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佐藤正尚 南礀中題

12/21

ウエルベックの新刊のタイトルがもう出ているかな、と思ったら3日前に公開されていた。オフ会に行っていたので気が付かなかった。anéantir 。ウエルベックを集約したような単語だが、どんな内容なのだろうか。あと、邦訳の表題はどうなるのだろう。熟語だけのタイトルだと良いな、と思う。

仕事を上がった後、中国語の授業の打ち上げで、広東料理の店へ。事前予約しないとほぼ入れない謎の人気店。馬場の近くの店・紹仙房の経営者が少しの間、故郷に帰っているので、もとは巣鴨にあった店の華姐私房菜が一時的に店をやっているそうだ。贅沢な家庭料理、といった広東料理がでてくるのだが、これが恐ろしくうまかった。魚醤や鶏ガラのスープと見知らぬ香辛料(五指毛桃など)が、味付けがしっかりされたもみじ肉を噛むとじんわりの舌に広がり、香ばしい甘味が印象に残った。中国語のできる方は、予約メニューがあり、これが尋常ではなくうまい炊き込みご飯なので、ぜひおすすめしたい。しかし、うますぎて食べすぎ・飲み過ぎだったので要注意。ちなみに、4人で食べてビール三瓶・紹興酒1瓶で1人2500円程度だったので、本当にお得だった。

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12/20

仕事終わり、Dear Evan Hansenを池袋で鑑賞。想像以上に良い出来だった。コミュニケーションとは自分について自分の中で完結して話しているはずなのになぜか他人に向かっていくために、様々な軋轢と調和を生むということを瑞々しく描いていた。ベン・プラットの演技も大変見事で、いかにも運動ができない人の走り方、手汗を気にする描写、早口になって頭を振ってしまう仕草など、細部の演技が素晴らしかった。最近ではVFXがミュージカル映画ではかなり多いのだが、この映画ではほぼなかった。それも弱点とはなっていなかった。演出効果としては、最初のシーンがエヴァンの自殺の試みだった、ということが本人の語りによって明らかになるまで執拗にリフレインされるシンプルなものしかないが、劇的な筋運びに対して抑制の効いた演出になっていた。コナーになりすますことができたのも(映画ではしたかった、という欲望が語られるのみだが)、自分自身が自殺しようとした人間なので可能だったということがわかりやすく説明される。こうした手法は多くミステリで用いられるものだが、この映画では、コナーが自殺した理由については、実のところ全く不明であり、それは問題になっていない。そうではなくて、むしろエヴァンがなぜコナーになろうとしたのかが解き明かされるという話なのだ。私は、自殺に対して真摯な描写だと思う。なぜなら、生き残った者ができることは、自殺した者について本当に知ることはできないことを知ることだからだ。

ミュージカルの脚本の頃からそうだったのかもしれないが、実際、この脚本は自殺した人間の周囲の者たちの反応自体について、批判的な言葉を投げかける登場人物や、自殺した者に共感する者たちの暴走を描いている。この物語を見ることで鑑賞者にかなり心理的な負担を与えるのは、自殺に関心を持つ者全体に対する容赦のない批判的態度ゆえだろう。自殺について語るだけで、語ることができない空白を勝手に埋めてしまう。しかし、母が子に伝えた歌にもあるように、 「私には埋められないかもしれないところがある」(“There would be space I couldn’t fill”, So Big/So Small)だけで、わたしたちはそれを埋めようとすることの価値を明確にするのもまた、この物語なのだ。

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12/19

二日酔いはひどくないが、疲れたので昼頃起きて長風呂。同志少女よ敵を撃て、を読む。力作だった。熱源といい、日本ではアレクジェーヴィッチが広く読まれて以来、赤軍女性兵士の話が多い気がする。

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12/18

国威発揚ウォッチのオフ会に参加する。長時間だが楽しかった。朝7:00頃に帰宅。

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12/17

朝から底冷え。

仕事でトラブル対応。散髪の予定があったので、美容院の待合室に早めに向かい、仕事。年内最後はパーマをかけた。

洗濯物を部屋干しして、早めに寝る。

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12/16

大学で休学届けに印鑑をもらい、届けの書類にアドバイスをもらう。コロナのおかげでオンライン提出がいろいろ進んでいて助かる。生協会員も延長した。帰りに10%オフで批評の教室を買う。

