tereco9635

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米原将磨

入关学について

中国でのヤフコメ民みたいな人がチャットして政治談義すること”键政(ジェンシャン)”という。過激になっていくと、”键盘侠(ジャンパンシァ)”になる。键盘侠には、理工系が多く、键盘侠の中でも、こうした理工系の人々は”工人党(ゴンレンダン)”と呼ばれている。

こうした人たちに特徴的なのは、人文知を軽視し、歴史・政治について独自の体系を信じている。それが、2019年頃から流行した”入关学(ルガンシュエ)”だ。入关学は以下のような歴史観に従っている。

14世紀から17世紀に存在した中国の王朝「明」を米国にたとえられ、その後成立した「清」が現在の中国になぞらえられている。米国を代表とする資本主義体制の西側諸国は、多くの矛盾を抱えている。明は滅んでいき、清は新しい世界秩序を立ち上げたように、清たる中国が明たるアメリカの覇権を打破する、といった発展史観に引き継がれる。

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TERECO 米原将磨

2010年代からのマンガ批評年表

先日、米原将磨名義の活動でこんな配信をしました。

江永泉と米原将磨「光の曠達」 2023年4月号

こちらでは、高橋敏夫『理由なき殺人の物語―『大菩薩峠』をめぐって』と、「2010年から2023年までのマンガ批評が気になってまして」という2つのテーマで配信しました。後者について、リストを作成したのですが、コメントのフィードバックを追加しました。「share_managa_critic_list_[日付].csv」のデータ名となっています。[日付]の部分には作成日が入ります。定期的にアップデートするかもしれないし、しないかもしれないですが、一応そうなってます。

また、参考文献表のスタイルで書式を統一しようとしていたのですが、うまくスクリプトを組めず、挫折しました。そのまま文献表に載せられる体裁ではないのです。申し訳ないのですが、ご理解いただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

https://drive.google.com/file/d/1DoI-KJBKWNijGRPG-bj-5Te2vcV25z_L/view?usp=sharing

ファイルのライセンスについて

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TERECO 米原将磨

米原式ベストハンドレッド2022

今年もやってきたベストハンドレッド。前回はDion式だったが、せっかくなので、以前つかっていたペンネーム「米原将磨」を使ってベストハンドレッドを公開することにした。

毎年反省点があるのだが、今年も前年と同様、自分の中でマンガといった特定メディア媒体やホビー系のガジェットについてぜんぜんサーベイできなかった。マンガについて考えるのは絶対数が足りていないのでどこか上滑りしている語りしかまだできない。また、ホビー系についてはそもそもアウトドアしないし、ありものですませる考え方をしてしまうので、もしかすると自分の仕事ではないのかもしれない。とはいえ、2023年はマンガについて理解をより深めたい。加えて、ゲームもどんどんプレイしたい。やはりゲーム用PCを買うしかないのだが、その金で旅行や研究所を買いたいと思ってしまうので、あえてMac OSでプレイできるものだけやっていくしかないのか……。

また、音楽についてもヒップホップやポップよりのテクノがどうしても優先されてしまった。これはロックに対する関心が著しく低下しているからでもあるが、韓国やタイのロックシーンには注目し続けているので、いつかランクインできるような批評的文脈を構築できるかもしれない。

とはいえ、そうした反省点ふまえつつも、ひとまず500個ほどのコンテンツの中から100個選んだ。また、2023年1月20日公開なので、せっかくなので、1日1個ぶん付け足した。お時間のある方には、ぜひお楽しみいただきたい。

動画でも配信している。文章とはまた違った内容を話していることもあるので、両方でお楽しみいただきたい。

【パート1】 まだ間に合う、新春コンテンツ振り返り! 2022年良かったコンテンツ120個をランキングにして振り返る!!!!! 米原式ベストハンドレッド2022
【パート2】まだ間に合う、新春コンテンツ振り返り! 2022年良かったコンテンツ120個をランキングにして振り返る!!!!! 米原式ベストハンドレッド2022

120

ミズ・マーヴェル

Marvel Studios

https://www.disneyplus.com/ja-jp/series/ms-marvel/45BsikoMcOOo

つまらなかったのは確かだけど、アメリカのパキスタン移民文化やモスクにレイドする警察への苦情のシーンであるとか、4話くらいまで普通に面白かった。問題としては、パキスタンにルーツを探しにいき、秘密組織にあい、自分の力のルーツを知り、かつて祖母を助けたのは自分だったという誰が見てもわかる展開をわざわざ何話もかけるべきだったのか、というもの。でも、ご近所ヒーローものとしてもっとパキスタン文化とアメリカ文化の融合みたいなのができたらみたいかも。

119

テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?

BSテレ東

https://www.bs-tvtokyo.co.jp/VHSmottenai/

いとうせいこう・井桁弘恵・水原恵理が司会するモキュメンタリーホラー。テレビおもしろいやんって5億年ぶりに思った。2022年12月27日から29日の3夜構成となっているが、だんだん不気味になっていく。「坂谷一郎のミッドナイトパラダイス」という架空の昭和深夜エンタメを中心に展開する。オチが微妙。

118

エルピス

脚本 渡辺あや/監督 大根仁

https://www.fujitv.co.jp/b_hp/elpis/index.html

長澤まさみがまったく笑わないのがとにかく良かった。「日本のドラマも面白いな―」と初めて思ったかも。とはいえ、深く考えさせられたのは「あまりにも何かがたるいのはなんなだろう」というのだ。オープニングとエンディングは非常に優れた演出、カット割りなのに、本編が始まるとなんかたるい。ライティングも良いし、カット割りのテンポもいいし、みんな演技もいいし、なんでなんだろう、と思っていたのだが、全体的に話すことに比重が置かれたドラマなのに、そのときの演出がたるいんだな、と思った。つまり、人が話しているときは、カットバックだけではだめで、表情・別のシーンの回想・仕草・移動といった工夫が必要で、改めて映像ってつくるのはむずかしいなぁと思った。あと、AXNミスリーとともに育ってしまった身としては、物語が一直線すぎてつまらなかった。いや、国家権力=悪、ジャーナリスト=善なんてここまでひねらずにやられても……。

117

TAROMAN

藤井亮

「真剣に命をかけて遊べ」という岡本太郎の言葉を掲げたNHKの短編シリーズ。戦後の日本文化の中で重要なモチーフ、ゴジラなどの怪獣・ウルトラマンを同じく戦後にかけて活躍した岡本太郎に重ねるのはよかった。太陽の塔をウルトラマンに見立てるのは文化的交差を考えるときわめて正しいやりかただし、3分という短さの中でテンポもよかった。画面の編集まで初代のウルトラマンに合わせていくことや、エヴァンゲリオンに影響を受けたカットを作りつつ、ゴジラなど他の特撮のキャラクターもまんべんなくの取り入れていたのがよかった。ただし、結局全体を通じたストーリーがない、鑑賞者に物語化をアウトソースするかたちになっていて「二次創作を喚起ってそういうことだっけ」と疑問に思った。

116

FIFAワールドカップ

自分が知ってるサッカーとはだいぶ違う世界になっていて、どの国の戦いでも面白かった。見ていると、どういう種類の戦略があるかしらないがパターンにしたがって動いているのがよくわかった。フランス文化を学んでいる身としては、Mbappéのようなアフリカ系移民(カメルーン)でセーヌ・サンドニ県で育ったという点が重要。ラップしかり、いま、フランスでもっとも重要な文化はこの地域と人種の問題が関わっている。

115

THE BATMAN

Matt Reeves

https://wwws.warnerbros.co.jp/thebatman-movie/

画面が暗い。とはいえ、夜に活動するバットマンと昼間に歩き回るウェインという対立はよかった。リドラーと警察組織の汚職問題というのが結びつく少しひねった話もよかった。ただ、一番良かったのはバットマンがちょくちょくダサいところ。建物から飛び降りる前に少しびびったり、バスの上に着地しようとするが失敗するとか、人間らしさにフォーカスをあてていた。ただ、リーヴスにしては、カーチェイスとかの単調さが映画を見るのにあきさせている点が気になった。

114

那須川天心 vs. 武尊

RIZIN FIGHTING FEDERATION

格闘技は基本的に将棋の棋士を楽しむのと一緒。似たようなルールのなかで、非殺傷的に暴力行為をするのを楽しむように見えるが、実は殴り合いの要素以外のところがあると知ると、ゲームとして楽しめる。そして、ゲームはプレイヤーの人生が物語として鑑賞者の中で把握される。というわけで、武尊のように経歴の長いプレイヤーは、那須川天心という今をときめくプレイヤーと戦うことで「かつての自分との戦い」という王道展開になる。

113

果てしない二人

aiko

EP。毎年一曲は新しい曲がでていて仕事量がすごいけど、今回のEPはよかった。収録曲の「夏恋のライフ」の「半袖長袖迷う日には/昔からあなたが決めてくれた」。習慣と喪失をミニマルに語るのがとても見事。結婚してからのアルバムだがいまでも失恋について語ることができる偉大さこそ、人生をうまく創作に落としこむプロの仕事。また、収録EP『果てしない二人』の「号泣中」は、四拍子を裏拍で刻む、はい、ヒップホップですね。aikoはブルーノートと比較されることがありますが、そうじゃないです。aikoはhiphop。What I’m sayin’?

112

コーダ

Siân Heder

https://www.imdb.com/title/tt10366460/

人生の帰路に悩むもの学園バージョンなんだけれど、C.O.D.Aを主人公にすることで、社会階層や障害者差別を見事に描き出している。例えば、主人公の友達は、放課後に自分の家のバーで働いている。友達になる理由がこうした細かいシーンでよく説明されている。他にも、言葉できない重いを手話のような動きで伝えようとするなど、演出でいい点がたくさんあった。とはいえ、あんなにカッコいい男の子といっしょに自宅で練習するという感覚が自分にはない発想だった。危なくない?でも、背中合わせで練習しようよというアツい演出ですごいよかった。

111

かがみの孤城

原恵一(監督)

https://movies.shochiku.co.jp/kagaminokojo/

年末の映画館を小中学生の主に女性で埋めるのすごすぎるのでランクイン。辻村深月のマーケティング的に完璧な物語の内容(女性の思春期世代の抱える問題と攻撃的な性格をもつ女子生徒との葛藤+読書好き+素敵な男の子が恋人って感じではなく友達として現れてくれる)を支えるアニメーションも、原恵一のケレン味のない丁寧なつくりに支えられていた。一緒に見に行った友人は「パースがおかしい、3D空間ならああならんやろ」と作画に文句をつけていたが、「アニメやからええやんけ」と私がなだめていた。ちなみに、新海誠から技法をもってきたり、エヴァオマージュもあって、そういう点で「自分の好きなものをどうやって作画コストを低くして導入するか」の勉強にもなるいいアニメーションだったと思う。

110

四畳半タイムマシンブルース

夏目真悟

https://yojohan-timemachine.asmik-ace.co.jp

リバイバルはたいてい失敗するが、演劇と小説のマッシュアップということでもともとの作品と離れていたことで別の鑑賞体験ができた。デートに誘うきっかけについて、主人公は受け身すぎでは、という指摘がありえるし、そう思った部分もあることはあるが、わりとその点をカバーするような物語設定にしている点は森見自身の円熟か。

樋口先輩の声が変わっていたことに時の流れを感じした。すべてものは変わり、いつか死にゆく。R.I.P. 藤原啓治。

109

ドライブマイカー

濱口竜介

https://dmc.bitters.co.jp/

アカデミー賞とってから観たので2022年、すまんやで。プロセス自体を作品にしていくという現代的な映画としては、ごく最近で一番おもしろいものだった気がする。けど、話としてはチェーホフのほうが面白いし、いまいち村上春樹を原作にして、他の春樹作品への目配せもないし(収録してる本は参照しているが)、着想というか翻案な気がした。内容としても、「これってだいたい『ハッピアワー』だよね」と思った。しかし、とにかく『ハッピーアワー』に比べてよくもわるくも短くきれいにまとまっていたので、見ごたえのある映画だった。

108

エジソン

水曜日のカンパネラ

Tiktok対応曲として2022年でかなりすぐれていた。ミスiD出身の詩羽がボーカルになって声質とラップがよくなったというのはさておき、歌詞の意味不明さとメロディのキャッチーさがとてもよかった。この1年後に誰も聞いていない曲でありながら、ファンにとってもアンセムになりそうな曲はなかなか出てこないので、その点ではtiktokらしさみたいなものを超えてた。

107

水星の魔女

小林寛(監督)

https://g-witch.net/

さやわかさんがいっていた通り、立てつけはギムナジウムものと騎士道ものに取材している部分がでかい気がした。なんか百合ものかと思って早合点していた人が殺人シーンに盛り上がっていたが、「ガンダムってどういうアニメだったかご存知でしたか?」という感想。しかし、ご存知でないからこそこれだけ盛り上がったわけだし、それは作りが丁寧な展開が見ている人をあまり飽きさせなかったことや、ツンデレがちょっとずつデレになっていくという性格の変化とイベントの対応が客層リーチを広めていったのだと思う。ちなみに、バージョンアップ後の姿を作中の人が「ダサい」といっていたのは笑った。

106

ライブでギターネックを忘れたやつ

Seiji Igusa

youtubeのギター系のバズり動画で一番きてる人。もともと、RTA的技巧派やタッピングギタリストが動画で人気で、ここ最近は発想をかえたおもしろ動画を多く出しているが、プロギタリストということもあり、たんによくできている。ちなみに、本当にギターがうまい、というかギターの演奏で食べているプロ。

105

「民藝の100年」展

東京国立近代美術館

https://www.momat.go.jp/archives//am/exhibition/mingei100/index.htm

「民藝」といえば、柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎がイギリスのアーツアンドクラフツ運動に影響を受けて作成した概念。本で得た知識や断片的な展示物でなんとかなく知っていたものが、運動の参加者たちのそれぞれもっていた背景や活動の歴史的思想的背景がほどよく整理されつつ、そのときに評価されていた工芸品が展示してあり、面白かった。ただ、後期の民藝には明らかに植民地主義の問題があるはずなのに、それについては軽い言及でほぼスルーだった点がとても気になった。

104

SIGNALIS

Yuri Stern

https://store.steampowered.com/app/1262350/SIGNALIS/?l=japanese

自分ではプレイしていないが、プレイ動画だけみてエヴァだったのでランクイン、というのはあるけど、こういう感じのゲームはゲーム作りの勉強になるなーと思った。たとえば、ラジコン操作的に画面を限定させること自体でレトロなプレイスタイルを喚起させるので、ピクセルを落としたデザインととてもマッチしていた。これは開発人数が少ないことや予算制約をゲームのデザインによって解決する優れたパターン。大変満足した。

103

ペリフェラル 接続された未来

ジョナサン・ノーラン(脚本・プロデューサー)/リサ・ジョイ(脚本・プロデューサー)/スコット・スミス(監督)

https://amzn.to/3WsHiS5

ギブソンとノーランとジョイ、見るしかないよね、でも大丈夫なのかな、と最近の『ウェスト・ワールド』の情勢から不安しかなかったが、SFとか以前にミステリとしてクリフハンガーすることをすごい丁寧に意識していて良策ドラマという感じだった。この世界で死んで未来にいって過去改変の歴史を選べばいいという発想はパラレルワールドものというより、ゲームのリプレイ的な想像力に規定されていることに対する批判的な乗り越えなので、「え、普通におもしろいじゃん」と思ってしまった。

102

シン・ウルトラマン

監督 樋口真嗣

https://shin-ultraman.jp/

オタクへの目配せがすごい。長澤まさみの匂いをくんくんするのはキツいものがあるし、脚本上、性的な表現をしたいだけだった。とはいえ、こうした感覚は私の好悪の問題でしかないが、本当の問題は、「そのシーンは何の伏線になっているのか、カットをつなぐためにいるのか、というか大して構図も作ってないのに4カット使ってそれやる?」など、随所に物語の進行を阻害する無意味なシーンがたくさんあった。それをごまかすようにカットの早い切り替えなど、『シン・ゴジラ』を意識した作りにしているが、空間設計・ライティング・カメラワークがまったく庵野っぽくないので、この映画によって庵野が実写で何をしているのかよくわかる点で高評価。

101

2010年代ベルクソンブームの総括

12月末に書肆侃侃房から『ベルクソン思想の現在』(https://amzn.to/3IOpPA8)がでるという驚きの展開。その他、『世界は時間でできている──ベルクソン時間哲学入門』(https://amzn.to/3W7209O)、『ベルクソン 反時代的哲学』(https://amzn.to/3ZADSPR)、『ベルクソンの哲学 生成する実在の肯定』(https://amzn.to/3Hc4Ndv)、『生ける物質: アンリ・ベルクソンと生命個体化の思想』(https://amzn.to/3w1OuK2)といった著作が次々とでる。ベルクソンは19世紀末のフランスでも最も重要な思想家であり、日本では西田幾多郎もその思想に対して反論しつつ自分の哲学を作っていったところがあり、ずっと読まれてる。その後、日本でフランス文化の輸入のときにベルクソンがついてまわったので、とにかくベルクソンは日本の人文学の中で広い影響がでている。ただ、ひとつだけ不満があって、ベルクソンの生理学的なアプローチを現代の認知科学・行動心理学でやるとか、現代形而上学のアプローチでやるとか、「まぁそうするよね」的なものが多い。日本でもElie Duringみたいなファイバー束といった位相幾何学の概念でベルクソンの時間論をアップデートするといった文理融合の論者がもっとほしいところ。

100

Adoのグローバル展開

Geffen Recordとの契約、すごすぎるでしょ。ちなみに、2020年に「うっせぇわ」のときは「いい声だな」としか思わなかったが、最近は「マジでうまいな」という感想。2020年にはベストハンドレッドをやっていなかったけど、2022年に大躍進したのであらためてランクイン。

99

すずめの戸締まり

新海誠

デジタルエフェクトと3DCG表現がよかった。べらべらしゃべった配信はこちら。https://www.youtube.com/watch?v=aWynn7rOylE

98

「シラスの大地で時事語り」シリーズ

生うどんつちやの「シラスの台地で生きていく。」

https://shirasu.io/t/namaudon/c/tsuchiya/p/20220930191110

私がやってます。毎月最近気になったニュース記事を10とりあげて、ランキング形式にしながら、生うどん土屋さんとニュースの注目ポイントについて話つづける。科学から時事問題、三面記事、ローカルネタまで縦横無尽に話していて、実はそれなりに聞かれているそう。ポイントとしては、やはり科学についてどうしてみんなそんなに関心がないのか、というもの。文化と技術は密接にかかわり、理論探求と実験の繰り返しによってうまれたメディアやインフラの環境変化が文化のありようを変えてきた。これは古代からずっとそう。そうしたことを伝えていけたらと思う。

97

ベルファスト

KENNETH BRANAGH

https://www.imdb.com/title/tt12789558/

日本での公開は2022年3月だったので、公開は2021年だったけどランクイン。少年の淡い恋・経済的上昇のチャンスと逡巡について一つの町「ベルファスト」の中で描ききる箱庭的な映画。物語の進み方も丁寧で、退屈に思える出来事のシーンのあとに両親が喧嘩しているカットを入れる、そのときにPOV視点になるなど、古い映画によくある感じでよかったし、テレビは白黒だけど映画館でみる映画や演劇はカラーという演出の細かさもよかった。とにかく、すべてのカットが計算された設計になっていて、観ていて楽しかった。とはいえ、『アーティスト』のように凝っていたものふくめ、現代のモノクロ映画鑑賞についてときどき考えさせられる。つまり、モノクロ映画であるということは現代の動画時代の中でどのような意味を持つのか、ということだ。これは何かいい論文があるだろうけど、調べていない。

96

モガディシュ

リュ・スンワン(監督)

https://mogadishu-movie.com/

韓国・北朝鮮仲良くしようよ韓国映画のひとつ。ベトナム戦争ものが多いので、アフリカの内戦を事例として使用するようになったと解釈できるだろう。普通に良作。とはいえ、そういうのほんと韓国映画うまいよね、という感想。この手のものだと、『コンフィデンシャル』・『鋼鉄の雨』・『黒金星』とか、10数本くらいあり、もはや神々の頂上決戦のようななかでの評価なので、基本的に見たほうがいい。

95

SPRING VALLEY シルクエール<白>

キリンビール株式会社

https://www.springvalleybrewery.jp/beer/

いわゆるクラフトっぽいビールにふっているなかで、いちばんマイルドに飲めてすごいビール。多くの人にとって、ビールとおつまみなのだろうが、個人的に最初の一杯は純粋にビールを飲みたいので、「一番絞り」のように食事の味を邪魔しないがもう少しシルキーなのどごしで、ヒューガルデンほど癖は強くないもの、という絶妙なラインをせめている。自分向けに出されたのか?と疑ってしまうようなビールだった。

94

東京都新宿区霞岳町

https://twitter.com/iphone_masakaz/status/1592573827816771584?s=20&t=Par5WlRrO_xfAn3DdGngfQ

「町の大きさ十数米四方 住宅無いため居住人口0人、唯一あった四谷警察署信濃町交番が建替で信濃町へ2年前くらい前に移転。人口0人建物0件虚無の町になった。」とのこと。住居実態がない町自体は千代田区では珍しくないが、建物0件、というか廃墟もなく本当にただの更地で町名がある東京都23区内土地の存在は東京「府」始まって以来の事件ではないだろうか。もしもあったとすれば、それをテーマにして新書が書けそう。様々なフィクション的な想像が掻き立てられる。

93

このディズニーキャストさん、前職Supremeの店員じゃねえか…?

