この記事で書いた通り、私はTwitterに人々が信じるような価値があったのはそもそもわずかな期間でしかなく、それは規模の拡張のために失われていったと書いた。多かれ少なかれ、人々の集いの場とはそういうものである。少人数の集まりに感じられた豊かさは、無料や使いやすによってその豊かさだけを欲する人を自然に呼び寄せる。そして、それに対応するために、集いの場を色々な方法で改善しようと努力する。その結果、元の場所はなくなり、同じ名前の別の場になっていく。あるいは、別の名前の同じ場所になっていく。こうした場合、最初の頃からいた人は、みんなこんなふうに言う。「この場所の良さは、最初の頃にあった、あの性質なのだ」。しかし、それはもう存在しないし、そこまでいうなら、場を維持する努力を具体的な形でしてこなかったではないか、としか反論されないだろう。
他にも、2010年代後半のTwitterに公共性があるといっている人がいた。私にはほとんど理解できない。公共性があるということは現実に近くなるということであり、そんなものであるくらいならむしろ現実でいいのでないのだろうか。逆にいうと、そんなにもTwitterだけが現実になってしまうような世界で私は生きてこなかった。Twitterに公共性があるという主張をする人たちが正しいかどうかにももはや関心はなく、Twitterに本当に世界があると思っている人への心配のほうがつのる。