仕事帰り、贊記茶餐廳で家人と食事。美味しすぎて食べすぎる。香港のミルクティーはお菓子の甘みを際立てるために、苦く、香ばしい。非常に好みだった。また行きたい。

夜、批評の教室を読み終わる。読者受容論をかなり肯定的に押し、フィッシュ的な教育の重要性をだすのはこの手の書物の最近の流行りだが、ここまで徹底して実演しているのは珍しい。学際的に広がり、教育学的なアプローチも今後期待したい。

一点気になるのは、日本語の作品で一番長く言及されているのがごん狐だったこと。新美南吉の著名作で、教科書にも採用されているので知名度は高いが、どうしてこれにしたのかよくわからなかった。受容論重視で人々に知られている作品の方が良かったのだろうか。あと、殿様や城という表現があるから江戸時代以前、という断定もやや気になった。藩主のことを殿と呼ぶこと自体は江戸時代もあったと何かで読んだ。まぁ細かないことであり、30年代にしぼって背景を読んでいるので本質的な指摘ではない。

それより本質的なのは、解釈共同体モデルは、権威が手続的正しさに宿る点についてあまり触れていない点だった。その権威はえてして手続き的正しさの正しさについての権威的主体が生まれ、瞬く間に崩壊する。かつてのスターリンが書記長として一党独裁したのはまさにそういう背景だったはずだ。教室、という用語で学識と倫理的な正しさを兼ね備えた教員がその権威を担うわけだが、教員自体の持つ権威によって支えられる共同体はとても危うい。その点について、本書では自分が好きだと思うことをどう肯定するのか、といった議論で補完していたわけだが、それで十分なのだろうか。好きに権威は宿らないのだろうか。北村メソッドは本人なら安全にできるかもしれないが、北村以外が広く行うのはどうすべきか。今後の著作に期待したい。

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12/15

面談の結果でる。自分にとっては残念だったが、何事も受け入れて今何ができるかを考えないと生きていけない。なので、とりあえず自分の思想と創造を養い、研ぎ澄ましていくことにする。先方にも末長い栄達を祈っている。

年末の研究会。来年抱負について語る。来年はとりあえず博論の最初のステップの審査を出してしまいたいと話す。全体的には、人文学の博士制度の持続不可能性について語って終わった。外国人留学生はだいたいゼミ関係者として結婚してビザを更新するという信じられない話、実家が太いので生活費の心配がない人たちの話、今後どうやって食べていくかの話など。私は、学振を蹴って働き出し、疲弊はしているが人生の本質な虚しさに向き合わずに済んでいる。そういう事例として、とっとと博士号をとりたい。人文学の博士号をとって世の中で働くことに意味があることを示さねば、この界隈に間違いなく未来などないだろう。

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12/14

中国語の授業が面白かった。

最近、テレビで年末ヒットソングトップ10のライブ(现场)があったそうだ。しかし、“抖音”(ticktock)などのショート動画(短视频)で話題だった音楽だけが選ばれてしまい、ネットが荒れた、という話だった。

中国では政治的な話以外では、意外とゆるいところも多く、中国語文化圏の音楽の現状を嘆く、といった炎上はわりと放っておいてもらえるらしい。検閲のコントロールもなかなかの技術に達しているようだ。

話を戻すと、授業で紹介されたブログ記事がなかなかの白眉だった。いわく、かつて中国で携帯電話が普及した際に一時的に大流行した“彩铃”と音楽の形式がまるで同じであり、まるでタイムトリップ(“穿越”)したかのようだ、というものだ。