宮フィのもういいチャンネル

いわゆる「細かすぎて伝わらない」系の芸人。「おミュータンつ」というコンビの一人。ずっとSupremeネタをやっていた。この回くらいから、「前職Supreme」シリーズを開始。この方法によって、「それぞれの職種の特性」というモノマネという技術向上と、Supremeに異化という演劇的なシチュエーションができるように。レベルが割と高い。なお、十年代前半にかけてのSupreme流行寸前のときの深夜待機列などにもさんかしていたかなりのガチ勢だそうで、昔話も面白い。ちなみに、私はSupremeのロゴのついたものは持ってないし、買う予定もない。

92

ドゥルーズ 思考の生態学

堀千晶

https://amzn.to/3WnoELl

昔、語学の授業でお世話になった先生の初めての単著。博論がもとになっているのでかなり専門性が高い。個人的には、ここ最近読んだドゥルーズ論の中で一番面白かった。とくに注目したいのは、講義録を随所で参照し、ドゥルーズの思考過程によって論拠を補足することで、複数の記述内容に一貫した読みを提示するところだ。ドゥルーズの講義録を使用した研究書は、とくに日本語ではほとんどない気がする。また、ドゥルーズと革命という長らく続いてきたテーマについて、ドゥルーズの「耐え難いもの」とサルトルの「耐え難い苦しみ」を対照させて、知覚と行動の中で政治の主体論を構築していたのだ、というところは整理が見事だった。また、革命に極端に期待するようなドラスティックな世界観をもっていない筆致も、さすが我が先生という感じ。

91

地図と拳

小川哲

https://amzn.to/3IXlACz

今年読んだエンタメで一番面白かった。満州に計画された存在しない都市をめぐって、ボルヘス的な百科事典的存在を、地図というテーマに置き換え、それを戦争と重ねることで歴史的な深みと物語の起伏を生みだしているこの一冊の達成は稀有なものだ。また、軽妙洒脱な言い回しや、登場人物たちの詩的なやりとりにも読ませるところがあり、登場するモチーフやガジェットの物語的な意味づけも丁寧になされていて、長い小説を書く人の勉強にもなるような本だった。とくに、孫悟空が自分の言葉を燃やす一方で、神父の地図だけが残るラストは見事だった。とはいえ、自分にとってはどれくらいよくできていてもラストシーンに詩的叙情がないと読後感に満足できないので、その点は微妙だった。

90

【講義】フォルクローレって何?どんな音楽?ざっくり解説

山下Topo洋平のHappy New Moment

https://shirasu.io/t/topo/c/topo/p/202210122

フォルクローレは楽器や衣装とは関係がなく、リズムとグルーヴこそが重要というの、言われてみればそうなのだけれど、実際の曲の紹介や、リズムとグルーヴを活かして創作した自分の曲のロジックの紹介には感動した。この配信を通じて、自分が詳しいジャンルの音楽が世界的に拡大していくなかで起きていく微妙な差とは何かについてうまく説明するヒントが得られた。そういう理論書もあることにはあるのだが、やはり、実際にリズムとグルーブだけをなぞりつつポップスに仕上げた本人が説明すると、普通に本を読む以上の実感が得られた。

89

နေသာတယ်(ナイサル・タール)

しらこ

https://rakoshirako.booth.pm/items/4361484

画家・イラストレーターしらこの個展。しらこは『ザリガニの鳴くところ』の表紙を手掛けたので有名。文芸系と相性がいい人で、今後も多くのところで活躍しそう。個展では、2019年ミャンマー旅行の経験を描いていた。しらこは、一人の人を描くことと、群像を背景として描くことの両方で優れている。そろそろ買えなくなるほど高くなりそうなので、いまのうちに個展で絵を買っておくとよい。なお、私はほしいやつがすでに買われていたことと、そもそも家に飾る用のコルクボード設置しないといけないので、買わなかった。後で後悔しそう……。

88

第二回フリーペーパー『やうやう』大忘年会

生うどんつちやの「シラスの台地で生きていく。」

https://shirasu.io/t/namaudon/c/tsuchiya/p/20221214213042

鹿児島県鹿屋市のイベント。男女年齢層も多様な参加者がいて、ゲンロン総会感がすごかった。登壇者に日置市長や鹿児島県の県議員、それに対してまた別議員が質問するという政治的空間に、様々な職業の人と、なぜか私が参加していた。その後、著述家もきて活動をしている人たちと議論、ライブあり、格闘技トークあり、という硬軟とりまぜ、すごい。「頭だけいいやつ もうGood night/ブランド着てるやつ もうGood night/メジャーになりたいやつ もうGood night」がキャッチコピー。なお、登壇した私はKIKUCHI TAKEOの上下を来ていたが、good nightするどころか23:00からセッションスタートして、3:30までトークした。それ含めて、ゲンロンという場所を知っている人が、ゲンロンみたいな場所を地方で実現できることを示した最初の例だと思う。そして、日置市長の永山さんはその後、別の配信でもコメントしていて、市長がシラシーということも判明。シラスすごい。

87

ChatGPT

OpenAI

https://openai.com/blog/chatgpt

こちらの記事(https://qiita.us5.list-manage.com/track/click?u=e220ac811523723b60d055c87&id=0a267e1006&e=3dbb9bf4f1)で概要はまとまっている。

とはいえ、まず、技術とかに関する説明は細かいところがほぼ間違っているし、コードの出力とかも自分で直さないと動かない。使いまわしコード生成するのに便利かもとかいってるけど、そんなんいくらでもコード補完のライブラリおとせばええやんけ、自分ほんまにスクリプト書いとんのか、と思ってしまう。

あと、いわゆるだめなWikipedia記述が多く、道具として優秀とも言い難いと思った。つまり、それらしい文章の羅列について、レポートの文章ていどのものでは困るし、結局下書きを全部直して自分が一から書く未来が見えた。

今後、唯一使えそうな希望点としては、知らない概念とか体系的にぱっと、ちゃんと正確に出してくれるようになってから。Wikipediaの対話形式の理解のようなもの。

ちなみに、ほとんどの人間が確率的思考に相同するかたちで段落を区切って書いていることなんてChatGPT以前からわかっていた話なので、何も新規性がない。

ちなみに、一番欲しいのは、べらべら喋ったら概念図を引いてくれるAI。それができたら本当にすごいと思う。

86

FLIP&DRAW

7SEEDS & GREEN ASSASIN DOLLAR

https://linkco.re/yM9UHABT?lang=ja

「lo-fiっぽいヒップホップってまとまったものないの」という質問に対してはこれ。これを聞くと、流行っているいくつかのトラックの種類のなかで、一部をすべてを明快にしてくれる。重要なのは、lo-fiはレコード的なグリッチ音が入っているが、ヒップホップでは、そういうのがあんまり目立たないし、サンプリングしている音源の存在が目立つ。そんな中で、GREEN ASSASIN DOLLARは“BUDS MONATAGE”で示したように、サンプリング音源をかなり寸断して編集し、それをピアノサウンドと統合させる高度な技法を使っている。そうした技術の妙を楽しむことのできるおすすめのアルバム。

85

NewJeans(뉴진스)

https://newjeans.kr

90年代リバイバルをかなりわかりやすいかたちでやっている。アイコン化され、ノスタルジー化され、ガジェットとなった90年代を40代の女性プロデューサーが10代の子にやらせるというなんか歪んでる気がしなくもない点が逆に面白い。Y2Kフアッションの再流行に合わせてるだけということもあるが、Windows XPの画像読み込み速度の遅さをアイドルの公式ページで再現してて、丁寧といえば丁寧だが、「それ誰が求めてるの」感がすごくて大丈夫なのか、と心配になる。あと、十代でデビューして人生決まると再学習とか難しい気がする(日常的な生活が送れなくないか)ので、そのあたりのケアってどうなっているのか気になる。

84

Sandora’s Son

CHICO CARLITO

CHICO CARLITOは単なるバトルがうまい人と思っていたら、屈折10年で素晴らしい曲を作り上げてきた。沖縄音楽の独特のグルーヴでフロウを構築し、細かく韻を刻むスタイルは他にない面白みをもっている。“Ryukyu Style”は2020年に発表されたさいにまさしく沖縄的なラップを感じさせてくれたが、CHOUJIと柊人とのRemixもかなり完成度が高く、とくにCHOUJIのフロウもまさしく沖縄的で、ある種のジャンルが確立しているのを示してくれた。

83

Dr. ストレンジ マルチバースオブマッドネス

サム・ライミ

https://marvel.disney.co.jp/movie/dr-strange2

サム・ライミといえば、『スパイダーマン』だとみんな思ってるけど、やっぱゾンビでしょ。ゾンビはヴードゥーといったオカルトミームに由来しているので確かに相性いいかもしれない、というは置いておいたとしても、死体の遠隔操作をするところなど、かなりしびれた。また、MCUではとにかく女性が犠牲になるという問題点を浮き彫りにした点も良かった。別に夫婦に子どもいないってそんなにマイノリティでもないんだけど、子どもにこだわる母親像みたいなものをマーケティング対象にしているからなのかな、と思った。よく考えると、MCUってシリーズと作品の構成みたいなものとしてはすごく良くできているけど、そもそも対象層はミドル・エイジのマジョリティかつ、ファミリー層総取りだし、こんなものなのかな、という感想。個人的には、ディズニー作品をオマージュした音符の戦い(ようは、『ファンタジア』)とか、とにかく魔法のバトルや次元移動を言い訳にピーキーな表現をやっていたのが良かった。

82

悪党の詩(Remix)

Red Eye & D.O.

大阪出身のRed Eyeに練馬区出身のD.O. がフューチャリングして、まさかの「悪党の詩」をREMIX。Red Eyeの歌詞には、D.O.へのリスペクトが非常に多く、歌詞の構成がよくできている。ただ、このコラボは非常に考えさせるものがある。D.O.は都内の90年代サバイバーであり、もろに景気退行を受けていた。ちょうど20歳ほど年下の2010年代サバイバーのRed Eyeは、ほとんど同じ境遇を生きてきた。マクロには、株価の上昇・円高・ゼロ金利政策・36協定など2010年代は比較的躍進した年だったが、Red Eyeはまさにここで生じた貧困世帯の拡大に合わせて登場してきたといえる。今、ヒップホップで中心的な役割をもっているほとんどのアーティストが似たような環境出身であることを考えると、この曲の意味するところがとても大きいところがわかる。

81

稲川淳二がAppleサブスク解禁

apple music

https://music.apple.com/jp/artist/%E7%A8%B2%E5%B7%9D%E6%B7%B3%E4%BA%8C/86912098

ここ10年ちかくの怪談ブームの帰結。動画でホラーを見るよりも手軽。ほどほどに不気味な話がよくまとまっている。近代的な怪談のほとんどは人間がもっている認知的バグ(ここで人が死んだので、なんとなくいたくない)を利用しつつ、解決不可能な不条理に巻き込まれいくというもの。たぶん、演劇でいう「悲劇」みたいなものの一種といっていいと思う。なので、怪談はずっと人気だが、メディアの変化やホラーブームみたいなものが散発的におきていて根強いカルチャーシーンを形成している。落語などもどんどん解禁になっているので、次は謡とかやってほしい。浄瑠璃など、朗々と読み上げるものがたまに聞きたくなるのでいろいろ解禁してほしいこの頃。

80

RENAISSANCE

BEYONCÉ

https://music.apple.com/jp/album/renaissance/1630005298

“BREAK MY SOUL”はすごかった。Robin Sの“Show Me Love”(’93)をサンプリングした。もとの曲もソウルに、キレキレのエレクトロを導入したかなり先進的な曲だったが、それをさらにBig Freediaの“Explode”(2014)を重ねるという離れ業。プロデューサーをしているTricky Stewart、The-Dream、そしてBeyoncé本人の頭の中を覗いてみたいくらい斬新な発想。“CUFF IT”についても、ファンクをここ5年くらいのR&Bサウンドに取り入れつつ、ポップス化していてビビった。

79

ウェンズデー

ティム・バートン

https://www.netflix.com/jp/title/81231974

90年代を代表するホラー・コメディの『アダムズ・ファミリー』にでてくるウェンズデーが主人公。正直、『アダムズ・ファミリー』はまったく好きではないのだが、予告編をみて「これは、ワンチャン「ハリー・ポッター」ではと思って確認したらやっぱり『ハリー・ポッター』だった。そして、かなりうまいと思った。『ハリー・ポッター』と同様に家族の謎をめぐる話にしつつ、ウェンズデーが主人公であることもあり、賢さとストイックさによってどんどん物語が駆動するので、シリーズものとしてとてもすぐれている。全能チート系主人公だが、コミュニケーションに難がありすぎるため、そこで随所に笑いが仕込まれているといった演出も見ていて気持ちがいい。90年代リバイバルものだが、時代背景も現代に合わせているといった工夫もあるし、その中でもかなり良かった。

78

『伊勢物語』六十段「花橘」小論―女子大学の教室から、注釈のジェンダーバイアスを考える―

大津直子

doi/10.15020/00002246

「同志社女子大学日本語日本文学」34号 2022/6収録されていたこの論文は自分が待っていた内容なので本当によかった。昔から古典を読むのは好きだったのだが、ときどき、女性が出家することになる話のときの様々な理由で「解説が一行も理解でない」というのがあった。一言でいえば、「それってお立場表明に過ぎないし、この文章の背景にある文化風習でもないみたいだし、解釈じゃなくない?というものだ。この「花橘」の従来の解釈もその典型で「女は基本的に男を金で選ぶにきまってるから、純粋な恋愛に負けた反省で出家やろ」みたいな解釈で「は?」と思っていたのに、丁寧なテキスト解釈によるかなり納得のいく回答として「女性が自由に意思表示し、抵抗することができる手段として出家があった」を導いていて、専門外の論文の中で一番読んでよかった。

77

【特別番組】日銀は政府の子会社?ー会計と経済から考える貨幣理論

飯田泰之のシラス経済ゼミ

https://shirasu.io/t/iidayasu/c/iidaecon/p/20220707122447

ウクライナ戦争になり日本経済の雲行きが怪しい中で、日銀は政府の子会社という認識について改めて考える回。貨幣理論はたいていの場合、サプライとデマンドの観点から説明されるが、会計から考えることによって中央銀行の機能もよくわかる。また、暗号通貨の仕組みを支えるプルーフ・オブ・ワークは、決済の事実だけが残るというラディカルな世界観を提示していることを会計の概念で前田順一郎がうまく説明するところも重要。

76

サイバーパンク2077:エッジランナーズ

今石 洋之

https://www.netflix.com/jp/title/81054853

脚本は日本人がまとめているが、構成にBartosz Sztybor/Jan Bartkowicz/Łukasz Ludkowskiの三人が加わっていて、今石作品なのにまったくトリガーっぽくなくて感動した。いつもの今石・トリガーだと、ハードボイルド的に男が一人でさまよっていくだけなのだが、男女の役割を逆転させつつ、しかも、きちっともっていた目標を叶えるのだが、その目標それ自体が明らかに空しいものだったということを恋愛と人間関係の破綻によって描くというのがとてもよかった。しかも、「お互いのために頑張るがそれゆうにすれ違っていく」という普遍的なモチーフをストレートに表現していた。サイバーパンクという箱を使って自由な表現がまだまだできることを教えてくれたし、今石・トリガーに対するイメージも少し変えてくれる良作。

75

anéantir

Michel Houellebecq

https://editions.flammarion.com/aneantir/9782080271532

すごい苦労して読んだ。もともと、パラ読みで済まそうかなと考えていたが、ベストハンドレッドが1月発表にのびたので、年末・お正月も全部潰してひたすら読んだ。新年初読書がウェルベック、辛さしかなかった。とはいえ、フランス語学劣等生でも読めるくらい文章がわかりやすくてやばい。たぶん、読者層を広げようとしている。そんな今回だが、いわば「無駄に洗練された無駄のない無駄な動き」みたいな内容だった。『服従』と『セロトニン』では暴動を描いたウェルベックだけど、今回のanéantirではテロそのものが描かれる、全体の2割くらいで。その少なさはなぜかというと、オカルト・陰謀論的味付けとフランスの伝統的古典作品=バルザックの換骨奪胎がメインになっていて後者の比重がとても重いから。とはいえ、「階級固定したフランス社会で安全保障やってる官僚も親子二世代だし、結婚やパートナーも官僚どうしで、実質血縁でまわってるよね」みたいなのをうまくバルザックの作品とマッシュアップしたみたいな内容。翻訳出るかかなり怪しいけど、出たらでたで、文学好きの人にはおすすめだけど、そうではない人はスルーしてOK。

74

A Decisive Blow to the Serotonin Hypothesis of Depression

Christopher Lane Ph.D.

https://www.psychologytoday.com/us/blog/side-effects/202207/decisive-blow-the-serotonin-hypothesis-depression

ウエルベックといえば、『セロトニン』。というより、心療内科と薬は映像でも小説でも一大ジャンルを形成している。その中でもセロトニンが鬱に効くので、セロトニン再取り込み阻害することでセロトニン量を増やすことが行われてきたが、鬱の症状そのものには実はセロトニンが効かないのでは、という衝撃的な論文誌にのった記事(査読してるどうかわからないが信頼性が高い)がでた。鬱をひたすら人生の複合的な要因によって説明してきた文学の勝利でもあるし、ちゃんと寝て一日三食食べれば実はなんとかなることを示しているのか。どちらが正解かは不明だが、まさに「病の表象」と「医学的知識の常識」が乖離する稀有な事象だった。

73

時間と偶然研究会

https://www.youtube.com/@time.contingency/videos

去年の脱構築研究会に続く、ドープな発表が聞けるフィルカル系の人が主催している。デザインについて、2021年ベストハンドレッドでとりあげた脱構築研究会と基調が異なっていて、それぞれのジャンルを代表しているようで興味深い。米田翼が出演している回があるので、ベルクソン研究が現代形而上学と強い結びつきがあることなどわかる。なお、私はジミー・エイムズを応援している。

72

アンスコム

『インテンション』(https://amzn.to/3wgOFRG)の翻訳が3月に発売され、9月には『思想』でも特集。SNSでも、アンスコムがこんなにツイートされていること自体に驚く。中根杏樹「実践的推論の合理性と論証の妥当性 : アンスコムの「実践的推論」再考」が、松永伸司に論文をTwitterで紹介されるなど、多方面で注目が集まった。とはいえ、なぜアンスコムについて考えると少し考えてしまう。つまり、「意図と行為の結びつき、そこにある倫理的基準は何か」というメタ倫理学ブームの今年の流行なのかもしれないが、アンスコムはトルーマンの原爆投下の命令書にサインしたことを激烈に批判しているので、そうした批判ロジックが作りやすいということがあるのかもしれない。いずれにせよ、「知っているし、議論の前提くらいは理解しておいたほうがいいよね」といった哲学者が「え、読んでないの?」のモードに変わったのがわかりやすい経験だった。

71

Mirror

ちゃんみな

高校生RAP選手権で名を挙げたちゃんみな。First Takeにも出るようになり、頑張っているとは思っていたが、韓国ポッブスに影響を受けすぎていて独自性がどんどん薄れていっているなと思っていたときにでたのが「Mirror」だった。ゼロ年代に流行したSkate punkやJ-Rockのうち、メロディラインがシンプルなものを参考にしつつ作り上げたような韓国語の楽曲でかなりかっこよかった。ラッパーがここまでロックを歌いこなすのはもともともっている歌唱力の強さの賜物であり、ちなみにダンスもふつうにできる人なので、今後もっと伸びていくと思う。

70

三木那由他

すごい仕事量。1年に3冊も出してる。素直に尊敬。グライスに限らず、コミュニケーション理論の大きな流れを作った。『言葉の展望台』では、哲学エッセイなのだが、自分の意図が伝わらないことよりも、「誰か/自分の発言に傷つけられてしまうかもしれない」といった点を強調するといったように20-30代的感性にうったえたエッセイになっていて感心。とはいえ、一応文学研究や批評をしている立場からすると、意外な展開みたいものがない共感型のものは続かないので、この手ものを書きたいなら、筋の交差と意外な展開などを導入していく必要がある。とはいえ、そういう小言を言いたいくらいしかない良い本ということ。仕事をし続けるのは大事だけど、あんまり働きすぎると体に悪いので適度に頑張ってほしい。

69

R. R. R

S・S・ラージャマウリ

ナショナリズムそのものみたいな映画だったが、あまりにも高度に達成されていたので驚いた。ラージャマウリは、アクションについて『バーフバリ』で圧倒的な達成をしたので、ダンスシーンについて高度な工夫がなされていた。普通、30fps前後で撮影することはないのだが、スローモーション撮影で用いる50fpsからは少し下げつつ、手の動きなどの細かい動作がキビキビしてみえるという絶妙なフレームレートを見つけていて、それが映像の緩急を生みだしていた。ライティングが一流だったからこそ可能だったろうし、それはアクション撮影の過程で見出していったものなのだろう。ただ、どう考えても『バーフバリ』のほうが面白かったのは事実。

68

3:03 PM

しゃろう

2014年から活動していて、2022年に大ブレイクしたしゃろう。聞けばどこかで絶対に耳にしたことのある楽曲。会社員だそうで、本職ではないそうだが、かなり理知的な構成をしている。耳に残るフレーズもさながら、展開部分も聞かせどころをつくっていて、リフレーズ部分の繰り返しも盛り上げがある。参照先としてはゲーム音楽のとくに、エレクトロ系全般と思われる。Safuやinoiが好きと言っていたけど、それらに対してしゃろうは圧倒的に音の重ね方がうまい。こうしたゲーム音楽とか、ゼロ年代Akufenあたりのミクロハウス後半の世代といった音楽も背景にありそうだが、系統整理を追うだけで楽しそう。

67

星占い的思考

石井ゆかり

https://amzn.to/3iGLbVr

12月で5刷り。結局のところ、彼女は星座占いをしていない。限りなく詩人に近い、エッセイストであり、批評家である。この自己啓発ほど煽らず、しいたけ占いほど論理構成や修辞表現が破綻していないが、奇妙なメタファーを駆使して読み物を書き続ける謎の人。例えば、「[星占いは 筆者注]人間の脳みその「ごまかされやすさ」と同程度に、インチキである可能性が高い。「統計学」は歴としたサイエンスだが、少なくとも今のところは、星占いに科学的な裏付けはない」(kindleより)だとか、「象徴でできた世界に棲み、運命を生きることをやめられないからだ。そして文学は、象徴と運命の世界である。象徴と運命から離脱しようとする文学作品もあるだろうが、それすらも、重力と戦って大気圏に出ようとする程度には、重力をテーマとせざるを得ない。ゆえに、文学の世界観を「星占い語」で解釈し直すことは比較的容易だ。」(kindleより)だとか、かなり批評的である。

なお、この本ではないが、私が好きなのは『蟹座』の次の一節。「激しい怒りや深い悲しみにも時間薬は霊験灼かです」。私は「時間薬」の意味をほとんど理解できていないが、パンチラインなのは間違いない。

66

【ゲスト】視聴者「diontum」さんが山下Topo洋平のビートに乗せてラップを制作!世界初!?南米リズムの日本語ラップの爆誕!?

