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米原将磨

みんなTwitterでものを考えすぎだと思う

この記事で書いた通り、私はTwitterに人々が信じるような価値があったのはそもそもわずかな期間でしかなく、それは規模の拡張のために失われていったと書いた。多かれ少なかれ、人々の集いの場とはそういうものである。少人数の集まりに感じられた豊かさは、無料や使いやすによってその豊かさだけを欲する人を自然に呼び寄せる。そして、それに対応するために、集いの場を色々な方法で改善しようと努力する。その結果、元の場所はなくなり、同じ名前の別の場になっていく。あるいは、別の名前の同じ場所になっていく。こうした場合、最初の頃からいた人は、みんなこんなふうに言う。「この場所の良さは、最初の頃にあった、あの性質なのだ」。しかし、それはもう存在しないし、そこまでいうなら、場を維持する努力を具体的な形でしてこなかったではないか、としか反論されないだろう。

他にも、2010年代後半のTwitterに公共性があるといっている人がいた。私にはほとんど理解できない。公共性があるということは現実に近くなるということであり、そんなものであるくらいならむしろ現実でいいのでないのだろうか。逆にいうと、そんなにもTwitterだけが現実になってしまうような世界で私は生きてこなかった。Twitterに公共性があるという主張をする人たちが正しいかどうかにももはや関心はなく、Twitterに本当に世界があると思っている人への心配のほうがつのる。

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米原将磨

From Twitter to X

自分はなんとも思わなかったが、人々が熱くいろいろ語るのに驚いた。ITサービスはいろいろ変わる。そういうものでしかないし、そう思って付き合っていくしかない。

私はTwitterを15歳の時から使っている。いま活躍している研究者たちが30代になった頃にTwitterを使っていて、それを読むのが楽しかったが、サービス利用者の拡大に伴うコスト増大と、利用者増加に伴うサービス性質の変化があり、そもそもマスクの登場以前から、とっくに2008年から2014年くらいまでの6年間のTwitterのセミクローズドな雰囲気は失われて、私はそれ以降、情報収集や宣伝として以外にはサービスを使わないようにしてきた。とはいえ、懐かしむ気持ちもない。それは、ただ単にそういう時代があったということに過ぎない。

永遠に制約のない無料なものは存在しないし、思い出を過度に美化してサービスと一体化することもない。単に、企業としては心配だが、全ては資本が解決するかどうかを見届けたい。あるいは、ロケットを宇宙に飛ばすよりも、SNSの経営は難しいのだろうか?