山下Topo洋平のHappy New Moment

https://shirasu.io/t/topo/c/topo/p/20221009

最初に言っておくと、私と友人で作った曲がいいのではなくて、コンテンツの背景についてでランクが上ということ。その背景とは、シラスで初めて開設された音楽チャンネルで、初めて視聴者がミックスまで作曲し、2022年にゲンロンでも美学校でも取り上げられたhiphopだったということで、初めてづくし+批評の流れを踏まえたものとなっているからランクイン。なお、オチとしてはフォルクローレの曲ではない。リベンジとして本当にフォルクローレの曲を作成中。EP売るかも……(CD作ったことのないのでよくわからない)。

65

ベイビー・ブローカー

是枝裕和

https://gaga.ne.jp/babybroker/

あんまり話題にならなくてびびったけど、ペ・ドゥナっていい俳優だよね、と再確認する映画。是枝監督の中では正直一番これが好き。『万引き家族』やケン・ローチのような階級社会と貧困の閉塞感の先として、希望を描く作品。養子についての議論とか知っているとぜんぜんご都合主義とかには思えない最後の展開だった。カメラワークも撮影監督が韓国人で、いつもの是枝の画面ではないような洒落たカットが随所にあって観ていて新鮮だった。しかし、ぜんぜん評判が聞こえてこなくてびっくり。ちなみに、日本よりはるかに人口の少ない韓国では100万人動員していて、日本は1万人とのことで、韓国語の映画であるということ以上の何かを深く考えさせられた。

64

世界はおもちゃ箱

米原将磨

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3741

私が書きました。今井哲也の読み方としてはいまいちかもしれない。ただし、ガジェット文化論の展開をした批評はたぶんこれ以外に存在していない。ガジェット、もっと言ってしまうと、物語の中で小道具(巨大なロボットも小道具)としてでてくる「おもちゃ」というのは存在そのものが批評的で、美学の中でもゲームについて論じることがここ十年で世界的にも当たり前になった。とはいえ、おもちゃの「遊ぶという目的のために作成されているが、日常的な実践のために何一つとして役に立たないものであり、かつフィクションの想像力を構築するもの」という存在について語る言葉まだまだ足りない。というのも、おもちゃの遊戯性についてみんな話すことができるのだが、おもちゃの物質的な形態の文化的な説明というのがまだまだないから。米原個人としては、ほぼプラモデルの制作経験はないが、その造形や語る言説自体は非常に興味深く、美術批評の文脈で把握しようとしている。その緒として書いた批評がこれ。

63

余計なことで忙しい

藤原麻里菜

https://marinafujiwara.persona.co/

『文學界』で2022年1月号から連載されている。藤原麻里菜は無駄づくりで有名。役に立たないユーモアのある製品をつくり続けている。現代のロクス・ソルスみたいな感じ。ある意味でおもちゃをつくりつづけているというわけで、決してモダンアートというわけでもないのだが、「機能の自立化とそのズレのユーモア」みたいなことをできていて、それがよいのだが、文章もかなりうまい。私のお気に入りの回は、友達と寿司パーティーすることになって寿司の握り方を料理教室で覚えるのだが、友人に妊婦がおり、自分のお手製の寿司は遠慮して食べなかったのだが、後日、インスタか何かで高級寿司店に行っていたがわかり、ちょっとイラっとしたという話。切ない。

62

マンガを鉄道で読む人たち―モダニズムのパロディとしてのキッチュ

三輪健太郎

https://amzn.to/3XA8jUs

さすが、三輪健太郎で、「キッチュ」について話をするのかと思いきや、「マンガを鉄道で読むようになった時代」の証言を紹介し、それが道徳などの観点から批判されていたことから説明する。言うまでもなくこれは、稲田豊史『映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~ 』を中心に議論が起きたファスト映画論争を意識しているし、引用もされている。稲田も認めている通り、大衆文化とは、技術の進展で速さがもたらされるたび(距離がとりさられるたび)、モダニズムが徹底される過程のことである。いいかえれば、「もっと手軽に、もっと早く、もっと楽に!」となる。ここまではありがちなモダニズムの復習だが、三輪のこの批評が優れているのは、しかしどれだけ早く効率よく消費しようと、人生は有限であるため、それが空虚にならざるをえないため、本質的には娯楽消費がドラッグにすぎないとまで内省することのである。ここまで論じつくしたうえでなお、内省して初めて、批評を始めることができるのだろう。

61

ダウンファブリック イージーパンツ

TAKEO KIKUCHI

あったかい。TAKEO KIKUCHIは全然持ってなかったが、服を漁っていたら見つけた。ダウンファブリックは、比較的暖かく、秋になればこれだけでもの足元が寒くはない。あと、イージーパンツモデルのいいところは、幅広で形がすとんと落ちているので、脚の癖をある程度隠せること。

60

Bad Habits

Steve Lacy

70年代ポップス・ファンク・ソウルを参照する今どきのミュージシャンだが、“Bad Habits”にはびっくり。“I bite my tongue, it’s a bad habit / Kinda mad that I didn’t take a stab at it”という歌詞に見られる情動の不安定さ(“bite one’s tongue”は、「だまる」ていどの意味だが、これはそのまま「舌を噛む」という意味でとってもよいだろう)という最近の歌詞のスタイルをとりいれて、サビ始まり曲にしてTikTokに対応しつつ、全体として高度に曲を構成している。Lizzoはディスコ的な方向に進んでいるいっぽうで、Lacyのような方法が今後どうなるのか気になる。

59

ALPHA PLACE

Kuncks

UK drillシーンはふだんあまり追っていないが、たまたま知って、Knucksは重要だと感じた。drillは2010年代シカゴのシーン(Lil Bibbyとか)だが、それがUKに輸入された。簡単にいうと、細かいハイハット・スネアに、RT-808のベース音をメインのリズムにかぶせて裏拍みたいなことをすること。なお、trapはスライドさせない。drillとtrapは聞くと癖が全然違うのでだいたいわかる。2010年代末のUKヒップホップシーンは「ストリート」や「ギャング」系のヒップホップといえば、drillになっていった。見分けたい時は警察車両のサイレンの音が多めに入っているかどうかなどに気をつけて聞くと良い。そこに、近年はchillの流れも合流してその中でも、今年のUKヒップホッブアワード2022でKnucksはdrill自体を再解釈するような楽曲編成になっていたのでよかった。まず、チルといってもlo-fi的な方法ではなく、トランペットでジャズな旋律をいれるといったもの。歌詞の内容も陰鬱な感じのものが多く、好み。

58

ALL GODS BLESS ME

RYEKYDADDYDAIRTY

出所するとみんな早口になる。出所して改名したRYKEYだが、NARISKがビートメイクし、BACKLOGICがMIXしたこの曲はNARISKの中でもかなりメロウな曲となっている。NARISKはMFS、ジャパニーズマゲニーズ、¥ellow Bucksにも曲提供し、そこではTR-808のdrillに似たスネアとキックを入れ込むとマッチするが、キックがないとまったくラップの曲に聞こえなくなる点がすごい。実は、しゃろうとも近いスタイルの曲も多い。しかし、“ALL GODS BLESS ME”では、ほとんどdrill感はなく、かといってSACやGreen Assassin Dollorのようなサンプリング感もなく、かなり独特のサウンドになっている。また、RYEKYDADDYDAIRTYの歌詞も深い内省と矛盾が垣間見えるかなり文学的な内容になっていて、思わず聞き入ってしまう。

57

米原将磨×江永泉 司会=ジョージ「ゼロ年代批評崩壊期とは何だったのか。地殻変動以後の時代に三人が回顧する10年代批評シーンと20年代への展望」

TERECO

https://www.youtube.com/watch?v=LMz6srf5VkI&t=8122s

江永さん、ジョージさん、その節はお世話になりました。2010年代の同人誌批評シーンについて総括した。話題は多岐に及んだが、基本的にはインフラの瓦解、批評同人誌参加者の考え方の変化といった外部要因にもとめ、思想的な観点からの説明があまりできなかったが、そもそもそれほど思想的なものがなかったから瓦解したのでは、ということも言えると思うので、だとするとまぁこんなものか、という感じ。なか、編集は大変すぎて基本無理なので、基本方針としては生放送のチャンネルとして運用していく予定。

56

荒俣宏×鹿島茂×東浩紀「博物学の知とコレクションの魅惑——古書、物語、そして『帝都』」

ゲンロン完全中継チャンネル

https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20221120

現地で観覧したせいか、荒俣宏の話法のようなものを生で聞けて大変よかった。また、全共闘世代の中にあった文化オタクたちのリアルな青春模様の話が聞けたこともさながら、とくに印象的だったのは、荒俣宏が作成したという自主制作アニメだった。1960年代(たぶん)に作成されたアニメーションの上映があり、間近で食い入るように観ていたのだが、50-60年代の日米アニメーションのいろいろな要素を吸収しつつ、軍艦めいた船舶が登場することだった。すなわち、これはロボットアニメの最初の黄金時代でのアニメーションとミリタリズムの結びつきがアマチュアたちの表現の中に自然におりこまれているということであり、この日には一度も触れられなかった「雑誌と軍事」というテーマが潜在していただろうということなのだ。

55

芸術と進歩 進歩理念とその美術への影響

E. H. ゴンブリッチ

https://mobile.twitter.com/Dromedarius3/status/1597531899337248768

1978年のKUNST UND FORTSCHRITT Wirkung und Wandlung einer Idee の全訳。解説で簡単なゴンブリッチの履歴とゴンブリッチの著作目録が付録している。訳はかなりこなれており、著作自体もレイトワークということもあり、まとめ方が図式的で初学者向けとなっている。第一章では、2022年10月に岩波文庫で『ギリシア芸術模倣論』の訳がでたヴィンケルマンのギリシャ美術=反動という図式を19世紀初頭ドイツロマン派のひとつ「ナザレ派」を重ねて論じるところから始まる。そこからたった1世紀で急激にモダニズムまで行きついてしまったのは、進化論的歴史主義が普及することで、表現の形式化と相対化が進んでいくことで、時代を統一的に把握するような芸術表現がなくなってしまったのだ、というみたて。いまでもこの議論を批判的に継承することで、多くの示唆が得られるだろう。訳者の労作に感謝。

54

平家物語

山田尚子&吉田玲子&牛尾憲輔

https://heike-anime.asmik-ace.co.jp

高野文子がキャラクター原案。悠木碧の演技が光る。今回一番気になったのは、びわが琵琶を弾きながら吟ずるとき、抽象的な空間の中に超人的な人物が鎮座している画面構成をしていたこと。山田尚子は2010年代の後半はキッチュなキャラクターと極端なリアリズム(レンズ効果を入れることによるカメラの向こうに人間がいるように表現すること)にこだわっていたが、極端な露光を感じさせる抽象空間演出はここ5、6年にはない演出で、驚きを与えてくれた。山田尚子&吉田玲子&牛尾憲輔で撮影される新作も楽しみ。

53

ハウス・オブ・ザ・ドラゴン

HBO

https://www.video.unext.jp/title_k/house_of_the_dragon

『ゲームオブスローンズ』シリーズの新作。大人気シリーズのリブートでもなく、続き物でもない、「この一族の衰退のきっかけになった事件」という歴史をさかのぼるタイプのもの。

といっても、ぶっちゃけ初見でも見れるし、『ゲームオブスローンズ』のシーズン1のときにうれるかどうかわからない中の低予算撮影だったのを考えると、『ハウスオブドラゴン』のハイクオリティな映像のほうが楽しいかも。また、時系列としてもこちらからみると、なぜターガリエン家が没落したのかよくわかる。

本作は相変わらず「正しくあろうとするがすぐに欲望に飲み込まれる」を繰り返し、どうしようもないくらい人間関係をこじらせて救いようがないところが見どころ。また、女性監督が出産シーンや結婚シーンを撮影していてカメラワークの設計や演出意図の迫力がすごいのでそのシーンだけでYoutubeみるといいと思う。

現実の中世では200年で美術様様式がだいぶかわるものなので、「200年後と世界がかわらなさすぎでは」と思った点は多々あったが、200年後のキングズランディングにあった大きな建物がない、など分かりやすく時間の経過を伝えるなど丁寧な部分は肯定的にみていきたい。

52

トップガン マーヴェリック

ジョセフ・コシンスキー

https://topgunmovie.jp/theater/

“But not today.” 還暦のおじいちゃんが海軍精鋭部隊の誰よりも強いイケオジ。しかも昔の親友の息子とアツい関係。あれ……、ハードボイルド系イケオジBL?、と思わずにはいられない本作。エイジズムとルッキズムのオンパレードをなんとか女性パイロットの登場でうまく糊塗するなどして、と思いきやかつて数物理得意で博士号までとって順調なキャリアを歩んでた女性が御年でバーテンダーって、いったいどの時代の作品なんだよ、と全方位に爆撃をしかけるものの、映像が気持ちよすぎてすべてが吹き飛ぶ。『トップガン』初代より圧倒的に面白いつくり。きちんとトレンドをおさえ、どう考えても、「これって……エースコンバットだよね」というツッコミもなんのその、スーパーゲームプレイヤーの操作するコブラ機動に舌鼓をうち、カメラ自体もすべて実際に撮影しているため、いままで一度も観たことがないようなアクションシーンになっている。ただリアルで撮影することが正しいのではなく、物理的な制約を解決していくプロセスもまた映像をつくりあげる醍醐味であることを教えてくれる一作。

51

キラー・サリー ボディー・ビルダー殺人の深層

Nanette Burstein

https://www.netflix.com/jp/title/81331076

フィットネスブームによって、ルッキズムの問題が取り上げられ、肥満の文化史などは論じられるようになったが、機械の中で単純な反復作業を行う奇妙な行動について文化史的な語りが定着しているとは到底言えない。この作品は来たるべきボディビルディング表象論において、一つの影をなす作品になるだろう。2020年にHillaryでその名を広く知られるようになったBursteinの次は、Sally McNeilだった。誰もがその人物のことを覚えていなったが、物語を追っていくと、90年代における女性ボディビルディングに対するヘイト、ポルノとして消費される女性ボディビルディングのダークサイド、そしてボディビルディング夫婦の生活の破綻と自己防衛のための殺人の顛末が丁寧に語られる。Bursteinがいまこのドキュメンタリーを制作したこと目線の鋭さに舌を巻くばかりだった。

50

【驚愕】人間が宇宙で生理になるとどうなるのか?

VAIENCE バイエンス

科学知識がどのように民間に広まるか、という点の研究において、20世紀にかけて最も変わったのは、性について正確な知識だろう。女性が自分を守るための客観的な知識が広まっていったなかで、VAIENCEは幅広いアプローチの可能性を示してくれた。時折、ビキニを着た女性たちが海岸をかけるほとんど無意味な映像を背景に視聴者を煽る極めて退屈な回があるが、宇宙開発と女性の宇宙進出について手際よくまとめたこの動画は非常に勉強になった。

49

Drop out

Hulu

https://www.disneyplus.com/ja-jp/series/the-dropout/5C0gjGwyRTeZ

BAD BLOODなどに基づいて作られたセラノス社を創立し、現在係争中でこのままいくと懲役11年がつくことになるElisabeth Holmesを主人公としてドラマ。エミー賞を特定の枠の主演女優賞で受賞したが、当然のAmanda Seyfriedの演技なのである意味で当然か。とはいえ、その真価は、いっけん技術と自由彩られたゼロ年代のシリコンバレーが縁故主義と隠された女性差別構造に彩られていたということか。詳細は下記で話しているので、興味のある方はぜひ。

https://shirasu.io/t/namaudon/c/tsuchiya/p/20221018173728

48

分析哲学とニーチェ

ブライアン・ライター『ニーチェの道徳哲学と自然主義』(https://amzn.to/3ZFvn64)が翻訳され、『フィルカル』Vol.7 no.2(https://amzn.to/3H9IOnn)でも特集が組まれた。ついにニーチェと分析哲学が日本でもプチブームに。ただし、シンギュラリティ信仰とか加速主義に密輸入されそうなので、個人的には警戒心がすごい。なお、ニーチェの概念で一番の好きなのは、「大いなる正午」。私も人生で「大いなる正午」としか言えない時期が一度だけあったし、うまい比喩だなと思った。ちなみに、現代的にいうと、「無限に中間的なもの」(クレジオ)か。

47

gokigen

chelmico

「落ち着いたらビキニ身につけてワイキキビーチにでも生きたいけど/どんなとこかはよく知らない」のパンチラインを残した「三億円」は高橋諒が作曲。ふだんはJPOPやアニメに曲を提供しているが、DJもしている。そうした人材を採用したためか、『gokigen』は全体に渡って、ポッブでもヒップホップっぽくもないが、MamikoとRachelの丁寧で気だるいラップが独自の位置を確立している。多くのラップソングがあったなかで、こうした曲のアプローチは非常に興味深く、ヒップホップを広げるきっかけになるだろう。

46

占領期ラジオ放送と「マイクの開放」 支配を生む声、人間を生む肉声

太田奈名子

https://amzn.to/3w5kv3J

私の学科の先輩の本。先輩の本だが、本当に面白い。占領期下ラジオ放送の中でどのようにGHQが介入し、『真相はこうだ』→『質問箱』→『街頭録音』になっていった過程を丁寧に追う。占領期ラジオ放送のGHQプロパガンダについてこれだけ実証的に追った本はないだろうし、とくに批判的談話研究で丁寧にラジオの台本を分析するところは必見。また、GHQの息がかかっているなかで偶然とらえられた「パンパン」の検閲された肉声が現在からみたとき、統制しきれなかった被差別者たちの訴えと読み解くのは見事。

45

山水画と風景画のあいだ―真景図の近代

下関市立美術館

https://cul-cha.jp/events/event/3636

たまたま下関に行く機会があり、常設展示を見ようかと思って入って偶然出会った展覧会だった面食らった。江戸時代の文人画家たちは、山水画を写実的に描くようになる。それが真景図であり、明治以降に西洋の風景画を導入するうえで非常に重要なきっかけとなった。その真景図から風景画を化政文化から明治時代まで示していくという野心的な試みはここ近年でみた日本美術展の中でも最も心を引いたものだった。化政文化でいえは、頼山陽の隣に田能村竹田の展示がある構成など、「わかってる!」と思わせるものばかりだった。

44

特集「短歌ブーム」

短歌研究社

https://tankakenkyu.shop-pro.jp/?pid=169373083

ネットの話しかしていないのがとにかく印象的だった。つまり、2010年代を通じてSNSが支配的になっていくことと短歌が流行していくことが一致しているということに驚いた。同人誌もSNSを印刷したとしかいえないとすら思った。ただ気になったのは、内容や単語についての変化についてほぼ誰も関心がないようだった点。短歌の分析をもっとちゃんと読みたいかも。瀬戸夏子の今後の評論活動に期待!

43

Everything She ain’t

Hailey Whitter

今年のカントリーは酒ソングは不調だった。去年のWishful Drinking / Ingrid Andress with Sam Hunt が良すぎたためか。ただし、今年はこの曲のインパクトがすごかった。

The whiskey in your soda

the lime to your Corona

Shotgun of your Tacoma

the Audrey to your Hank

She’s got a little style and a Hollywood smile

But believe me honey good as money in the bank

I’m everything she is and everything she ain’t

あなたのハイボールのウィスキー

あなたのコロナビールのライム

あなたのタコマ(トヨタの車)に積んだショットガン

ハンクにとってのオードリー

あの娘はちょっとおしゃれでハリウッド女優みたいに笑うけど

銀行に預けてるお金みたいに私を信じてほしい

彼女のすべてが私だし、彼女にないすべてが私

銃=男性とたとえられがちだが、ここでは歌手=私=女性が銃。車>銃のアイオワ感がすごい。あと、「believe me honey good as money in the bank」で価値があり安定したものの象徴として「銀行のお金」をとりあげ、それが自分であるという生活感。これがyoutubeで270万回再生されている現実について深く考えるべき。

42

James Webbs宇宙望遠鏡の観測写真

NASA

https://webb.nasa.gov/

人文系の人にあまり注目されてないので驚くのだが、これからはハッブル望遠鏡の撮影した画像はすべてのWebbsに置き換わっていくので、10年後の宇宙の表象がまるで変わったものになるという点は極めて重要である。それに加えて、すでに確立した系外惑星の探索を宇宙空間にできるということもあり、すでにこれまで確認されていなかった系外惑星を発見し性能を十分に示している。既存の技術の発展と表象秩序の変化の境目となっている。

41

アンディ・ウォーホール ダイアリーズ

Andrew Rossi

https://www.netflix.com/title/81026142

良作ドキュメンタリーを作り続けるRossiが取り組んだ、アンディ・ウォホールの伝記。ウォホールの伝記映画は数多くあるが、これが一番いい。最初の一話の時点でThe Philosophy of Andy Warhol A to Z を彷彿させるとされる電話をし続けるアンディのイメージを出したのち、銃撃されるまでを描く。その後、ジェドとジョンが恋人だった時代のウォホールのパブリシティとの関係をなぞりつつ、バスキアとの共同制作とAIDSの流行がモダンアートに大きな影を落とす時代に突入し、そこでウォホールが死んでいくところを描く。見事な構成とウォホールの肉声や作品のオーバーラップなどドキュメンタリーとしても非常にリッチな体験ができる。

40

全文現代語訳 維摩経・勝鬘経

大角修訳・解説

https://amzn.to/3CPBDOE

維摩経・勝鬘経はいつも読みたいと思っていても手軽読めるものがないので非常に困っていたところ、まさかの角川ソフィアから翻訳がでてくれた。この本を読むまで浅学だったのでまったく知らなかったのだが、柿本人麻呂が人の一生を水の泡にたとえ、赤染衛門がこの世を夢に重ねたような「あはれ」は「維摩経」にでてくる一節に由来しているという指摘だった。つまり、万葉時代から平安時代まで維摩経の影響力は絶大であり、しかも「もののあはれ」といった日本的にも思われている概念は仏教という外来の思想によって生み出されたものなのだ。その他にも何度も読み返したくなるコラム、なによりも朗読を前提とした力強い文章が読書経験を豊かにする。

39

Midnights

Taylor Swift

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Evermoreから二年ぶりのアルバム。注目ポイントとしては、Lana Del Reyがフューチャリングした“Snow On The Beach”か。Lana Del Rayのスタイルは、ウィスパーボイスと、“Chemtrails over the country club”でよくに示されているような、複数の歌い方によって微妙に統一感のないコーラスを作り、ギターのメロディのインとアウトを曖昧にしたようなミックスをしていて、掴みどころのない不穏な雰囲気だ。もちろん、ポップスのルールに従って、メロディラインを明確に区別し、サビの盛り上げを重視するTaylor Swiftとは矛盾するステイルなのだが、自分のコアとなる特徴は残しつつ、不穏さを出すためのコーラスとしてDel Reyを採用する理知的な構成には舌を巻く。

“Vigilante Shit”は、Reputationのときのヒップホップスタイルをかなり洗練させている。10枚目にしてまだまだ新しい試みを続けているTaylor Swiftには学ぶところが大変多い。

38

オートエスノグラフィー 質的研究を再考し、表現するための実践ガイド

トニー・E・アダムス、ステイシー・ホルマン・ジョーンズ、キャロリン・エリス/松澤和正・佐藤美保訳

https://amzn.to/3CQB3jT

最新、女性が性風俗を利用する、ストリップ劇場をレポートするといった現象がみられるが、私はこれをエスノグラフィカルな他文化への観察参与というよりかは、自分語りの変奏、つまり、ある種のオートエスノグラフィーだと見ている。オートエスノグラフィーは90年代から明確になっていったが、自分語りに比べれば客観性があり、参与観察にくらべて当事者性が高い、そして、聴者が自分の物語に参加することを求める。つまり、必ずしも自分についての語りだけではなく、当事者の語りをどのように客観性に還元していくかの方法論でもある。この本は上記についてかなり手際よくまとめていて、物語作成者に広く応用できる可能性がある。

37

BADモード

宇多田ヒカル

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宇多田ヒカルの到達点には瞠目するばかりだ。Drakeの“Juice”を参照しつつ作成した“One Last Kiss”ふまえ、USのメジャーヒップホップを吸収しながら日本語でどのように表現するかを探求する姿勢はJ-POPに示唆を与えつづける。ちなみに、“BADモード”ふくめ、ダンスミュージックっぽいけど何か違う感じのする曲づくりにはFloating Points(Samuel Shepard)の尽力が大きいそうだ。論より証拠、レビューより視聴、いますぐ聞くべき。

36

ゼウスの覇権——反逆のギリシア神話

安村典子

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恐るべきギリシャ神話解釈本がでてしまった。安村の精緻な読解と考古学新資料によって覆されていくギリシャ神話のイメージは、衝撃的とすら言える。しかも、何よりも素晴らしいのは、明確なテーマに向かって粘り強く論証を重ねていき、気がつくと次々に謎が解けているミステリーような快感すら得られる。ちなみに、私は犯人を芸術家にたとえ、探偵を批評家にたとえることがあるが、まったく逆だと思う。犯人とは単に判断がうまくできない人である。だから犯罪というさして合理的でもない方法によって解決しようと決断してしまう。一方で、探偵はその不合理に対して、この世界における必然性を与える。常に、探偵だけが芸術家であり、安村の読解もまた、芸術の域に達している。

35

陶淵明全詩文集

林田愼之助・訳注

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1932年生まれの研究者によるレイトワーク。90歳の仕事とは思えない丁寧な仕事。陶淵明といえば限界酒飲み詩人で、私もそれで愛好していたが、賦の形式でラブソングを書き、乞食を歌い、政治批判もしていたことを解説で読み、イメージが変わった。とはいえ、「擬挽歌詩」其二はやはり白眉。「在昔無酒飲/今但湛空觴」(昔は飲みたい酒が手に入らず、死んだ今は手に取る杯に溢れている)。死ぬことによってお供え物の酒が手に入るというユーモア。研究書としての水準は不明ではあるものの、訳と解説の全体を踏まえると非常に素晴らしい一冊だった。

34

diontumがカルチャーお白洲のおたより回に投稿してた手紙

米原将磨

https://diontum.com/「カルチャーお白洲」お手紙回2022年8月/

ゼロアカを2010年代にかなり批判的にまとめた連載。なぜか、ゼロ年代批評をまとめたものとして読まれることがあるのだが、出す固有名のほとんどが東浩紀読者を想定して作成されたようになっているので、ゼロ年代批評全体ではなく、ゼロアカ周辺を描いたもの。2000年代の批評は様々に秩序編成され、2010年代に様々な形で展開していったが、それについて書くのは私の仕事ではないだろう。なお、連載は編集して3月から発売する予定。電子決済オンリーで完全に手売りにする計画。

33

Elden Ring

Dir. 宮崎英高、谷村唯/シナリオ 宮崎英高、ジョージ・R・R・マーティン

https://www.eldenring.jp/

まだエルデン・リングの指輪をめぐる争いの席についてすらいないが、マップ内移動を自由にできつつ、ちょっとした細かいところにも意味があるようなシナリオになっていることを感じさせていて、純粋にすごいと思った。とくに、最初の時点でとくに何も指示されないので何をすればいいのかわからないなか、ほどほどに弱い敵を倒してチュートリアルをしつつ、気がつくと物語が進んでいく方向になっているのもゲームデザインに驚かされるばかりだった。J. R. R. Mのシナリオということもあり、分かる人にはどっぷりはまれるが断続的にしかプレイしない人にはほぼ意味不明というか覚えられない物語世界観もいい。でつくされたオープンワールドものをここまで面白くするとは、フロムゲーム史がここでターニングポイントを迎えたとも言えよう。あ、AC6も来ましたが、どうなることやら。

32

アフリカ文学講義 植民地文学から世界‐文学へ

アラン・マバンク

https://amzn.to/3HaTTok

やっとこういうアフリカ文学紹介の本がでてくれた!という本。マバンクのアカデミーフランセーズ講義録の邦訳。この本で重要なのは、広くアフリカ系移民全体の文化に目を配ることだ。ローカルにはそれぞれ重要な文化と歴史があるが、「アフリカ文学」の観点から世界をつないでいく。そして、内戦とルワンダ虐殺がもたらした災禍を文学はどのように向き合ったかを手早く、しかし、勘所を抑えて読ませる。この本は日本語で読める限りもっとよくまとまったアフリカ文学紹介の本であり、アフリカ文学が私たちとまったく無関係ではないことを教えてくれる稀有な本であることを教えてくれるだろう。

31

ピアリング戦記

小川晃通

https://amzn.to/3w69xv5

こういう本を待っていた。インターネットの基礎技術を学んだ誰もが思う疑問「そもそもどうやってASとかBGPってハードの方で動いているの、あと、IXって結局なに」といったところについてこれ以上ないくらい明確な回答を与えつつ、CDN事業者の台頭にいたるまでの日本のインターネット技術史を余す所なく証した本。すごいとしか言いようがない。ちなみに、IX初期の開発に関わっていた加藤朗インタビューは、岩波書店一ツ橋ビルに最初のIXが設置された逸話は、神保町という町の歴史をふまえたときに非常に示唆的である。人文系の町でこそ最初にインターネット技術の拠点が設置されたのだ。

30

アンチピリング タートルネック ニット

TAKEO KIKUCHI

https://store.world.co.jp/brand/takeo-kikuchi/item/BR07022F0024

これはかなりあたりだった。タートルネックがゴムできており、首にぴったりとくる。ポリ成分が多めなので、かゆい人にはかゆいかも。その場合は、インナーがタートルネックになっているタイプのものを着て、その上から着ると良い。基本的には、肩幅で絞られて腰辺りがストンと落ちるので、肩の形に関係なく、それぞれにシルエットがシャープになるため、誰にでも似合いそう。

29

新映画論

渡邉大輔

https://amzn.to/3XhWQsY

動画時代における映画体験について総花的に論じつつ、文化史を描こうとした良作。「第一章で論じた非擬人的カメラであれば撮影者とカメラが、第二章で論じたフェイクドキュメンタリーであればリアルとフェイクが、第三章で論じた「楽しさ」の映像論でいえばオリジナルとリメイクが、第四章・五章で論じたポストヒューマンの映像であればヒトとモノが、第六章で論じたポストシネフィリーであれば映画史的記憶とデジタルな忘却が、第七章で論じた現代アニメーションであれば実写と絵が、第八章で論じたインターフェイス的平面であれば視覚と触覚が、それぞれ相互に影響を与え、新たな映像文化を──ポストシネマを生み出していた」(epub p. 395)というまとめにつきるが、ここで重要なのは「劇や映画を作成していく過程描く」といったモキュメンタリー的なフィルムの流行をかなりうまく説明している。現代における動画文化を考えるうえで必読。

28

鴻野わか菜×本田晃子×上田洋子「社会主義住宅『コムナルカ』とはなんだったのか――ソ連人が描いた共同生活の夢」

https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20220106

コムナルカ、やばすぎ。まだ現代的な施工技術が発達していなかったため、都市への人口流入に対して住宅建築が全く追いつかず、すでに建てられていた居住用の建物を分割して住むしかなく、そのため4LDKになんの血縁もない家族が住むことになり、トイレも毎朝渋滞するという驚異的な居住空間が登場した。コムナルカが興味深いのは、ソ連ノスタルジーを喚起させるミームとなった側面があるという話も実に興味深かった。言われてみると、大昔に鑑賞した《一部屋半──あるいは祖国への感傷旅行 Полторы комнаты или Сентиментальное путешествие на родину》(2008)にも、出てきたあれはそういうことだったのか、と合点がいった。

27

百鬼夜行

ホーツーニェン

https://amzn.to/3HbcwIK

豊田市美術館で開催されたインスタレーション展示。陸軍中野学校、山下奉文、ビルマ竪琴、日本の植民地主義をサブカルチャー要素と組み合わせつつ、日本の昭和全体の歴史を総括する素晴らしい展示だった。これほど表現性高く、かつ、直接的に理解できるインスタレーションをこれまで一度も観たことがない。第二会場に相当する喜楽亭での「旅館のアポリア」の再現も、前回よりバージョンアップしていた。音圧もさることながら、本展示全体を貫く「のっぺらぼう」をすべての映像で展開し、小津映画のほとんど交換可能な家族の物語と戦争映像をつなげることで戦中と戦後を見事につなぎ、かつ、「誰でもない不気味なもの、すなわち、無」から、西谷修を導入する「旅館アポリア」自体の再解釈。インスタレーションは再現できないものなので、次回も万難を排して行きたい。

26

姫とホモソーシャル: 半信半疑のフェミニズム映画批評

鷲谷花

https://amzn.to/3XDFBSu

ここ最近読んだ映画批評本の中で読み物としての完成度が最も高いものだった。技術的な説明は極めて禁欲的にしつつも画面の着眼点には確かに映画についての様々な造形の深さを感じさせる。また、2010年後半・戦後・ホラーについてフェミニズムの観点からの語りを極めて説得力のあるかたちで援用していた。何よりも、フェミニズムっぽくなさ、というイメージがなぜ形作られ、それのわだかまりについて複雑な背景があることを丁寧にしかしまわりくどくなく整理する手際には瞠目した。ちなみに、私としては、『バーフバリ』についてこれほど見事に説明し、かつ、周囲の反応をこれほど納得させてくれた論評は存在しない。

25

世界は五反田から始まった

星野博美

https://amzn.to/3CUIiHp

第49回大佛次郎賞受賞。自分の中で戦争を描いた伝記的・自伝的なエッセイとしては、向田邦子が最も評価の高いものだったが、本作は自分史上最高に狭った初めてのものだった。自分の祖父の日記を読み解いていくスリリングな展開によって、五反田を中心に日本が戦争に向かっていく中で人々はどのように生活を送り、市民運動はどのように展開し、戦争は何をもたらしたのかを日記を読み解くことで次第に明らかになってく構成も抜群の読み応えを与えてくれる。オチも完璧だった。復興を思わせる記述から著者が戦争の終わりわ感じているくだりから、チラシを裏返すと空襲が続いたことがわかるどんでん返しを残し、最後まで読者を飽きさせなかった。一気呵成に読むことのできる本だった。

24

トランスジェンダーやフェミニズムをめぐる書籍、論者の台頭

2022年の紀伊国屋じんぶん大賞(https://store.kinokuniya.co.jp/event/jinbun2023/)の上位は次の通りだった。

第1位 高島鈴『布団の中から蜂起せよ―アナ-カ・フェミニズムのための断章』(https://amzn.to/3CX8NvR)

第2位 三木那由他『言葉の展望台』(https://amzn.to/3XFT1NQ)

第3位 千葉雅也『現代思想入門』(https://amzn.to/3WlkAv5)

第4位 ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題―議論は正義のために』(https://amzn.to/3QPXfQR)

また、第20位には『物語とトラウマ―クィア・フェミニズム批評の可能性』(https://amzn.to/3IT8FS5)が入っている。Peatixで投票する奇妙な投票なので、熱心に購買する消費者の声が反映されていることもあるし、自らがゲイやトランスであることを表明している論者が上位を占めているのは、業界の消費者構造がいよいよ決定的に変わったということだろう。なお、紀伊国屋じんぶん大賞は指標にはなるが、これが絶対というわけではない。それを踏まえると、昨年のケアのテーマの流行に加えて、トランスジェンダーやフェミニズムの本や論者の存在感がここ10年で最も目立った年だったといえる。

23

Queendom

Awich

ラップがうますぎて嫌になる。紹介は動画だが、アルバム自体が非常に高い完成度。“Link Up”は見事。CHICO CARLITOと同様に沖縄リズムを使いこなすがどちらかといえば、90-00のUSラップを日本語で再現している理知的なスタイルのほうが遥かに興味深い。沖縄生まれで、苗字も沖縄に多い浦崎である彼女は、沖縄のことが嫌いだが最も近い異国文化だったアメリカにあこがれて、留学、インディアナポリス大学でディプロマを取得。夫にも出会い、娘が生まれ、英語ができることでいくらでも仕事があるということで日本に移住しようとしていた矢先に夫がギャングの抗争に巻き込まれて死亡。こうした複雑な背景をもつawichが沖縄という地に生まれたことについてこのアルバムを聞くたび深く考えさせられる。

22

UTコレクション – 永井博

https://www.uniqlo.com/jp/ja/spl/ut-graphic-tees/hiroshi-nagai/men

永井博を着る?着るしかないでしょ!永井博といえば、1970年代後半から1980年代にかけて日本で流行したシティポッブ御用達のアートだが、本人のインタビューなどよんでいると、実はスーパーリアリズムとポップアートに由来しているそう。白黒写真を参考に色彩は自分の想像で埋めていくことで生まれた色調と、リアリスティックに見えつつ古賀春江のようなダリやキリコの影響を受けたようなくっきりとした輪郭線とオブジェの配置が、独特の世界観を作っている。それをTシャツで着るモダニズムで遊びたい。

21

39歳

JTBC、脚本ユ・ジャンナ、監督ユ・ヒョンヘ

https://www.netflix.com/jp/title/81568400

2020年放送の中国ドラマ『30女の思うこと 〜上海女子物語〜』のリメイク。注釈はいらない名俳優ソン・イェジン、『賢い医師生活』のチョン・ミド、『刑務所のルールブック-賢い監房生活-』などに出演する名脇役キム・ジヒョンが大の仲良し三人組が、40歳を目前にして一人がもう1年しか生きることができないとわかり、その死までの交流を丁寧に描く作品。毎回なんか泣いた。人は死ぬことがわかっていても、人間関係の問題が解決するわけではなく、少しずつ周囲と死んでいく自分を変えていくプロセス、そして、「誰もが望んでいた一番いい状態」になった瞬間に死んでいく悲劇を貫徹する脚本の丁寧なつくりは何度も見返したいのだが、見返すたびに涙が流れるので勉強にならない。ちなみに、みんな酒ばっか飲んでるのが良い。

20

FIRST SLAM DANK

井上雄彦

https://slamdunk-movie.jp/

3Dアニメの表現史に確実に残ったアニメーション。モーションキャプチャーによって試合に参加する全員が常に動いている状態を表現しつつ、試合の展開のひとつひとつに回想を挿入することで、緩急のつけた演出も鑑賞者を飽きさせることはなかった。白眉だったのは、最後の数秒のシーンだけ、3Dではなく手書きの線と最小限色彩で表現されるシーン。これが最後におかれることで、3Dアニメーションができることと線画のアニメーションのできることをそれぞれ象徴的に示していた。正直、井上雄彦が監督をするので演出面ではほぼ期待していなかったがあそこまでできるのには本当に驚いた。

19

火星人にさよなら

鈴木雅雄

http://www.suiseisha.net/blog/?p=16740

James Webb宇宙望遠鏡が未来のイメージをつくりかえていくのであれば、こちらは過去に宇宙を夢見た人々の想像力のあり方を丁寧に読み解くことで、文学の正史では語ることのできない作家たちに一つの視座をもうけた本。フランス文学研究史上でもほぼ類を見ない本となっている。というのも、一般的に、フランス文学で天体をテーマにする場合、ドゥフォントネーとカミーユ・フラマリオンを中心的に取り上げるが、よりマイナーなドゥフォントネーのみが取り上げられ、後者のフラマリオンは時々ふれられるだけで、ほとんどでて来ない。そのかわり、後半は火星人の幽霊を降ろした霊媒師について語られる。この本が与えてくれる勇気は、一つの理論と一つの視座と一つの信念があれば、どれだけマイナーでもきちんと論じることができるのである。

18

【ルームツアー】世界一斬新な「1億円マイホーム」を徹底紹介【注文住宅】

吉田製作所

人が家を一から建てることはとても難しい。とくに、川沿いに面した場所では、GLの設定に慎重さを期す必要がある。しかし、今回、不幸にも、GLは一般的な増水対策に合わせて注文住宅の特性を考えずに作られてしまった。こうして、車を搬入することを想定して建築されたスタジオがつくられてしまい、車を格納することを想定すると、30cmにも及ぶ段差と、公道からの乗り入れのためスロープもつけられない。こうして、ハウスメーカーとの幾度もの交渉がなされ、スタジオの一部解体費用を全額ハウスメーカー持ちにすることで決着となった。

まるでドラマを観ているかのような展開だったこの「自称一億円」注文住宅のルームツアーは1時間近くあるものの、その物語を背景があったため、いやまして魅力的なものとなった。「人生が商売道具」という古諺もあるが、ここまでものを見せてくれた吉田製作所は素晴らしかった。

17

映像クリエイターのための完全独学マニュアル

リュドック (著) 坂本千春 (翻訳)

https://amzn.to/3koBHPg

この本は本当にやばい。映画を撮影したいと思っている人のすべてに基礎知識をあますところなく与えてくれる。映画教本ではだいたいカメラのレンズやISO感度であるとか、フレームレートとかで適当な説明になるだけだが、この本はそれらについても適切に説明しつつ、ライティング、マイク、カメラのアクセサリーの特徴、撮影のさいの注意点、代表的なカットをとるときのアドバイスなど、これ以上ないくらい丁寧に説明されている。しかも、実践を前提にしているので、たとえばカット割りの説明では、まずシナリオのカット割り表の作成からはじまり、代表的なカット割りを撮影する際のカメラに対する俳優の立ち位置まで、わかりやすく教えてくれる。映画がどのように成り立っているを知るためにもこの一冊が重要になるし、3Dゲーム作成でも参考になるところが多いだろう。

16

スパイダーマン ノーウェイ・ホーム

Jon Watts

みんなに忘れられても責任をとるというヒーローのあり方を提示したのも大変よかった。ただし、これを提示するための道具が多すぎるし複雑すぎる。MCUの中ではMCUそれ自体を批評できるような凄まじい強度をもっているが、いわばこれは「ぶっちゃけ一回きり」の手法であり、奇跡みたいなもの。この解決で、Spider-Verseというコミックの筋を援用しつつ、『スパイダーマン』の映画をまとめあげたのは本当に素晴らしいことだけど、他の映画にどう応用するのかが気になる。ここまで個別の文脈に依存した作品は、多分物語や手法ではなくて、個別のシーンの引用とかがなされていて、同時代で見ている私たちがすぐに解釈できることが10年くらいでもう通じないものになっているかもしれない。個別には素晴らしいが、これに影響を受けた作品があったとして、どのように独自性をだすことができるか気になる。

15

Ben Bernanke、Douglas Diamond、Philip Dybvigのノーベル経済学賞受賞

https://www.nobelprize.org/prizes/economic-sciences/2022/press-release/

今年のノーベル経済学賞は、いろいろ考えさせられた。経済と文化が深いかかわりをもつ以上、経済学の学問の流行はもっときちんと追ってきたいのだが、なかなか自分だけでは難しい。とはいえ、今回はクルーグマンのこの記事(https://econ101.jp/krugmans-winning-nobel-prize/)すべてがまとまっているので、まずはこのノーベル賞の深い意義を理解してほしい。これを読んだうえで、ダイアモンド=ディビッグ・モデルが2008年の金融危機に適用されたちに思いを馳せると、金融機関に対して批判的なコンテンツを相対化できるし(ウォールストリートが世界を支配しているという幻想など)、その中でFRBに入ったバーナンキ研究者として対したことがないかのよう見るべきではなく、むしろ、その後のユーロ危機やイギリスの債券市場の混戦など、今でも通じるモデルと対応策のヒントが詰まっている。そしてまた同時に、2010年代中頃までの表象を規定していた社会的背景を知るための重要なマイルストーンなのだ。

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ミュージカルの歴史 なぜ突然歌いだすのか

宮本直美

https://amzn.to/3CSOKic

日本でのミュージカル入門書としてひとまずの決定版がでたといえる。日本では、宝塚・東宝・劇団四季といったようにメジャーレーベルでのミュージカルという娯楽が広く受け入れられている一方で、「では、ミュージカルとは何か」という質問にうまく答えられる人は少ない。とくに、「歌と踊りだけで進めばいいのに、途中で普通の演劇をして、なぜ突然歌いだすの」という質問にどれだけの人が答えられるだろうか。その歴史背景から音楽と演劇が近代においてどういう娯楽として成立していったかというのを丁寧にまとめている。

なお、日本でカルチャーを語る人は、なぜか宝塚についてはよく語るが東宝のミュージカルについて語る人は少なく、もっというと韓国ミュージカルが日本のミュージカル劇団員によって小規模に公開されていることもあまり知られていない。もっというと、ミュージカルの部活というのは日本で全国大会ができるくらいに存在しているということはあまり知られていないのかもしれない。私もたまたま、知り合ったミュージカルのライターに日本でのミュージカル事情を教わるまで日本のそうしたミュージカル文化の存在を知らなかった。このように、日本で確実に存在しているみミュージカル文化を知るためにも、あるいはそもそもミュージカルという演劇形式についてよく知らない人にも、おすすめしたい傑作である。

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【森下豊美×松下哲也】庵野秀明のアニメはどこで生まれたのか?——1960〜80年代個人制作アニメーションと前衛

松下哲也のアート講釈日本地

https://shirasu.io/t/nipponchi/c/nipponchi/p/20220107182032

自らもアニメーション作品を制作し、個人制作アニメーション研究で非常に有名な森下豊美が惜しみなく自分の知見を披露し、庵野秀明のアニメーション表現がどのように形成されていったのかを示してくれる。1960年代の草月アートセンターは少し個人アニメーションに関心があれば名前をしる機会も多いだろうが、その流れをくんで庵野秀明が所属していた「自主アニメ制作グループSHADO」にまでつながっていることは知られていないだろう。また、庵野が20歳前後の1980年代に、1970年代でアヌシー国際アニメーションに入選していた世代が前衛活動を国内で活発に繰り広げており、もともとアマチュアアニメーターだった庵野はこうした界隈に出入りしていたのだ。庵野作品を常に社会評論や哲学的な評論に回収しがちな人々にとってみれば、刮目してみるしかない配信である。

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エミューちゃんと二人暮らし

砂漠

https://www.youtube.com/@emu_chan

2022年に開設して、40本の動画しか公開していないが、16万人登録を超えている驚異のチャンネル(2022年12月時点)。東京郊外の古い一軒家で女性会社員がエミューを飼っていて、エミューを擬人化するかたちでその生活を面白おかしく説明する。ときおり、どうしてこんな生活をしているのか自分のバックグラウンドストーリーを語るが、そちらはまっとうすぎてつまらない。とにかくすごいには、エミューが永遠の二歳児のように振る舞いつづけるのをたんたん見せること。すべて散らかす、動き回る、遊んでいるかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、哺乳類のようなコミュニケーションはできない。たんに砂漠氏がそう思っているだけ。人間は区別できていないが刷り込みで「ニンゲンハ、ワタシノナカマ」みたいな認識はしているらしい。ちなみに、エミューは長い時間お留守番ができるので、普通の二歳児よりかは通勤などがしやすい。

女性が子育て奮闘、広くは犬猫エッセイは世の中にあふれている。たいていの場合、紆余曲折あるけれど少しづつ成長して感動、みたいなオチなのだが、そういうことも絶対におきない。エミューは脳が小さいためほぼ新しいことは学ばないし、食べ物の好き嫌いも激しく、野生ではおそらく死んでいただろう個体だ。それが砂漠氏の超人的努力によってなんとかなっている。

そうした努力をみていると、いつか生活が破綻しそうな気もするのだが、「エミューに生活を合わせる」というソリューションによってすべてを解決していてすごい。筋肉じゃなくてエミューがソリューション。

ちなみに、鳥なのでもちろんトイレの躾はいっさいできない。家の中、車の中、あらゆるところで糞尿をまきちらすが、ユーモアをもって対応する砂漠氏に感動をおぼえる。

エミューちゃんかわいい?

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Yellow

Tegan and Sara

Coldplayが2000年に“Look at the stars/look how they shine for you And everything you do/ yeah they were all yellow”と歌った。そのミュージックビデオが歴史に名を残しているのは、朝日のが登る中をフレームレート40fps程度にしながら海岸をずっと歩くChris Martinを移し、奇妙な映像空間を作り、決して真似できないが誰もが一度はやってみたい画面作りをしたからだ。そして、今回とうとうTegan ans Saraがまったく同じ曲名で同じコンセプトでミュージックビデオを撮影した。今回二人は、“This bruise ain’t black, it’s yellow”と歌い上げたが、これは驚異的である。かつて愛する人を星にたとえるための色が、傷つけ合うふたりの深くはないが浅くもない怪我として書き換えられている。だからこそ、このミュージックビデオは左から右にパンをして、Martinが歩いてきた方向に向かって進んでいく。かつての“Yellow”が左から右に向けてパンをして空と海を映して終わった続きを始めるためである。22年という長い時間をかけてようやく“Yellow”はミームとして完成し、自由になったのだ。

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ブラックパンサーII:ワカンダフォーエバー

ライアン・クーグラー

https://marvel.disney.co.jp/movie/blackpanther-wf

この配信で2時間くらい詳細を話しているので気になる方はどうぞ。 https://youtu.be/39e6MVdadqI

9

シスターズ

脚本チョン・ソギョン、監督キム・ヒウォン

https://www.netflix.com/jp/title/81610895

毎年なからず一作は手堅いドラマを提供する韓国ドラマの中でも今年はやはり、『シスターズ』が最も優れていたのは間違いないだろう。離散していく家族、女性の連帯、グローバルな犯罪、ベトナム戦争の影、巨大企業の陰謀、莫大な遺産、などシリアス韓国ドラマにつきものの題材を完全にレベルアップさせていた。また、ありがちなヒーロー像ではなく、主人公のひとりが重度のアルコール中毒である。ちなみに、韓国ドラマではジャーナリズムはいつも信頼が寄せられる対象ではないのだが、今回もその例にならっているので、そのアルコール中毒者がジャーナリストである。大抵の場合、シリアスな韓国ドラマは海外文学を参照としているが、今回は、『嵐が丘』のヒースクリフの復讐劇を少しなぞっているが、ヒースクリフを女性にすることで何がおきるのか、というを極めて緻密に計算して脚本が作られている。圧巻の12話。

8

秘密

劇団普通

http://gekidan-futsu.com/works/himitsu/

佐藤佐吉賞2022で、優秀主演俳優賞(安川まり)・優秀作品賞・優秀脚本賞を総なめ。実際、とてもおもしろかった。舞台はほぼ家のリビングというミニマルな構成だが、2つの家族のそれぞれの話のなかには、ごく個人的な会話のはずなのに、社会的経済的諸条件によって規定されているポイントだけが抽出され、その中には小さいが確実に人生のある過程では不条理にならざるをえないことが描かれていた。ミニマルで抑制のきいた演技は静かに進んでいくのだが、ストーリーがきちんと頭の中に残っていく。「病室」も素晴らしい演劇だったが、「秘密」は間違いなく、演出家・脚本家を務めた石黒麻衣の傑作だろう。

7

KOKOPELLI

山下Topo洋平

https://topoyohei.shop/items/630691fcef80851cd6bc0a9a

驚異的なアルバム。何も考えずに聞くと、ポップなインストにしか聞こえないが、「流星群」からしてリズムがカルナバル、そのほかワイニョなど、フォルクローレの世界でできている。もちろん、リズムとしてはポップソングのものが多いが、「なーんか民族音楽っぽいな」といったように、グルーブは南米フォルクローレを残しつつ、リズムだけは違うものを採用している。なんなんだこれ。

そもそも南米フォルクローレは、ポストコロニアリズムと深く関係する重要な音楽ジャンルであり、例えば、その複雑な文化交流でうまれてきたラテン・ヒップホップが独特のリズムをもっているのも、南米フォルクローレと名付けられているスペイン語圏音楽に由来してる(ちなみに、ブラジルのポップスに相当するセルタネージョはだいぶノリが違う)。

そんなわけで、現代日本の民族音楽家の中でも際立って重要な仕事をしていることが明らかになったアルバム。知られていないのでバズらない典型だが、1万人単位の人がフォローすべきだと思う。

6

リコリス・リコイル

原作 Spider Lily/原案 アサウラ/監督 足立慎吾

https://lycoris-recoil.com

米原将磨が参加している配信チャンネルTERECOができるきっかけになったアニメ。ここで散々語っているので、気になった方はどうぞ。

5

ぼっち・ざ・ろっく

斎藤圭一郎(監督)

https://bocchi.rocks

『けいおん!』ぶりにギターの売れたアニメ。というのは、冗談として、原作者らの2010年代をJ-Rockの側から歴史化しようとする試みは、『まんがタイムきらら』それ自体についての批評ともなり、大きく成功したと言えよう。『まんがタイムきらら』の4コマでヒットしたものの多くは多かれ少なかれ学園ものである。そして、日本では理由はどうあれ、学園ものはひとつの一大コンテンツジャンルとして戦後長らく支配的ではあり、「きらら」系マンガの多くもその例にもれない。しかし、『ぼっち・ざ・ろっく』が突破しているのは、「趣味人ではあるがコミュニケーション能力は著しく低い」キャラクター造形を設定し、学校という場所から排除される構造をつくり(学内にぼっちがつどう部活のようなものもてぎない)、学校の外で能力を活かしたコミュニティをつくるという点である。この方法によって、モデルとなっている学校ではなく、下北沢シェルターに人々が向かうような外部のアジールをつくり、ごくごく一般的な成長ストーリーに仕立てている。かつて、「きらら」は日常系を生み出す根拠地とみなされていたが、近年最大の成功をおさめたといえる『ぼっち・ざ・ろっく』は王道ストーリーものであり、ある意味では、日常系は前衛的ではあるが、極めて内向きの作品だったということを示していることを改めて示した。

アニメーションについても、「後藤ひとり」の妄想という設定のために自由に表現されている点が心地よく、ラストの文化祭ライブのシーンについても、これまでのアニメで描かれてきた文化祭ライブの表現をとりいれつつ、静止画のカット割りに意味を作り、それぞれの芝居についてもすべて意味があるような表現がなされている点も、一つの到達点だった。楽曲面でも、本当にいそうなJ-Rockのイミテーション曲に少しずつ独自性をだしている曲がよかった。ちなみに、ヒグチアチが樋口愛名義で作詞している「星座になれたら」は歌詞にBUMP OF CHICKEN、曲調はthe Band apartをオマージュしていて私の好み。以上より、2022年に最も優れたアニメーションといえる。

4

中国における技術への問い 宇宙技芸試論

https://amzn.to/3D3FTu6

ユク・ホイ著、伊勢康平訳

私は編集協力してます。英語・フランス語・ドイツ語・中国語(ドイツ語についてはとくに資格もないので単語とハイデガーの訳語を一部みたぐらい)について軽くみた程度なので、大したことはしていません。訳語も綿密な議論を経て練られていたので、サジェストもほぼせず。翻訳者の伊勢さんは本当にすごい人で、「あーそう訳すのか勉強になるなー」という感じでゲラを読むのが楽しかった。仕事のあとで時間とってやったので、一週間ぐらい毎日朝3時くらいまでやってたのがいい思い出。内容については、こんどqiitaで紹介しようと思う。重要な点としては、カルフォルニア・イデオロギーとは別の可能性を考えるというということ。つまり、技術って「自由」の問題と関係していることが多いけど、「それって本当に技術の本質だっけ」ということなどを改めて問わせることができる。

3

It’s not too late for me

Beowulf

聞くモルヒネ。リンクは表題作。今年やっと2010年代後半に発表し続けたアルバムが出た。グリッチの種類、アニメからのサンプリング、ジャズピアノを使った伴奏など、lo-fi hiphopのジャンルに属すのは間違いないのだが、何かが違う。どこかでメジャーにならなくとも、Beowulfインスパイアの曲のジャンルがいつかできるのかもしれない。いまだにどう語ることで位置付けられるのかはわからないが、圧倒的に強い印象を残す。

2

弁護士はウ・ヨンウ

脚本 ムン・ジウォン/演出 ユ・インシク

https://www.netflix.com/jp/title/81518991

韓国ドラマはざっくり、歴史ものと現代ものに別れる。その後、現代ものの最近の流行はシリアス。去年73位だった「ヴィンツェンツォ」もそうだし、韓国映画もシリアスなものが評価されている。ところが、本作でもシリアス要素はなくはないが、あまりない。というのも、このドラマはたんにラブコメだから。本作がここまでランキングが高いのは、もう二度と『サイコでも大丈夫』のような作品はでないだろうと思っていたら、似た性格の障害者主人公を出しつつ、『サイコでも大丈夫』の弱点をすべて更新できたため。『サイコでも大丈夫』の弱点は、「戯画化されたサイコパス表現の踏襲にともなう新規性のなさと安直さ」「発達障害の兄に抑圧された主人公に対して、結局メンタルに問題のある女性の介助にスライドする構図のわかりやすさと安直さ」「恋愛によって障害者の介助者の負担が消えてしまうことの問題」など。ラブコメを採用することでサイコパス表象が消され、障害者の負担という問題は解決されないまま終わる責任感、すごい。なお、韓国ドラマのラブコメ様式が割とでていて、理解できないと退屈になってしまうところが多いが、ラブコメをたくさんみて様式美を理解するか、飛ばし見で対応するとよい。

ちなみに、それでも問題点はあり、「そもそもここまで来て恋愛によって何かを解決する必要があるのだろうか」や、「テンプル・グランディンの動物愛護を参考にクジラ保護運動をしているが、物語の中では男性にとってのストレスとしてしか機能しておらず、伏線にしないのはどうなのか、そもそも発達障害者が環境保護活動をするステレオタイプの助長と、法律と政治的なものの結びつきがあたかもないようにしているためにその代補して環境保護しているだけでは」など、細かいところが気になるが、チェジュ島回でのパク・ウンビンが歌う「チェジュ島の青い夜」の歌はまじでいいし、すべてをクリアする作品なんてないですよね。

1

BLUE IN BEATS

舐達麻

BACHLOGICのMIX史を考えるうえでも極めて重要。また、Ingenious DJ MAKINOのもとの“Blue in Green”のビートも大変素晴らしいが、BACHLOGICのMIXによってもとの曲よりキックの低い音の深さや、トランペットの挿入の音質がクリアになり、途中に入る、装飾音的なサンプリング音源の使用もカットされていて瞠目。

Ingenious DJ MAKINOはthe BOSSの“REMEMBER IN LAST DECEMBER”にも曲を提供しているように、もともと界隈では有名人。2000年代のnujabes以後の影響下で、どのように表現するかでかなり独自の路線をだせていた。これをdigった人はすごい。

よく、nujabesの名前がでてくるので整理すると、ようはlo-fiヒップホップと呼ばれているジャンルの先駆みたいに位置づけられる。lo-wiよりずっと拍数が多いので、lo-fi自体ではないので注意。では、どこに先駆性があるかというと、いわば「チル」感を感じるようなメロディラインやサンプリングを確立したこと。

面白いのは、このnujabes影響は日本では独自の発展を遂げて、10年代なかばにはDJ OKAWARIとか、Green Assassin Dollar/SAC/7 seedsなどなど、様々な「チル」がでてきて、それがなぜかギャングスタラップなどサグ系と結びついていった。ゼロ年代を通じての発展なので、正確な歴史については今後の研究を待ちたい。

今回の楽曲では、舐達麻の歌詞のクオリティも高い。BADASAIKUSHが最初と最後にリリックを書いている構成は代表作「BUDS MONTAGE」を筆頭に、他の曲でもよく見られるが、今回はいつもより数小節ぶん長く、1分近く長い曲になっている。「BUDS MONTAGE」より内省の多い表現がおおくなったぶんがそのまま曲の長さに反映されていると考えられるが、全体をとおしてみるとメタファーと思索の釣り合いがとれているので読みごたえのある詩となっている。また思索が深くなったぶんだけ、「たとえ1人になり 誰も理解しなくなり見失う時に それが日々しかし俺はこの世1人隠れる必要無し」といったようにパンチラインの長文化が起きている。舐達麻(というかBADSAIKUSH)研究的には気になったポイント。

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米原将磨

「カルチャーお白洲」お手紙回2022年11月(連載第4回)

さやわかさん、カルチャーお白州民のみなさま、こんかんるちゃ。でぃおんたむと申し上げます。

8月20日に開催されました「正々堂々秘密の大集会」にて、さやわかさんにお送りしたお手紙で連載の予告をいたしました。8月から10月にかけて3回の連載をさせていただきましたが、今回が最終回に……、なりませんでした。連載って怖いですね。もともとの3万字のお手紙は加筆修正を重ねてとっくに4万字近くに膨れあがり、分割して体裁を整え、それをおたよりにしています。

いまやこの「おたより連載」は、『新世紀エヴァンゲリオン』にたとえることができるかもしれません。今回はTV版最終回「世界の中心でアイを叫んだけもの」で、次回は劇場版「Air/まごころを君に」となります。などと、カッコをつけてたとえてみせたものの、自分で言っておいてなんですが、「その構成で大丈夫なの……、まさか「新劇場版」が始まってしまうの……、おたよりの連載に10年かけるなんて嫌だ……」、と不安になってきましたが、がんばります。

毎回長いお手紙のため、いつもどおり前回の振り返りをさせていただきます。

連載第1回では、webゲンロンで連載中の「愛について──符合の現代文化論」の要約をし、ゼロ年代批評で積み残された課題に取り組むさやわかさんの継続的な批評行為について、その文脈を明確にしました。連載第2回では、文学フリマとさやわかさんのことを知った頃のことをお話いたしました。2010年代初頭での文学フリマの様子について簡単にまとめて、その頃の批評シーンを四皇や七武海になぞらえて説明しました。ちなみに、さやわかさんは四皇でした。連載第3回では、私が東浩紀さんに話かけられてびくびくしたり、村上裕一さんの著作が批評シーンの外では、今やまったく読まれていないことを「閉鎖性」という観点でまとめて説明しました。全文はこちらでお読みいただけます。また、1回目と2回目はさかのぼって読むことができるので、リンク先にアクセスしていただけますと幸いです。

では、今回のお話にはいらせていただきます。以下、8447文字。さやわかさん、どうぞよろしくお願いいたします。

前回、私はゼロ年代の批評シーンの消滅について4つの観点から整理すると予告させていただきました。(1)「閉鎖性」を除く3つの論点は、(2)脆弱性・(3)依存性・(4)時代性でした。今回は(2)脆弱性についてお話させていただけますと幸いです。

(2)脆弱性

脆弱性については、「低い参入障壁」・「生計を立てる」・「個人」の3つについて、順にお話したいと思います。

「低い参入障壁」について考えるうえで、「ゼロアカ」という言葉についてまず振り返りたいと思います。この言葉が、脆弱性を説明するのにうってつけのためです。ゼロアカは「ゼロ年代のアカデミズム」という言葉を縮めたものとされていますが、東浩紀さんは、「アカデミズムを「ゼロ」にしてしまう、リセットしてしまう」(講談社BOX編、『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦』、2009年、543頁)、それが「ゼロアカ」だったと総括しました。東さんはそれまでの批評の価値観がゼロアカ道場の第4関門の中で瓦解していったことを説明するときにこの言葉を使うのですが、皮肉なことに私は「アカデミズムがゼロ」なのは、ある程度の価値があるものだと思っています。なぜかというと、後からやってくる世代からしてみると、それは参入障壁が低いことを意味するからです。

私はちょうどゼロアカ道場が終わった頃、高校生になったばかりでしたが、この時からゼロアカ道場とは関係なく批評っぽいことをしていました。とはいえ、そもそも高校生なんて無知が全裸に靴だけ履いて歩いているようなものなので、誰かがちゃんと服を着せてあげないといけません。当時は、参入障壁の低い同人誌にやってきたルーキーに対して、編集者が、「とりあえず全裸はだめだから布をかぶろう」、ということでちゃんと服を着せてくれました。それは素晴らしいことでした。しかし、当時をふりかえってみると、この参照障壁の低さは、かえって大きな弱点をかかえていました。流動性が高すぎて、自分の発言に責任を持つことがその構造上できないため、共同体としての結束やお互いの批評への参照関係が生まれず「最近本になった誰それの批評」についてばかり話している、脆弱な集団だったのです。

たとえば、編集がついてくれているのであれば、過激な言い回しや極度な内輪ネタといった点は直していただけます。外にだしても大丈夫な文章をつくるべく、責任をいっしょに負ってくれる、というわけです。加えて、論者どうしがお互いに書いたものについて感想を言い合える場をつくることで、徐々に自分の共同体の中での立ち位置と外に出ていくときのアイデンティティを確保していきます。2010年代にお世話になった編集の方は本当に偉大でした。今でも感謝しています。しかし、それが2010年代では、多くの場合に保たれていたとは言えませんでした。

ところで、一般的にいうと、このように集団内で配慮していくことができるのは、いい職場でも同じですよね。いい職場ほど職員どうしで会話しています。仕事をどうすればもっとうまく進められるか、段取りでミスがあれば相手を助けてあげて、自分も誰かに助けられる。外のお客さんとの打ち合わせの前に、何をどう話してどう話を進めていくか自分たちの情報を整理してどの立場で進めていくか決める。もしも、文化について語る批評という仕事をしている会社があるとすれば、きっとそんな職場になるでしょう。あれ……、身近なところでいうと、これって「ひらめき☆マンガ教室」ですよね。だから、「ひら☆マン」からは素晴らしいマンガ家が出てくるんだな、と実感を込めて私は言えます。というわけで由田果さん、『少年サンデー』での連載、あらためておめでとうございます!みなさん、『君と悪いことがしたい』、要チェックですぞ。

ところで、「ひら☆マン」の例を出したのは「脆弱ではない集団」を示すということ以外に、もう一つの理由があります。それは、「ゼロアカ道場」に由来するゼロ年代批評の性質を示す、大きな違いがあるからです。ゼロ年代批評は、最初はゼロ年代のアカデミズムをつくるべく大学とは違う批評の書き手を育てようとしました。しかし、回を重ねるごとに、「ゼロアカ道場」は、2010年代末からの、SNSのアテンションを集めたものが勝ちというゲームを先取りした姿になっていき、そこに参加していた人々自身が批評を続けることを困難にしました。確かに、「ゼロアカ道場」は文芸批評などといった既存のグループとは違う批評のクラスタをつくりあげるきっかけづくりにはなりました。しかし、継続するうえで重要な、目標を数値で管理するとか、どういうコアメンバーが必要で、何のためにやるのかとか、雑誌で連載を持ったあとの人脈紹介といったように、グループを存続するための考えは批評の書き手側にはないのでした。東さんの書いていた、「アカデミズムを「ゼロ」にしてしまう、リセットしてしまう」という嘆きにこめられていたことの意味は今から振り返るとこのことを指し示すことにもなっていたように見えます。一方で、「ひら☆マン」では、その逆がすべて用意されています。目標を数値で管理することで仕事量をコントロールする方法も伝授し、アシスタントを雇うことになった場合にはどういう組織構成が必要で、雑誌で連載につながるまでの人脈紹介まですべて用意されています。自分で書いていて思うのですが、すごいですね、「ひら☆マン」。

また、「ひら☆マン」は他の点でもゼロ年代批評の影響をうけたクラスタとはわかりやすい違いがあります。それは、ゼロ年代批評的なクラスタは、(1)閉鎖性で説明したような理由で、意図的ではないにせよ、あまり人を受け入れる雰囲気がないところが少々あった点です。これは、最初に説明したように、参入障壁が低いために、どんどんと新人が来るには来るのですが、閉鎖的な場に嫌気が差してどんどん出ていってしまうのです。すると、次第に流動性のない閉鎖的な場になってきます。

そして、閉鎖的な場というのは、自分たちがしていた本来の仕事を忘れて自分の立ち位置を確保しようと躍起になることがあります。ざっくりいって権力闘争というやつですね。権力闘争はやっている本人からしてみるととても真剣なので周囲もあまり注意できません。また、そもそもゼロ年代批評にコミットして何か利益があるというわけでもないので当然のことながら、関わるのも面倒くさくて人も離れていきます。見事な悪循環というわけです。もちろん、私にしても善人ではないので、この当時は閉鎖的な態度をとっていたかもしれません。このお手紙を書く中でいろいろ思い出しました。いまとなっては自分についても多くを反省しています。

さて、ここまでは「低い参入障壁」についてお話してきました。次に、「生計を立てること」についてお話しましょう。

言い換えると、経済的な理由で書き手がいなくなっていった、ということです。ゼロ年代批評やその後の2010年代批評シーンの蓋を開けてみると、10年代初頭にでてきた書き手は4年から6年の大学生活を経て就職すると書き手をやめてしまい、「低い参入障壁」ゆえの高い流動性のために、いなくなったあとにその場をうめる新人がおらず、10年代の折返し時点で「あれ、あなたずっといるよね」という人しかいないような状態になっていました。そして、その就職先も驚くべきことに、アカデミズムやアカデミズムに近い編集者への就職、というのが割とあったのです。ゼロ年代「以後」のアカデミズムという意味での「ゼロアカ」は確かに成立していたというわけだったのです。自分でそのことをちゃんと責任をもって引き受けてくれればいいのですが、ゼロアカの影響なしに自分が今のような仕事ができているかのように振る舞い、自分の中にあるはずの歴史的事実は記憶からなかったことになっているようです。

なお、「生計を立てる」ために働いていると、同人誌の編集者も、会社の中で役職が徐々にあがって中堅になり、書き手だけではなく、最初の頃と同等のクオリティで同人誌を続けていくことがだんだんと難しくなっていきました。だからこそ、集団体制をとって引き継いでもらうとか、どうすれば効率的に継続できるか、ということを考えるとよいのですが、それはあとからいくらでも言えてしまう話かもしれません。10年代中頃までは、いまみたいにSNSをベースとした有料メディアサービスがどんどんでてきて、ここまでメディアの中心になり、ましてやマネタイズできるとは予期できませんでしたし、予期できていたとしても、みんな自己犠牲と熱意で同人誌を作っていたので、継続のために投資をする時間もなかったでしょうから、あまり当時の人をせめることはできません。私はいまふつうに働きながら夜なべしておたよりを書き上げていますが(冗談ですよ!)、そんな中であんなクオリティの高い同人誌をお作りになっていた先人のみなさまには畏怖の念を抱くばかりです。とはいえ、事実として、書き手の確保も、発行元の確保も困難になっていき、それについて有効な解決策があまりなく、編集の外注、雑誌を薄く廉価なものにする、外部に査読者のような立場の人をおいて作成する委員会方式といった事務的な解決策以外はあまりなかったのでした。

ところで、これまで集団の性質の話ばかりしてきて、集団の構成員の話をしてきませんでした。実際のところ、批評クラスタを維持するうえでの、一番の脆弱性とは、この構成員、つまりは個人です。たとえ話をしましょう。それなりの規模の会社で働いている人はよくセキュリティ講習を受けると思うのですが、そこでは大抵の場合、個人のふとした行動がいかに会社の情報漏洩のリスクになるかを教わると思います。じっさい、クラウドサービスを利用したファイルシェアを採用していない会社はメールで添付ファイルを開かせ放題なので、マルウェア感染を防ぐことはきわめて難しいです。このように、組織のセキュリティリスク、すなわち脆弱性は個人です。より限定して言うと、脆弱性とは、心のことです。

これまで、当時、「ゼロアカ道場」からその10歳下までの範囲で批評をやっていた人々をルーキーとワンピースになぞらえて呼んできました。しかし、よく考えると、ワンピースのルーキーたちは海賊団を組むほどの組織力や人望をあの年齢でもっているわけですから、大したものです。四皇や七武海は確かな立場があったのに対して、ルーキーたち、は『ワンピース』に比べると極めて脆弱な人々でした。今回は、最後に、私にとって思い出深い人の話をしたいと思います。

90年代生まれで批評同人誌のリーダーになった方が何人かいました。例えば、私は、大学サークルに所属していたので、そのサークルの機関誌を批評同人誌化するといったことによって、批評同人誌を立ち上げるコスト、人件費を削減し、批評同人誌を発行していました。批評同人誌を継続するうえで、これら2つのコストは一番お金と時間がかかりますから、合理的な選択でした。なので、私は自分のことをルーキーとか言ってましたが、ワンピース的には、フーシャ村のマキノのような酒場の店主に近いといっていいでしょう。しかし、『アニメルカ』にはほぼ毎年関わっていたため、かろうじてルーキーの面目を保っていました。

とはいえ、そうしたコストを度外視する若いルーキーがいました。詳しいことは書かない、というか、書けないので少し曖昧にします。そのルーキーは2010年代初期に流行した「合法ハーブ」の使い手で、ある種の精神疾患を抱えていました。キャラクターでたとえると、MCU版スパイダーマンのM.J役で有名になったゼンデイヤが演じる、テレビドラマ『ユーフォリア』のルー・ベネットみたいな感じです。ちなみに、ルーの日本語声優は高垣彩陽です。というわけで、仮にこのルーキーの名前をルーとしましょう。なお、実際の性別についてはここでは触れないでおきます。

2013年の春先のことだったと思います。ルーキーで一番の実力者だったエヌ氏に私は声をかけられ、現在は書評家として有名な積読主義者が主催する読書会に誘われました。読んだ本はアラン・バディウの『ドゥルーズ 存在の喧騒』というささやかな哲学書でした。まだあまりコミュニケーションの適切なやり方をわかっていなかった私は、会場のカフェでとなりに座っていても、本人かどうか確認すればいいのに声をかけられず、「たぶんここにいる人がエヌ氏と積読主義者なんだけど、こっちから声かけるなんて無理」というわけで時間をすぎてもなかなか声をかけられずにいました。エヌ氏が時間になると、おもむろに本を取り出したのを見て、横からぬっと出ていき、「ドーモ」とニンジャスレイヤーの登場人物のように声をかけました。エヌ氏に、「え、そこにいたんだったら、先に言ってよ」と苦笑いされました。

読書会が少しずつ進んでいき、1時間した頃でしょうか。小休憩をとろうという時に、向こうから痩せこけた頬の人がやってきて、エヌ氏に何かを言って、私に向かって「ルーです」と挨拶し、空いている席に座りました。ルーは、少しうつろな目をしていました。ルーは、鞄からおもむろに化粧品クリームが入っているような寸胴な緑色のガラスの容器を取り出しました。もう一度鞄をごそごそと探ると、細長い銀色の棒を取り出しました。銀色の棒の尖端はよくみるとスプーン状になっていて、何かをすくえるようになっていました。それは薬匙でした。ルーは、ルーティンワークであるかのように器用に蓋をあけてみせると、容器に薬匙をさしこみ、肌理の細かい白い粉をすくっていました。ルーは天井をみあげて、ひょいっと薬匙をひねり、口の中に粉を入れました。顔をこちらに向けると、目をぱちくりとしばたかせました。ルーは同じことをもう一度繰り返しました。

「色がはっきり見えるようになるんだよね。これやってアイマス観るとやばいよ」

ルーは容器を持ち上げると、英語で書かれたラベルが見えるように私の目の前にかかげてきました。

「For not human consumption」

「え?」と私は聞き返しました。

「人間用じゃないんだよね」

そう言うと、ルーはケタケタと笑いました。私たちはそうやって出会いました。ダークウェブではなく表のネット通販で買える薬品だそうでした。また、当時は合法ハーブが流行しており、私も一通りの知識を集めていたのでそれ自体で印象が悪くなることはありませんでした。といっても、調べた結果として、やらないほうがいいのは間違いないので、ルーは大丈夫なのかな、と心配しました。

とはいえ、ルーのことを私は会う前から知ってはいました。ゼロ年代批評のなかでもよく用いられていた、ジジェクというひげのおじさんがよく使っていたラカン派精神分析的解釈に基づいて批評したり、同人誌にラカン派精神分析に詳しい論者どうしの対談記事をくんだり、薬を飲んだときのイメージを言語化したような詩を書いたりしていて有名だったからです。

その読書会の後に、私は何かを信用されたようで、彼が主催する同人誌に「メンヘラ」をテーマに書いてほしいと連絡がきました。ルーの印象は良くなかったのですが、上記のようにその仕事ぶりは知っていたので、ひとまず引き受けることにしました。その原稿で私はライトノベルをとりあげました。登場人物の全員が精神的な疾患を抱えた物語で、十文字青さんの書いた『ぷりるん。~特殊相対性幸福論序説~』という作品です。私の原稿の論旨をざっくりとまとめると、精神的に問題行動をとる人ばかりを取り上げるトビアス・ウルフというアメリカ人作家の小説を比較対象にすることで、『ぷりるん。』の特殊な表現を抽出し、抽出した要素を再構築することで、社会通念としての恋愛行為から逸脱した人間、つまり人間をやめた人間の固有性に触れることが恋愛の体験とされている、という解釈をしました。ルーがてがけた同人誌はそれが2冊目だったのですが、その同人誌は比較的によく売れたようです。ルーはその原稿をある程度気に入ってくれたようで、原稿料としてブルース・フィンクの『ラカン派精神分析入門』をもらいました。中古本なので正確な値段はわからないのですが、だいたい5000円くらいでした。もちろん、キャッシュのほうがありがたいのですが、ほぼ同世代ということもあり、当時はとくに気にしませんでした。

その後、私自身も20歳前後ということもあり、精神的に不安定になっていました。生きるということと批評するということががぎりなく一致してるがゆえに、自分で考えたことをすぐさまに批判し、それを乗り越えるために勉強するというサイクルは、いまとなっては客観的に処理できるのですが、当時はとにかく辛いものでした。20歳前後というのは、確信のようなものが持てないですからね。この頃、自分の中の確信が「飲酒」になりそうなのをなんとかこらえていました。そうして、私は、ルーから次に来た原稿の依頼を断ってしまいました。

(ルーのDM)「こんにちは。次の同人誌のテーマは「幸福」なのですが、原稿をぜひお願いしたいです」

(でぃおんたむのDM)「ご依頼ありがとうございます。私は「幸福」について何かを書くことができません。今回のお誘い大変ありがたいのですが、ご理解いただけますと幸いです」

私があの頃と変わったと自分でわかるのは、今の私は「幸福」について書くことができるからです。ただ、ルーが「幸福」について依頼してきたのは、ルー自身が「幸福」というものを本当に追求していたからだった気づいたのはルーが死んだ後のことでした。

「幸福」について依頼してきた頃、ルーは、ツイッターというSNSの中で「一人ゼロアカ」のようになっていました。ゼロアカ道場で参照されるような論者や理論についてばかり議論し、「リスカオフ」という集団リストカットをカラオケで行い、複数人で血のこぼれた手首を見せるようにしてこぶしを突き合わせた写真を投稿するなどして、ダークなザクティ革命をするようになっていきました。ただし、これは、ゼロアカとはある一点において異なっています。

ゼロアカ道場はリアリティショーであり、ショーから降りる自由があります。しかし、SNSでアテンションを稼ぎ、承認欲求を満たしながら自分の人生そのものをリアリティーショーにしていくとき、そのショーから降りることは限りなく難しくなります。ゼロアカ道場はよくもわるくも出版社のプロジェクトだったので、集団によるケアがありますが、個人のリアリティーショーはSNSの好奇の目にさらされ、消費されるだけです。一度でもその道を歩んでしまえば、SNSへの依存とそこでの自傷を繰り返すしかなくなってしまうのです。自分でどうにかすることができるはずもありません。そうしてルーは、ベランダから飛び降りることで人生というリアリティーショーに幕を引いたのでした。夕暮れのセミも鳴くことをやめた、2015年の夏の終わりのことでした。ルーが幸せになったのかは、私にはわかりません。ただひとつ言えるのは、ルーはグランドラインを超えていくことはできなかったのでした。

脆弱性については以上です。そして、ここで今回のお手紙は終わりです。次回は、残された論点である(3)依存性・(4)時代性についておたよりをお送りします。いよいよ、七武海と四皇たちの10年代の活動をたどります。

さて、おたよりは以上なのですが、最後に宣伝です。このお手紙が読まれる頃には配信が終了し、アーカイブでの視聴になるかもしれませんが、おたよりを補足する形で2010年代同人誌批評を振り返る配信をYouTubeでします。11月23日の14:00から20:00です。さやわかさん、お手数ですが、次のタイトルとリンクをコメント欄に貼っていただけますと幸いです。

米原将磨×江永泉 司会=ジョージ「ゼロ年代批評崩壊期とは何だったのか。地殻変動以後の時代に三人が回顧する10年代批評シーンと20年代への展望」

貼っていただきましてありがとうございました。ちなみに、江永泉さんは『闇の自己啓発』という本で有名な方で、ジョージさんはジジェクの動画の日本語字幕を作成しているので有名な方です。

それではみなさま、また、次回にお会いしましょう。連載おたより第5回「もう何も怖くない」。

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「カルチャーお白洲」お手紙回2022年10月(連載第3回)

さやわかさん、カルチャーお白州民のみなさま、こんかんるちゃ。でぃおんたむと申し上げます。

8月20日に開催されました「正々堂々秘密の大集会」にて、さやわかさんにお送りしたお手紙で連載の予告をいたしました。8月、10月と2回連載させていただきましたが、今回が最終回です。年を越さなくて良かったです。とはいえ、最終回なので大長編です。覚悟の1万7192字。さやわかさん、どうぞよろしくお願いいたします、と書いていたのですが、さすがに長過ぎるので、ほどよいところで区切りました。というわけで、今回は、私が早稲田大学に入学してから東浩紀と出会った日から始まり、どうしてゼロ年代批評的なものの空気が消えてしまっていたのかについて、全部で4つの観点から分析したもののうち、最初の1つについて説明しています。

では毎回長いお手紙のため、いつもどおり前回の振り返りをさせていただきます。

連載第1回では、webゲンロンで連載中の「愛について──符合の現代文化論」の要約をし、ゼロ年代批評で積み残された課題にどう向き合っているのかに関わることをしているのだ、と指摘し、さやわかさんの継続的な批評行為について、その文脈を明確にしました。全文はこちらでお読みいただけます。【連載1回目 https://diontum.com/「カルチャーお白洲」お手紙回2022年8月/】

連載第2回では、文学フリマとさやわかさんのことを知った頃のことをお話いたしました。2010年代の初頭では、文学フリマで批評は売れていたけど、実は少数派だったということや、四皇や七武海になぞらえて当時の批評家たちの整理をしました。ちなみに、さやわかさんは四皇でした。全文はこちらでお読みいただけます。【連載2回目 https://diontum.com/「カルチャーお白洲」お手紙回2022年10月(連載第2回/】

では、今回のお話にはいらせていただきます。以下、6980文字。さやわかさん、どうぞよろしくお願いいたします。

2012年5月18日金曜日、少し雨がちらつく夜のことでした。私の目の前に気っ風よく弁舌をふるう初老の男性がいました。煙草の煙がゆったりと天井にのぼっていく薄暗いお店の中で、若い男性たちが彼を囲んで意味ありげにその話に相槌を打っています。一方で、テーブルの端のほうでは、最近のコンテンツについての意見交換や、誰それと誰それがまたやりあっているといった論壇ゴシップがやかましくかわされていました。

みなさんお気づきのこととは思いますが、この男性とは、東浩紀さんのことです。そこには、2011年9月に『ゴーストの条件―クラウドを巡礼する想像力』を出版した村上裕一さんもいらっしゃいました。当時の東さんが担当していた授業のゲスト講師として村上さんがいらっしゃっていたのです。私はその授業を受講してはいなかったのですが、ツイッターで東さんが告知をしていたたため、勝手に行っていいだろうと忖度して期待に胸をくらませて行くことにしていました。わたしの頭の中では、席とり合戦の起きたアンリ・ベルクソンのコレージュ・ド・フランスの講義、階段に座り込む学生に溢れたヴァンセンヌ時代のジル・ドゥルーズの授業を思い描き、そういった時代を作るような、ひりつくような熱気がそこにはあるはずだ、と思っていました。万が一座る席がなくなってしまうことにも備え、キャンプ用の簡易的なパイプ椅子を鞄につめて、何がなんでも受講してやるという決死の覚悟を決めていきました。

しかし、いざ当日になって教室に行ってみると、扉に張り紙もなく、中に入っても教室は閑散としていました。私より先に来ていたのは、2人か3人かの男性だけで「あれ、君は見ない顔だけど、誰?」みたいな顔をされました。机にきっちり座れば40人は入れるであろう教室はあまりにも広すぎて、私が想像していたゼロ年代の熱気は存在していませんでした。時間になればきっと大量の人が押し寄せるのだろうという期待も虚しく、集まったのは10人いるかいないか程度でした。

かなり早くから待っていた私は、他の人からツイッターアカウントの候補から消去法で特定され、「もしかして、ツイッターのアカウント名は米原将磨(よねはらしょうま)さんですか」といきなり話しかけられました。「ネトスト怖い!」とびくつきながら「は、はい、そうです」などといったやりとりがありましたが、まったく雑談が続かず、教室はふたたび静寂に包まれました。話しかけていただいたのは大変ありがたかったのですが、私には雑談する力がまったくなかったのです。

このときカルチャーお白洲があれば、2022年7月5日配信「理論編(ノウハウ #27)「説明の技術」⑥~苦手な人のための会話術:相手の答え方を指定する」で、ほどほどな感じで雑談する方法を身につけられていたのに……。しかし、私も18歳でしたし、シラスもありませんでした。当時の先輩方には申し訳ないのですが、雑談が続かなかったのは、別に不機嫌だったわけではなく、雑談力もなかったし、緊張してうまく話せなかっただけです。

そんなこんなで、三々五々に人が集まると、私以外の全員がお互いに知り合いのような雰囲気の中、東さんと村上さんが教室に入ってきて、『ゴーストの条件』について村上さんがレクチャーをはじめました。

レクチャーの間、私だけが何かにとり憑かれたようにメモをしていました。そのためか、レクチャーが終わったときには疲れ果て、質問時間になっても、私はぼうっとしていて漫然としていました。会場でも、そもそも本を熟読してきた人間はいないらしく、本を読んでなくてもできるようなあいまいな質問が1つか2つでました。東さんもなんとか授業を楽しくさせようといろいろ意見を出していたのですが、いまいち盛り上がりません。そんな中、こちらを向いた東さんが私にこう言いました。

「君、すっごいメモしてたけど、何か質問とかない、大丈夫?」

いきなり話かけていただき、心の中で「貴様ッ!見ていたなッ!」と叫んだのですが、私の口からでてきたのは「あーうー」という曖昧な言葉ばかりでした。そして、数秒後、なんとかして、ない頭を振り絞ってこんな質問をしました。

【ト書き 少し震え声で】「早稲田大学の近くにある夏目坂をのぼっていくと、清源寺というお寺があり、水子供養をしています。『ゴーストの条件』では、水子が重要なモチーフになっていますが、こちらには行かれて何かの参考にしたことがありますか」

当時の米原将磨の質問内容(再現)

「レクチャー関係ないじゃん!、何をメモしてたんだよ」と今の私は過去の私にツッコむしかないのですが、この質問は「え、そうなんだ」と東さんもリアクションできる程度にはまともな質問だったようです。村上さんもそのお寺には訪れたことがあるそうで、水子供養と日本の文化の結びつきについて、いろいろ考えていたようです。なお、夏目坂の夏目は、あの夏目漱石に由来しています。彼が養子になって住んでいた家があったことにちなんでいます。

ところで、自分でツッコミをいれたように、私は人の話や授業のときに、すごくメモするタイプの人でした。それはそれで勉強になったのですが、「質問ありますか」という貴重な時間を有効活用するうえで、メモしがちな人は弱いように思います。リアルな場所で人の話を聞くときは、ある程度の詳細を諦めて、「この人の話をよく考えると、すこしわからないところがあるぞ」といった内省の時間を確保するほうが重要なようにいまは思います。もちろん、内省なしでとにかくメモ、というのは受験勉強のときや語学勉強のときには役に立つと思っています。さやわかさん、お白州民のみなさま、いかが思われますか。

さて、レクチャーが終わったあと、フォレスタというお店で打ち上げすることになりました。大学から一番近い店で、ネットで検索したかぎり確実にノンアルコールビールを提供している店でした。東さんはその日は車で来ていたので、そうした理由でフォレスタに入ることになりました。フォレスタは、夏目坂を下りきったところにあるお店でした。

レクチャーの打ち上げには、村上さんや坂上さんといった七武海が何人かいて、私より先に航海にでていたルーキーたちもいました。『アニメルカ』に掲載されていた批評もすでに読まれていて、「君があれが書いてた人なのか」、と村上さんに細かい点でのアドバイスをもらいました。

席の入れ替えがあり、東さんの向かいに座ることになった私は挨拶をすませると、コンテクチュアズがゲンロンに社名を変更したばかりだったので、その話をしました。そのまま今後のビジネス事業の展開についての話になり、東さんは言いました。

「僕ね、カフェやろうと思ってんだよね、今年には始まる予感……」

「カフェ? コーヒーとか出すんですか」

勘の悪い私は要領を得ません。

「そうじゃなくて、ロフトプラスワンみたいにイベントとかやるんだよ」

「え、すごい」

当時の会話の内容をそれらしくしたもの

この些細なやりとりは覚えているのですが、それ以外は覚えおらず、人間の記憶とはつくづく怪しいものです。ちなみに、私は人生で一度もロフトプラスワンに行ったことがないです。

東さんが帰るタイミングでいったん打ち上げは解散し、夏目坂をのぼりきったすこし先にある駐車場に向かう東さんを見送りながら七武海とルーキーたちは二次会に向かいました。東さんがはきはきとのぼっていく夏目坂の先に、当時の私の下宿があったので、自分の姿をそこに重ねさえしました。18歳というのは、そういうものですよね。

あの時初めて東さんと話したフォレスタは、ビルごと解体され、新しいビルはいまだに建たず、店舗が別の場所に戻ってくることもありませんでした。新型コロナウィルス感染症流行下での出来事でした。東さんや、七武海やルーキーたちがかつてあそこにいたことを証明するものは更地以外にはもう何も残っていません。

ところで、東さんの考えていたその「カフェ」は、翌年の2013年にイベントスペース「ゲンロンカフェ」としてオープンしました。『ゲンロン戦記』で語られているように、経営上では会社の徒花でしかなかったはずのゲンロンカフェが、いつのまにか売上を支えるようになり、2015年には新芸術校と批評再生塾という2つのスクールが開講します。しかし、このスクールにはいわゆるゼロ年代のカルチャー批評の集団は、七武海の黒瀬陽平がスクール運営の主催をつとめている以外、ほぼ参加していなかったといえるでしょう。2015年までにゼロ年代批評の集団は自然消滅していこうとしていたからです。

とはいえ、その消えかける手前の2014年、私は村上裕一さんによる、ビジュアルノベルについてこの世界で最後に総合的な文化批評を行った『ノベルゲームの思想』というゲンロンカフェでの講義に参加し、最後の熱気を感じることができました。このとき、「ゲンロンスクール」と題してパッケージ化されたイベントが組まれていて、『ノベルゲームの思想』は全部で3回の講義でした。第1回目が盛り上がり、第2回目から現地参加者が増え、40人近く集結し、私もその中にいました。第3回が開催された4月19日は終わりゆくヴィジュアルノベルゲームは一体どこに向かっていくのかについて、スマートフォンの普及によってキャラクターとの物語を通じた擬似的にインタラクティブな関係を構築できるようにするスマホゲームが今後ますます普及し、ノベルゲームのミームは生き続けるといった主張を展開し、感動した聴衆が大盛りあがり。現場にかけつけていた東浩紀が「朝まで『Air』をやるしかないだろう」とスクリーンに『Air』を投影し、名シーンを振り返るなど、現場感に溢れてました。あゝ、ゼロ年代。しかし、よく考えると、ゼロ年代批評の中心的コンテンツだったヴィジュアルノベルゲームの時代が終わった、と宣言する講義だったのですから、その盛り上がりは奇妙なものでした。しかも、その後の批評はどこに向かうのかというと、ヴィジュアルノベルゲームのミームを追う、という内容でした。

確かに、多くのヴィジュアルノベルゲームのライターたちは、現在、スマホゲームのシナリオライターをしていますし、スマホゲームの体験をヴィジュアルノベルゲームの形式を応用して再現できているのはスマートフォンというアーキテクチャのおかげなのだ、といえなくもないです。しかし、新しいツールでの新しいコンテンツは、先行世代の文脈を引き受けつつ、新しい文脈を展開していきます。だからこそ、「ヴィジュアルノベルゲーム」といったように、ただの小説でもゲームでもないコンテンツとしてジャンルをわざわざ区切ってはいなかったでしょうか。だとすると、スマホでノベルゲームをしているとき、それは本当に「ヴィジュアルノベルゲーム」と言ってしまっていいのかどうかまず考えるべきではないでしょうか。そう、何が言いたいかというと、ゼロ年代批評はこのとき、すでに、次に何をすべきかという方向性を個々人では持っていたとしても、自分たちの所属していたクラスタで何をしていくかについて考えていた人は一人もいなかったのです。だからこそ、2015年にスクールが開講したさいに、自分の向かう先の決まった人や、自分だけでしたいことの決まっていたゼロ年代批評勢はスクールの動きに積極的に合流しようとしなかったのだと、想像しています。

では、なぜこんなことになってしまったのでしょうか。いまから、その理由について、(1)閉鎖性、(2)脆弱性、(3)依存性、(4)時代性という4つの観点から説明させていただきます。今回のお手紙では、(1)閉鎖性のみお話いたします。

閉鎖性と聞くと、これは誰もがゼロ年代批評界隈のイメージとして共有していることだと思います。具体例を挙げましょう。

ゼロ年代批評をやっていく、ということは『前田敦子はキリストを超えた』のような本についていくということです。当たり前ですが、ついていけません。普通に考えて超えるとか超えないの話ではないですし、こういう競争を煽って何かの優位性を示したがる傍若無人なタイトルそのものが強烈なホモソーシャル性を前景化していたと言えるでしょう。

また、コンテンツ批評で対象となる範囲はとても狭い、と連載第2回のお手紙で指摘しました。これも閉鎖性をもたらす要因でした。そもそも、コンテンツとは様々なジャンルを包摂できるマーケティング用語を批評に持ち込むことで、批評する対象の垣根を超えていこうとする目的もあったはずでした。しかし、麻枝准作品、アイドルゲーム、AKBを中心としていたように、コンテンツの範囲は限られ、ジャンルの序列化がなされ、結局は本来はなくそうとしていたジャンルの垣根を自分たちでもう一度作ってしまったのです。なお、こうした垣根をつくることで何が生み出されるかというと、自分が一番「愛」についてよく知っているという閉鎖的な競争です。まさしく、執着の愛であり、これはどれほど批評的な言葉を使っていたとしても、あまり広がりがありません。とはいえ、アカデミズムでも「自分が一番わかっているやつなんだ」という競争はありますから、とくにゼロ年代批評の問題というわけではなく、同質的な狭いコミュニティではこれが起きがちなのかもしれません。この「自分が一番わかっている」という執着の愛から一歩引く責任の愛とは本当に難しいものです。

とはいえ、閉鎖性は言葉の雰囲気とは別に、ポジティブな側面もあります。これはかつて私を見込んでくれた方々に感謝する必要があるので、きちんと触れておきたいです。

今の私がこんなふうに連載できるような引きのある文章をつくり、対談などの編集を任されてそれなりに読み物として面白く記事を作れるのは、その閉鎖性ゆえに、私に仕事がたくさん回ってきて、経験を積む機会をいただいたからです。向こうとしては人手不足、こちらとしては編集の経験つめるしお金も入るという循環は、ある程度の仕事相手の「知識」・「能力」・「締め切りを守れるどうか」といった信頼をあらかじめ推し量ることができるようなコネがないと生まれません。つまり、ある程度は閉鎖的だからこそできるわけです。ただし、この構造は、閉鎖性が強すぎると、「お前は別のグループのやつと仕事したな、この裏切り者!総括だ!」と連合赤軍になってしまうので、何事もほどほどが重要ですね。なお、私の知っている範囲ではそこまでひどい閉鎖性はゼロ年代批評の人たちにはなかったように思います。あったとしても、運良く私はそうした人たちとは関わっていませんでした。

最後に、閉鎖的であることによってもたらされた結末についてお話します。

私がフォレスタで食事をともにし、『アニメルカ』に掲載していた批評にコメントをしてくれた人として登場していただいた村上裕一さんですが、彼の主著『ゴーストの条件』の副題は、「クラウドを巡礼する想像力」でした。この「巡礼」とは、「聖地巡礼」のことで、観光社会学やツーリズムに着目した文化批評では重要な概念となっています。簡単にいうと、聖地巡礼は、昔は宗教的施設といったモニュメントをめぐるものだったものが、現在は、アニメという虚構で参照された場所にいき、同じ構図で写真をとるだけといった行為になっている、という違いをどのように考えるべきか、という議論です。村上さんはキャラクターの存在の実感を高めるのに土地との結びつきが重要であると、かなり初期に指摘した人だったといえます。例えば、この議論によって「温泉むすめ」というキャラクターが、そもそもなぜキャラクターとして求められたのか、という問いを立てて考察することも可能にするなど、2020年代にも通用しそうな話ではあるわけです。

しかし、ある研究会で聖地巡礼の話になったとき、観光社会学の中での最近の「聖地巡礼」的な議論の土台となっているものには、2014年の『サブカルチャー聖地巡礼 : アニメ聖地と戦国史蹟』だとか、2018年の『アニメ聖地巡礼の観光社会学』 といった学術書ばかりでした。つまり、村上裕一さんは存在しないことになっていたのです。なぜそんなことになったかというと、村上さんの議論の型だけを取り出して外に展開する人が後に続かず、彼が取り上げたコンテンツの話しかできない人、あるいは特定のコンテンツの話しかしたくない人だけが残っていたからだと思います。2012年のあの熱気のない教室からも察せられるように。そして、あの教室から10年後、ゼロ年代批評の重要な著作はもうすでに忘れ去られていたのでした。

閉鎖性については以上です。そして、ここで今回のお手紙は終わりです。次回の最終回では、残された論点である(2)脆弱性・(3)依存性・(4)時代性についてお手紙を書いています。七武海と四皇たちの10年代の活動をすべてをたどりながら、新世界にたどり着かず、グランドラインを生き延びることができなかったかつての自分と仲間たちに鎮魂歌を捧げ、私がもう一度新世界を目指す話をしたいと思います。

次回、最終回。絶対運命黙示録。

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米原将磨

「カルチャーお白洲」お手紙回2022年10月(連載第2回)

さやわかさん、カルチャーお白州民のみなさま、こんかんるちゃ。でぃおんたむと申し上げます。

8月20日に開催されました「正々堂々秘密の大集会」にて、さやわかさんにお送りしたお手紙で連載の予告をいたしました。しかし、なんと、その後『ユリイカ』から原稿の依頼があり、一ヶ月がまるまるつぶれてしまい、お手紙を書く時間がなかなかとれず、連載2回目のお手紙が遅れてしまいました。ちなみに、原稿は10月発売の今井哲也特集に掲載予定で、タイトルは「世界はおもちゃ箱――今井哲也について」です。ペンネームは、米原将磨(よねはらしょうま)です。この『ユリイカ』の号には、なんと、あのさやわかさんのインタビュー記事も掲載されています。私の原稿はどうでもいいのですが、さやわかさんのインタビューがとっても面白そうなので、みなさん要チェックですぞ。

さて、二ヶ月も時間が経ってしまったということもあり、前回の内容を忘れてしまった人も多いと思いますので、最初にかんたんにあらすじを述べさせていただきます。その次に、さやわかさんを私が初めて知った頃のこと、そのとき、なぜ私が批評などというものをやっていたのかについて「文学フリマ」の往年の雰囲気を語りつつ、ご紹介します。なお、予め申し上げるのですが、編集前のお手紙は3万字くらいあるため、今回もちょうどいいところで区切って次回に続きます。どうぞよろしくお願いいたします。

では、さっそく前回の要約をさせていただきます。

前回のお手紙では、webゲンロンで連載中の「愛について──符合の現代文化論」の要約と、ゼロ年代批評で積み残された課題にどう向き合っているのかについて、ゼロ年代的なスタイルのスタンダードを作った宇野常寛の主著をとりあげてお話しました。簡単にまとめると、連載「愛について」は、オタク的なコンテンツへの偏愛は「執着の愛」でしかなく、自分が執着する行為を一歩引いて理解して他人とわかちあい、それに責任をもつことを「責任の愛」とする、といった要約を私がしました。次に、宇野さんの『ゼロ年代の想像力』についてのさやわかさんの書評を、ゼロ時代のコンテンツの整理をして限界を指摘しているものの、最後は執着の愛に閉じた議論に終始して、コンテンツの消費者や読み手のことを無視した論を展開していた、とさやわかさんはたぶん考えていて、さやわかさんは10年代を通じて責任の愛について取り組んできたと言えるけど、それってとってもすごいよね、と私がまとめました。

要約もすんだとろこで、さやわかさんの文章と出会うところから今回はお話させていただきます。以下、6590字です。さやわかさん、よろしくお願いいたします。

時は2011年4月22日未明、神奈川県横浜市某所。多くの人々がそうであるように、私は寝ている家族を起こさないように、リビングルームのテレビの音を小さくして、食い入るように画面を見つめていました。

注釈。若人に言っておきたいのですが、当時はTVerなどという便利なサービスはないので、テレビを個人的に見る手段は限られていました。自室PCで見るためにPC用チューナーを買うとか、TVモニターを自分の部屋もちこみ、TV用の回線を引く、とかしか方法がないのです。そのいずれもできない場合は、一家に一台のテレビでアニメを静かに見るしかないのです。いいですか、これは、とっても辛いことです。でも、やるしかないんです。

さて、そんな私が家の人を起こさないようにこっそり見ていたその時のアニメとは、「魔法少女まどか☆マギカ」の最終回でした。一ヶ月前の3月5日に第11話「最後に残った道しるべ」が放映されたのですが、3月11日には東日本大震災が起きたため、「魔法少女まどか☆マギカ」の最終回の放送が延期になったのです。津波を思い起こさせる表現がある、といったことだったと記憶していますが、東京の被害もかなりあったので、単に放送することでのメリットがなかったのかな、と今となっては思います。結局は、一ヶ月後に軽微な被害を受けた地域に住む人々の生活が安定してきた4月22日に最終回が放送されたのでした。食い入るように最終回を見ていた私は、雑誌『ユリイカ』で「まどまぎ」の特集号が10月に刊行されたときには書店でつかみとって即購入。本屋を出たら、歩きながら頁をめくりだしていました。いまの『ユリイカ』からはあまり想像ができないのですが、かなり作り込んだレイアウトになっていました。最初に目を引くのが、各話のあらすじが、マットコート4色フルカラーで、1ページごとに各話のシーンの複数ショット付きで紹介されている点です。さらには、カラー口絵も志村貴子・今日マチ子・吾妻ひでお、などなどが手がけるという豪華なラインナップでした。はたまた、飯田一史による「魔法少女まどか☆マギカ事典」という3段組19頁という狂気の資料ページまでついていました。

私はそこで、さやわかさんのお名前を初めて知りました。ばるぼらさんとの対談「メディアにおける/としての『魔法少女まどか☆マギカ』」は、当時の「まどまぎ」が世代ごとにどう消費されたかの雰囲気を伝える非常に重要な記事なのですが、10年ぶりに読み返すと、「トランスクリプション&構成=さやわか」となっていて、中身うんぬんとかよりも、「え、対談した人が書き起こしまでやってるの……、見なかったことにしよ」といろいろ感じいってしまいました。

そうして、さやわかさんのことを知った私でしたが、お書きになった批評をきちんと読んだのは、また別の機会でした。それは、さやわかさんご著作『世界を物語として生きるために』に所収された米澤穂信論「日常系を推理する 米澤穂信と歴史的遠近法のダイナミズム」のもととなった論考を手にとったときです。つまり、その文章が所収された『BLACK PAST』第二巻の刊行された、2012年ことでした。ところで、多くのお白洲民はこの雑誌のことをあまりご存じないでしょうし、ご存知でも配布部数が多くはないため、お手にとったことのある方は少ないでしょう。『BLACK PAST』はゼロ年代の狂騒が少し落ち着いた2011年に第1号が文フリで刊行されました。私はこの時ちょうど高校2年生でした。実は、さきほど触れた飯田一史の「魔法少女まどか☆マギカ事典」でも、『BLACK PAST』が参照されています。なぜなら、「魔法少女まどか☆マギカ」の脚本を担当した虚淵玄のインタビューが掲載されたのが、その『BLACK PAST』だったからです。というわけで、私はその本もまた買っていたのでした。

また、文学フリマは、近年各地で開催されていることもあり名前を知っている方はまぁまぁいらっしゃるかと存じますが、ひら☆マンでCOMITIAが有名な一方で、カルチャーお白洲をご視聴のみなさまはあまり文学フリマに馴染みがないかもしれないので、念の為、ゼロ年代から十年代初期にかけての文学フリマの様子を説明したいと思います。

まず、文学フリマとは、ざっくりいってマンガ以外の同人誌を売るところです。小説や詩、そして批評だけでなく、独自の調査で集めた資料などもあります。紀行文つきの廃墟写真集なんかもありますし、ある作家の全集未収録作品を発見してきて解説付きで収録して頒布している人もいました。というか、マンガ以外とか言いましたが、マンガを頒布している人もいたので、「文字ばっかりの同人誌が多いCOMITIA」と思っていただければと思います。

そんな文学フリマの名前が広く知られるようになったのは、その昔、東浩紀が中心となって開催された「ゼロアカ道場」という一連のプロジェクとイベントがその一因であるとはいえるでしょう。2007年に「第四回関門」と呼ばれるイベントが開かれ、同人雑誌を編集してつくり、文学フリマで売ることになりました。東京都中小企業振興公社秋葉原庁舎で開催されたそのイベントは大盛りあがりでした。諸事情あり、翌年からは大田区産業プラザPiO 大展示ホールでの開催となりました。なお、私はゼロアカは直接経験していなかったので、大田区産業プラザPiOで開催された文学フリマが初めて行った文学フリマでした。2010年を少し過ぎた頃の文学フリマは、今のように書店でも流通するような批評同人誌とは異なり、野良な感じの批評同人誌がたくさんありました。例えば、私にとって愛着があるものに限って挙げると、アニメ批評同人誌『アニメルカ』や腐女子批評誌『girl!(ガール!)』といったものがありました。ほかにもさまざな批評同人誌があり、売れ筋のものは数百部印刷しても印刷費がほぼ会場で回収できるという時代でした。そう、10年代に入ってからもゼロ年代の批評の空気は生きていたのです。そして、私もまた、高校生の頃から批評同人誌の論評に対してツイッターで論戦を張り、その結果『アニメルカ』編集長に発掘され、高校生のうちに『アニメルカ』へちょっとした批評を掲載することにもなりました。

また、若くて勢いだけはとにかくあった私は、『短歌研究』という短歌専門雑誌の評論賞部門で高校生の時に次席になるなどもしていました。現在ではカルチャーの中で短歌が目立っているので、アニメとかで批評を書いている人が短歌について論じても違和感はあまりないですが、当時はそうではありませんでした。理由としては、セミクローズドなmixiとは違う、オープンなSNSがいまほど普及していなかったので、若い世代の短歌クラスタがつくられず、アニメと短歌を両方語る事自体奇妙に見えているようでしたし、SNSの短文投稿で気軽に短歌を共有できるということもなかったため、短歌をやることがカルチャーっぽさとして広まっていなかった、ということも考えられます。

もちろん、深く短歌の創作に熱を上げていれば、すでにウェブ頁をもっていた短歌サークルに接触できたでしょうが、アニメ・音楽・批評に大忙しだった私はとくに探しもしませんでした。私自身は昔から短歌を読んでいたとはいえ、応募することにした理由は、短歌というコンテンツがとても好きだったからというより、本屋で適当に評論賞で応募できるところがないかを探していたときに『短歌研究』を手に取ると、評論部門のお題がたまたま自分に書けるものだったというだけです。若いと怖いくらいに調子のったやつになりますが、若いということはそれ以外取り柄がないので、もしもこのお手紙を耳で聞いている高校生か大学生の人がいたら、YouTubeでもブログでもなんでもいいので、とにかく行動しましょう。「カルチャーお白洲」の理論編で鍛えた力を発揮するのです!

そういうわけで、若かった私は短歌について書いたのですが、これには同時代的な理由があったと考えています。というのも、地元の書店が『短歌研究』というマイナーな専門誌をおいているほど、2010年に入る頃の短歌界は大きな変革の時代を迎え、流行の兆しがあったと指摘できると思うからです。具体的には、80年代生まれの世代が短歌界隈で台頭し始め、笹井宏之(ささいひろゆき)の衝撃からまもなく、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)で2013年に「新鋭短歌シリーズ」の刊行が開始しました。現代短歌の歴史をふりかえってざっくり整理すると、80年代の俵万智という転換点の一人勝ち、90年代の穂村弘・東直子(ひがしなおこ)ほか新しい歌人たちの登場による60-70年代の歌人の撤退、そして、瀬戸夏子(せとなつこ)や笹井宏之といった10年代歌人たちの台頭と短歌批評シーンの変化、そして穂村弘の再流行、と簡単にまとめられます。穂村弘の2010年前後の流行で、短歌を詠む人というのは文学フリマで目立っていました。当時の文学フリマの参加グループを見ればわかるように、「詩歌」とよばれるような短歌、俳句、現代詩を扱ったブースは全体の2割から3割くらいを占めていたようで、多くは短歌でした。そして、客観的にみれば私のような批評好きたちのブースは、1割を占める程度の少数派でした。しかし、批評同人誌がまぁまぁ売れていたせいもあり、たちの悪いことに、自分たちは十分に世間で認められてるのだ、と考えていた節さえあったように思います。

少し固有名詞が多くなってきたので、いったん当時の状況を『ONE PIECE』にたとえて整理しましょう。10年代のはじめは、私のような有象無象のルーキーたちが航海に乗り出していきました。『BLACK PAST』の仕掛け人坂上秋成さんなどの七武海(福嶋亮大・泉信行・黒瀬陽平・村上裕一・藤田直哉・山川賢一)、そして宇野常寛・濱野智史・鈴木健・さやわかといった四皇が10年代に入ったばかりの海に散らばっていました。世はまさにカルチャー批評全盛時代。なお、この分類は当時からそう見えたのではなく、今から振り返って、ゼロアカ周辺の風景はこのように整理できたのではないか、という図式です。宇野さんと同様に、濱野さんの『アーキテクチャの生態系』は、それはそれはみんな引用していましたし、鈴木さんの『なめらかな社会とその敵』は同時代のSF界隈に大きな影響を与えました。そして、当時はまだ広く読まれてはいないさやわかさんでしたが、コンテンツの単体の批評での名前を見ないときがないほどたくさん書いていらっしゃいましたし、多くの雑誌で構成のお仕事をしていることからも、極めて重要なプレイヤーでした。しかし、昔はそういったことを何一つとして理解していませんでした。現実は『ONE PIECE』ではないので、そのときには七武海とか四皇とか、そんなにはっきり分類できるようにはもちろんなっていませんでした。

では、整理したところで、私がさやわかさんの名前を知った頃に話を戻しましょう。高校を卒業して大学生になり、2012年に偉大なる航路(グランドライン)に入ったばかりなのに、いっぱしの批評家気取りだった私は、『BLACK PAST』の第2巻を買うときにも、「いまはどんな人が「同業者」なんだろう」と、若者にありがちな微笑ましい傲慢な気持ちで「さやわか」という名前を目にしました。そして、さやわかさんの「日常系を推理する」を読んでも、私は愚かな感想を抱くばかりでした。

【ト書き ここは生意気っぽく】

んー、アメリカのポスモダからミニマリズムの流れをセカイ系から日常系にあてはめるんだー。面白いけど、京アニも米澤もアメリカ以外の文脈多すぎるし、たんにだいたいの芸術は純粋になって先鋭化するってやつでは?というか、作品が常に未来から参照されるなんて当たり前じゃん、何をしょっぱいことを言ってるんだ、そういや、『ユリイカ』のまどまぎ特集にもこの人いたけど、「さやわか」ってなに?

当時の米原将磨の心の声

当時の私を殴ってやりたいです。さやわかさん、ごめんなさい。

あの頃の私は、「常に未来から参照される」、そのことの本当の意味がわからなかったのでした。しかし、今の私にはよくわかります。何かを書き、誰かがそれを受け取り、未来に言葉を紡いでいくことが批評という営為なのです。だからこそ、批評をするとき、未来に参照されるべき人間として、書くことに責任をもつ必要がある。このことの意味と重さを当時の私はまったく理解していなかったのです。

このようにして「さやわか」という10年代を通じてカルチャー批評に大きな足跡を残していった人物について、その名を目にした当時の私はほとんど何も知らず、あまつさえ、愚かな感想を抱いていました。

ところで、お聞きになっているみなさんはそろそろ違和感を覚えているかと思いますが、ここでは現在からふりかえって当時の同人誌批評のジャンルを「カルチャー批評」と呼んできました。しかし、当時はそんな言葉は流通していませんでした。同じものは「サブカルチャー批評」だとか、少し新しい名前として「コンテンツ批評」と呼ばれていたのです。たとえば、2011年に『コンテンツ批評に未来はあるか』という本が出版され、あたかもサブカルチャー批評でもカルチャー批評でも、その他のなんとか批評でもないものが新しく生まれていたかのように喧伝されていたのでした。しかし、そのコンテンツの対象は、私の知る範囲では、極めて限定的で、例えばダイビングについて批評したとしても「それはライターの仕事か、社会学者の仕事で批評の仕事ではない」といったような奇妙な空気が流れていました。コンテンツ批評のコンテンツとは、アイドル、アニメ、ビジュアルノベルを含む文学、マンガ、映画とテレビドラマ、音楽、ニコニコ動画、一部のゲームを対象としているだけでした。

おいしいお店について話すかと思えば水中にも潜ってみせる「カルチャーお白洲」をご視聴のみなさまは信じられないかもしれないですが、いまでも、コンテンツ批評という名前はなくなっても、「カルチャー批評」とか「サブカルチャー批評」と聞いたときには、ニコ動がVtuberに変わるなどしていますが、このあたりが中心になっているかと思います。ゼロ年代は、ビジュアルノベルとニコ動を大きく取り上げた点で過去のカルチャー批評と大きく異なっていましたが、だいたいの若いうるさがたはそういうのに食いつくもので、そのことが何か大きな思想の流れをつくりはしませんでした。ちなみに、「コンテンツ批評」とは何か、あるいは何だったのか、についてはさやわかさんがいつか「お白洲」で詳しく説明してくださると思います、と無茶ぶりしておきます。いずれにせよ、このお手紙では、「コンテンツ批評」という言葉がもしかしたらいまの人たちにはあまり自明ではないかもしれないので使うのを避け、「カルチャー批評」というより一般的に思われる言葉遣いを採用しました。

というわけで、こんなふうにしてふりかえってみると、10年代のはじめの頃、カルチャーに関わる人間として仕事をしていくという夢を何一つ疑いえないほど批評というものは盛り上がっていたのは確かなのです。しかし、ゼロ年代の一連のカルチャー批評の潮流は10年代の中頃に急速に勢いを失っていきました。その崩壊は見えないところではっきりとすすんでいき、見えているところでは何が起きているかもわからないまま目の前のものがどんどん朽ち果てていき、そのすべてが終わる頃には、はじめから何もなかったようになっていたのです。あたかも、かつて人々が何かの目的でつくりあげた建物が廃墟になってしまい、もう誰もそこでの生活の様子がわからなくなってしまったように。

今回はここまでです。次回は、わたくしことでぃおんたむが大学に入学して初めて東浩紀と会話し、そして、どうしてゼロ年代批評のグルーブが消滅していったのかについて、ゼロ年代批評クラスタに近づきつつも離れていた私の観点からお話いたします。

次回も~サービスサービスっ。

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米原将磨

「カルチャーお白洲」お手紙回2022年8月(連載初回)

盛夏のみぎり、さやわかさま、「カルチャーお白洲」ご視聴者のみなさまにおかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。diontum(でぃおんたむ)と申し上げます。

チャンネル公開したその日から当番組が2年目を迎え、こうして視聴者のみなさまと顔を合わせる機会を、つくっていただき、さやわかさん、ありがとうございます。

この度は、「カルチャーお白洲」で初めて開催されるオフ会こと「正々堂々秘密の大集会」に合わせて、初めてお手紙を出させていただきました。拙い文章ではございますが、お聞きいただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、利発で聡明、ウィットに富んだお白洲民のみなさまが、長野県南北に別れた2つのサッカーチームが対立する背景にある抗争の歴史から、プラネタリウムの最新事情まで、幅広いカルチャーを配信してくださる名物コーナー、それがお手紙回です。しかし、意外なことですが、配信しているさやわかさん自身については、私がお手紙回を聞いた限りでは、実はどのお手紙でも語られたことがありませんでした。カルチャーについて語るさやわかさん自身もまた、その来歴を考えると、カルチャーとして語るべき対象のように私には思われます。

そこで、今回はさやわかさんがwebゲンロンで連載している連載「愛について──符合の現代文化論」について、実はまだ読んでいない、あるいは、「読んだけどそんなに内容を覚えていないかも……」というお白洲民のみなさまにご紹介するかたちで、「カルチャーとしてのさやわかさん」について説明しようと思います。

このお手紙では、「カルチャーとしてのさやわかさん」として、「カルチャーを語ってる人のカルチャー、つまり、カルチャーを語るカルチャーがあるとしましょう」という、ちょっとメタな視点を導入します。さやわかさんは、カルチャーについて語るのと同じくらいに、カルチャーを語る人についても話題にする人なのでこれはご納得いただけると思います。最近でも、「サブカルチャー」をめぐる暗黒の歴史について配信していましたね。では、さやわかさんはどんな「カルチャーを語るカルチャー」の中にいるのでしょうか。いつか書かれるさやわかさんについての批評では様々な観点が提示されるひとでしょうが、今回は、時代という観点を取りましょう。「カルチャーお白洲」でも「理論編(ノウハウ #10)「さやわか式・資料の読み方、集め方、あと管理」④~超重要!年表を作るノウハウ」(https://shirasu.io/t/someru/c/someru/p/20210824214437)で、年を整理することの重要性やクリエイティブな側面が語られていました。今回は、ひとまずゼロ年代に書かれていたさやわかさんの文章に注目して、「ゼロ年代から10年代にかけてのカルチャー批評のカルチャーに関わっていたさやわかさん」、という観点から、「愛について──符合の現代文化論」を説明したいです。なぜ、ゼロ年代かについては、あとでご説明しますが、ざっくり2000年から2020年までの20年の年表をみなさんの頭の中に用意していただけますと幸いです。いち、に、さん、はい、もうみなさんの頭の中に20年の間にあったカルチャーとして大事なコンテンツや事件が頭の中に思い浮かびましたね。それを心にとめながら、次からのお話を聞いていただけますと幸いです。

まず、「愛について──符合の現代文化論」の連載が始まった年を確認しましょう。連載が始まったのは、2019年10月でした。2010年代が終わる最後の年です。この年は、戦後のカルチャー史においてとても象徴的でした。2010年代のコンテンツにおいて、とりわけ重要だったMCUシリーズの区切りとなる作品『アベンジャーズ/エンドゲーム』が公開され、2010年代が見事に総括されました。そして、「愛について」の第一回は、「(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」というタイトルがつけられました。

しかし、いまこのタイトルを聞いた多くのみなさまが、「「愛」と「符号」?、配信の中で聞いたかもだけど、なんだっけ」と思ったかもしれません。そこで、まずはタイトルの意味について説明させていただきます。

愛について語ろうとするこの連載の副題には「符合の現代文化論」とあります。つまり、「符号」というさやわかさんの設定したテーマに沿って「愛」が論じられているということです。そこで、「符号」が何かについてさやわかさんがどう定義しているのか見てみましょう。

つまり筆者が考えたいのは符号、すなわち、記号が意味へ対応するメカニズムについてではない。私たちが記号的な事象に対して意味を対応させてしまう行為、それ自体についてだ。

(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」より引用 https://www.genron-alpha.com/gb042_01/

もともと記号というテーマは、『ゲンロンβ』39 号(2019年7月)初出の「記号的には裸を見せない──弓月光と漫画のジェンダーバイアス」(https://www.genron-alpha.com/gb039_03/)がもとになっていたのですが、2016年の『キャラの思考法』でも部分的に類型的な背景や設定の記号性が論じられていました(「打ち上げ花火を、今なお、どう見るべきか岩井俊二とポストセカイ系の解決」『キャラの思考法』)。ただし、すこしまだ分かりづらいので、ここで記号の具体例をあげてみましょう。

夏の田舎道、青空と夕暮れ、友達と行く夏祭り、学習教材、駅までしか行けなかった逃避行、夜のプールに着衣のまま飛び込む少女

『キャラの思考法』kindle版より引用

私はいま、単語の羅列しか並べていませんが、みなさま、何かを想像しましたね。「夏の田舎道」は、文字通りにとると、特定の季節の特定の場所についての情報を意味するものでしかないです。それにもかかわらず、あなたは何かの歌や、何かの登場人物を思い浮かべました。そのように、ただの記号に方向性の定まった想像をしてしまうような、そんな対応づけをさやわかさんは「符号」という言葉で提示して、こちらのほうをより議論をするべきなんだと提示しています。以上が「符号」についてのご説明です。

次に、連載タイトルの「愛」について説明します。さやわかさんは、初回で愛について次のように定義しています。

この連載には「愛について」とタイトルを付けた。筆者は、この偏執的なこだわりを、人間のごく当たり前の感情、愛に類するものとして語ろうと思うのだ。【中略】強い執着が、私たちを分断に導いている。ならば私たちはその愛情、記号と意味の一対一の符合に耽溺するのでなく、その符合を読み解き変形するようなリテラシーを作るべきではないか。

「愛について──符合の現代文化論(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」より引用 https://www.genron-alpha.com/gb042_01/

符号はさきほど見たように、特定の対象に特定の想像をする行為です。さやわかさんはこれを「強い執着」と表現しています。さやわかさんによると、カルチャーについて語る時、語るその人が「愛」を表現することは、たいていの場合「執着」にすぎないそうです。確かに、オタクとかマニアって「おまえはわかってる」とか「あんたはわかってない」とかすぐに言いがちですが、これってようは、執着しているか、執着していないかだけを問題にしているのと同じということです。そして、さやわかさんは、記号によって対象を結びつける符号から生まれる愛を競い合うのではなくて、その愛が発生してる文脈や環境に目を向けましょう、と言っています。

この考え方は連載の中で発展していきます。連載の12回目で、「愛」はあらためてこう定義されました。

人々は古い意味の符合にとらわれない、流動的なコミュニティを欲するようになったが、それは責任を回避できるという意味ではない。責任を持って、新しい符合を他者と分かち合う態度、それこそを、筆者は改めて「愛」と呼びたい。

「愛について──符合の現代文化論(12) 新しい符合の時代を生きる(2)符合の責任論」より引用 https://www.genron-alpha.com/gb070_05/

いきなりこれまでの文章にない言葉のでてくる引用をしてしまい、ごめんなさい。整理します。はじめ、「愛」は執着する感情全般について考えるものでした。愛はとても大事ですが、執着は「わかってる・わかってない」論争を生み、みんな冷静に話ができなくなってしまうので、愛を読み解くためのリテラシーが必要だとされていました。次に、さきほど引用した連載の12回目では、自分が執着する行為を一歩引いて理解して他人とわかちあい、それに責任をもつことのほうがむしろ「愛」とよべるのではないか、とさやわかさんは提案しています。わかりやすくするため、最初の執着としての愛を「執着の愛」として、後者を「責任の愛」とします。そうすると、実は、連載タイトルである「愛について」の「愛」とは、「執着の愛」と「責任の愛」という2つの要素で構成されているといえます。「執着の愛」だけでは、その人は、記号にともなった符号化の行為については無自覚です。「責任の愛」では符号化に自覚的になり、かつ、ここが重要なのですが、他人とそれを共有する、ということです。たとえば、前者は引きこもって、ネットだけが世界で、レスバトルでしかコミュニケーションできない感じがするのに対して、後者は引きこもりをやめて外にでて、他人と、つらいけどなんとかコミュニケーションしている感じがしますね。こんなふうに、2つの愛が渾然一体になっているのが普通の人のカルチャーへの関わり方で、たぶん批評することとは、後者の「責任の愛」なのかもしれません。

そんなこんなでタイトルの説明をするだけでもう4000字近くになってしまいました。次にさやわかさんは連載の中で、家族のような「共同体」やセックスとジェンダーの「性」といった、えてして「執着の愛」に還元されがちなテーマについてフォーカスを当ています。広くマイノリティ表象が課題とされている現代で再度取り組むべき重要なテーマを扱っているといえるでしょう――、なんていうまとめを、私はしたいわけではありません。

私はこうしたテーマを扱っている裏に別の文脈を感じとっています。というのも、「共同体」も「性」のテーマも、ゼロ年代批評シーンで、宇野常寛など様々な人がさかんに取り上げ、どこかゼロ年代的なテーマ、宇野さんの著作のタイトルをそのまま借りると、まさに『ゼロ年代の想像力』のうちにあるようなテーマを思い出させるからです。ところで、さやわかさんは「webスナイパー」というネットメディアで、『ゼロ年代の想像力』の単行本が発売されてまもない2008年の8月に『ゼロ年代の想像力』の書評を掲載していました。「愛について──符合の現代文化論」を読んでゼロ年代を思い出した私は、たんに妄想しているだけではなさそうです。

といったところで、年代が急にさかのぼってしまったので、みなさん少しだけ注意してください。いまは2008年の話をしています。この頃、ゼロ年代批評の議論は、「決断主義」といった勢いの強そうな言葉を中心に語られていましたが、そういった議論は、この本に基づいていました。そして、さやわかさんは書評の中で、次のように2つの課題を指摘しています。見取り図はいいけれど、(1)自身の指摘したゼロ年代コンテンツの課題を解決するようなコンテンツが提示されているが、説得力のある議論ができていない、(2)広い読者とわかちあえるような議論になっていない。以下では、この2つの課題を、さやわかさんが自ら引きうけているということをお話できればと思います。

(1)の具体例をあげます。さやわかさんは、ゼロ年代的なものを超えたコンテンツとして著作の中で評価されていた、2003年放送の宮藤官九郎脚本のテレビドラマ『マンハッタン・ラブストーリー』が当時の視聴者に拒絶された事実を宇野さんが重くみていない、と指摘しています。次のとおりです。

宇野はポスト決断主義的であると考えられる作品に独自の読みを行ない、その可能性を示せているとは言えるが、しかしそのような「新しい」作品が事実として視聴者に拒否されてしまったのであれば、宇野がここまでに展開してきた文化社会学的な検証のスタイルから見て、説得力を失うものである。宇野はこの視聴者からの拒否という事実を、もっと重く受け止めるべきだったのではなかろうか。

「時代を切り拓くサブ・カルチャー批評『ゼロ年代の想像力(早川書房)』」【前編】」より引用。http://sniper.jp/011review/0111book/post_1045.html R18記事へのバナーがでているので閲覧時にはご注意ください。

「文化社会学的な検証のスタイル」とは、「みんなが好きなものは、社会の全体像を示しているってことを前提にしてコンテンツの成立する社会的背景を説明をしました」、という意味です。確かに、宇野さんはずっとみんなが好きなものについて話してきたのに、みんなが好きにならなかったどころか拒絶したものを肯定的に評価したとしたら、その意味はよくわからないですよね。宇野さんは、消費者がどう考えたかよりも、自分の価値観を優先させてしまったと言えるでしょう。このことは、『ゼロ年代の想像力』の随所にみられる、ネットが一般的ではない時代に、ネットでしか知り得ない情報を無自覚に前提としているような書きぶりの閉鎖性についても同様に指摘できるでしょう。さやわかさんは、その閉鎖性について、「彼らにとっては「ゼロ年代の想像力」について考える前に、ほとんど「宇野常寛の想像力」についていけない、ということになるだろう」(「時代を切り拓くサブ・カルチャー批評『ゼロ年代の想像力(早川書房)』【後編】」より引用。 http://sniper.jp/011review/0111book/post_1044.html R18記事へのバナーがでているので閲覧時にはご注意ください)と、批判しています。

勘の鋭いお白洲民のみなさまは、この批判が、「符号の現代文化論」でも継続していることにお気づきかと思います。宇野さんはみんなが好きなもの、執着しているものについてそれがどんな記号なのかを、ひとまず「決断主義」といった難しい言葉を使って教えてくれます。でも、『マンハッタン・ラブストーリー』とかネット論壇のような、自分が出してきた好きなものの例について、なんでそれが大事なのかぜんぜん読者と分かち合いません。そして、仮に「決断主義」とかいうものが好きな、あるいは共感できる消費者が、それが好きである理由を消費者がどう考えるべきかも、別に議論されていないのです。私の言葉で言い換えれば、「執着の愛」については饒舌で、「責任の愛」については沈黙しているのです。しかし、当時のさやわかさんは次の引用のように、ご自身でもこの課題をコンテンツと消費者に基づいて解決する方法が見えていなかったようです。

しかしまた、宇野が見出した、現在においては真正な物語を峻別することではなく、物語への態度、つきあい方を考える必要性こそが重視されるべきだという本書において提出された課題はいまだに残されたままだ。

「時代を切り拓くサブ・カルチャー批評『ゼロ年代の想像力(早川書房)』【後編】」より引用。http://sniper.jp/011review/0111book/post_1044.htmlR18記事へのバナーがでているので閲覧時にはご注意ください。

とはいえ、10年代を通じてカルチャーに向き合ったさやわかさんには、「物語への態度、つきあい方を考える必要性こそが重視されるべきだという本書において提出された課題」を、いまや符号という言葉を使うことで語っています。「物語への態度、つきあい方を考える」とは、自分がその作品の中の記号を読み取ってしまう行為について考えることにほかなりません。このように、長い月日が経っても、自身が批判した事柄の本質に向き合い続けて、ゼロ年代的なテーマに対する符号を私たちと分け合っているのは、「責任の愛」と呼べるでしょう。「愛について」語る責任を、まさにさやわかさんはここで引き受けているのです。一方で、宇野さんはというと、宮崎駿・押井守・富野由悠季を2017年に刊行された『母性のディストピア』で論じ、最終章も「「政治と文学」の再設定」といったように、旧来の文芸批評に回帰していくだけで、『ゼロ年代の想像力』で積み残した課題についてはいまいち関心すらないようです。私はこの点について、深く残念に思います。

さて、「愛について──符合の現代文化論」をどうしてみなさんがお読みになったほうがいいかは、もうおわかりいただいたと思います。ここに連載初回「(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか」のリンクを貼っておくので、ぜひ読んでみてください。

https://www.genron-alpha.com/gb042_01/

また、最初の目標であった「カルチャーを語るカルチャー」としてのさやわかさんについても説明できたと思います。ゼロ年代批評というカルチャーの中で「責任」という、あまりにも当たり前過ぎてかえってゼロ年代批評には存在しなかった概念を導入したあと、この連載がどう展開していくのか、目が離せませんね!

というわけで、以下は余談、ささやかな追伸です。

この連載が始まった時から、私はさやわかさんのyoutubeの配信を見るようになりました。いつしか、それはシラスのチャンネルになりました。シラスから始まってからというもの、私の人生に、カルチャー薔薇色時代が始まりました。「カルチャーお白州」で紹介されるいろんなお話が楽しいですし、配信で劇団「普通」を知ることができて本当に感謝しています。もう「カルチャーお白洲」がない頃の生活が信じられないほどです。でも、配信を聞きながらずっともやもやしていたことがあります。「あの連載を読んでゼロ年代批評を引き受けていると思っているのなら、自分が10年代の批評に少しでも参加していたことを引き受けて、自分の責任を果たさないといけないのではないか」、といったようなずっしりと胸の底にたまるような感情です。とはいえ、私も生活に疲れ、そして悩みすぎて批評することをやめ、すっかり批評同人誌からも引退し、ほそほぞと生きていくだけでした。

「カルチャーお白州」が始まって1年と半年が経ったゴールデン・ウィーク、ひょんなことから、シラスのチャンネル「生うどんつちやの「シラスの台地で生きていく。」」の配信をしている第二期「ひらめき☆マンガ教室」受講生の土屋耕児郎こと土屋耕二さんの経営するうどん屋さんに数人のシラス視聴者のみなさんと一緒にお伺いすることになりました。そこで焼酎「佐藤」のうまさに感激して一升瓶を半分くらい飲んでしまった限界状態のときに土屋さんのチャンネルで、深夜から配信が始まりました。配信が始まると、「ひら☆マン」受講生のみなさまもご存知のある方が、土屋さんに見事なインタビューをはじめました。

さて、だんだんと私の意識も朦朧としていくなかで、なぜかトークテーマが「愛」となっていました。素晴らしいインタビューをしていた方は、私から「多少何かは引き出せるだろう」と思ったのか、私に質問していただいたのですが、酔っ払った私は、「なんでそんな難しいことを聞いてくるんだ」とまったく理不尽に怒り出してしまいました。泥酔、良くない。なぜかそのときの配信を見ていたさやわかさんにもコメント上で仲裁に入っていただき、事態は収拾されました。落ち着いてから、その方に「さやわかさんの愛についての連載は、どういうふうに読んでるんですか」と質問していただきました。私は間髪入れずに「神だよ」と答えました。それに対して、「中身については?」と具体的な点を深堀りする質問をしていただいたのですが、そのときは意識も怪しかったため、ぐだぐたになってきちんと答えられませんでした。でも、おそらく今日のお手紙で十分に「愛について──符合の現代文化論」がいかに大事かを語ることができたと思います。

私は生きている間に、こんなふうにして自分の人生の一部を形作ったものに責任を引き受けてくれた人の文章を読むことができて、死なずにいて良かったです。また、自分が10年代にした仕事にも責任をもつべきだということを思い起こさせていただきました。私も昔の批評を見直して、今の関心も加えて、リライトしていこうと思います。こんな気持にしていただいて、さやわかさん、本当にありがとうございます。

いろいろ話してきましたが、拙い文章をお聞きいただいたお白洲民のみなさま、こんな長文を読んでいただいたさやわかさん、本当にありがとうございました、というか、長くてごめんなさい。でも、このお手紙はもともと三部構成3万字のお手紙を2万字に短くしたけど、2万字も長いというわけで、第三部だけを再編集してすっごく短くしたお手紙なのです。もとのお手紙では、私が2010年代のはじめにゼロ年代批評とさやわかさんを知った頃のことや、ゼロ年代批評シーンが崩壊していった過程とその理由が書いてありました。このままどこにも発表しないのものもったいないので、お手紙回のお時間をお借りして連載させていただこうかな、などと考えています。もしもご感心あるかたは、来月からもう少しだけお付き合いいただけますと幸いです。また、さやわかさんには、来月から、もうちょっとだけ私のお手紙をお読みしていただきます。今後とも何卒よろしくおねがいします。それでは、みなさま、今日のオフ会を引き続きお楽しみください。また、今日という日を迎えた「カルチャーお白洲」が末永く続きますようにお祈ります。「愛は祈りだ。僕は祈る」。ご清聴ありがとうございました。

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Diontum Project

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ネットで自分が見ている範囲で、議論が起きている点について、他の多くの人が言及していないものもここに記録しておこうと思う。

新刊の岩波文庫の『新約聖書外典ナグ・ハマディ文書抄』では、コプト語とギリシャ語のどっちの訳をとるかの話で、トマスによる福音書の語録7の主語について専門家の間で意見が分かれているらしい。

https://twitter.com/so_miyagawa/status/1485277442432712704?s=21

Damon Albanがテイラー・スウィフトを自分で曲を書いていない、とジョークを飛ばしてスウィフト本人が当然激怒。ぜんぶ自分で書いてることを前提にジョークを飛ばしたのかもしれないが、ビリー・アイリッシュを引き合いに出したレベルの低いジョークだったらしく、舌禍もやむなしか。

https://twitter.com/taylorswift13/status/1485714265675812866?s=21

磯直樹の認識と反省性を読み終わる。ブルデューの界概念はブルデューを援用した文学理論ではほぼほぼ違う意味になっているらしいことを確認。本としては、ある意味で勉強になった。自分なら、こう論述するな、という箇所がたくさんあり、自分の研究論文にも活かしていきたい。