“彩铃”は日本では馴染みがない。“彩铃”は、電話をかけた時に「プルルル」と接続音がなるのではなくて、30秒程度の曲の“副歌”(サビ)の部分が流れる。日本の着メロは受け手の着信音を変えられるのに対して、中国ではかける側が待つ時に音楽を流す文化が生まれた。この曲の設定は有料で、曲単位で3元の支払いが発生するシステムだった。“彩铃”のサービスは公開後に急速に大きくなり、2000万人規模の市場となった。もちろん、音楽産業はこれに乗り出した。“左眼跳跳”というヒット曲に代表されるように、印象的なサビだけにこだわり、他のフレーズは誰も知らないという曲が一時期流行した。

この流行はしばらくすると収束し、日本と同じようにMP3で作曲してネットで音楽を配布していたアマチュア作曲家がデビューするといった展開を見せていった。しかし、それを変える大きな出来事があった。SNSの発展だ。

中国では、当然検閲の関係で国内企業のSNSが国家主導で普及した。“微博”・“微信”・“抖音”などが挙げられ、とりわけ今回の話題の中心となる“抖音”は、中国の音楽市場に大きな影響を及ぼした。“抖音”では、“短视频”が大流行をした。ショートムービーでは、収録時の音声を削除し、音楽に合わせて簡単な踊りを披露する動画が流通した。そこでは、30秒程度で印象に残り、誰でもダンスができる、リズムを掴みやすい曲が大流行した。その結果、年末のライブイベントで、タイトルも歌手の名前もわからないが、なぜかサビだけは知っている歌手だけが10人選出されてしまったというわけだ。

ここで選ばれていた曲の拍数、調、周波数帯などを解析すると、“彩铃”時代の流行曲とほぼ同じだそうだ。10数年かけて音楽史が一周したように見えることを、“穿越”と筆者は呼んでいたというわけだ。他にも、曲のオリジナリティのなさについて、“抄袭”、つまりコピペという酷評もあった。

曲の分析では、歌詞について説明もなされていて興味深かった。中国語の歌詞は前後のつながりをとても重視する。古典の勉強で詩の勉強をさせられることもあり、かなり形式性を評価する。それは一方では詩の形式を狭めるが、もう一方では、人々にわかりやすい詩文を作ることに寄与する。七五調の歌がかつての日本で多かったことや、いまでも物語調の歌が多いのも似たようなものだろう。筆者によると、歌詞の観点からいうと、韻を踏んでいるものの前後のつながりがほとんどわからず、短いサビの間ですら何を言っているかわからないという。以下に例を示す。

我们一起学猫叫

一起喵喵喵喵喵

在你面前撒个娇

哎呦喵喵喵喵喵

https://zhidao.baidu.com/question/1388029789793064860

意訳すると、「私たちで猫の鳴き方を学びましょ/せーのでみゃおみゃおみゃお/あなたの前で思いっきり可愛く/ねぇねぇみゃおみゃおみゃお」だ。脚韻以外は猫の鳴き真似以外で音遊びする以外はただの音読である。短い時間で印象的なフレーズを作るため、2回目の繰り返しで“哎呦”と感嘆の音声を二つ組み合わせて音を無理に合わせていて、確かに何かを解釈できるようなものではない。一方で、ショートムービーには抜群に合いそうではある。

授業終わりに、来週は日本では年の終わりなので食事会になった。駅前の広東料理で中国語学習。あくまで、学習である。

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12/13

朝から客先。慌ただしい1日だった。

移動で読んでいた高群逸枝のカバネの記述が気になり少し調べる。族長を意味する韓国語、株根、骨、などそもそもカバネの由来は不明という点が気になる。日琉祖語からの復元ではどうなるのだろうか。気になる。

夜は面談。あっさり終わってしまい、いささか不安。家人と話して、人生万事塞翁が馬の心持ち。

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12/12

辻田正佐憲の防衛省の研究を読む。日本の敗戦後の予備隊から防衛庁の変遷や21世紀の防衛省時代について列伝形式で説明。列伝とはいえ、文部省の研究時と同様に、敗戦国の軍備のあり方を安全保障の観点からまとめていく快著だった。

文科省の研究では、理想の日本人像という形で戦後の国体について論じた筆者は、今度は敗戦後の軍備はどのようなロジックによって正当化されてきたのかをアメリカの影と旧内務省と軍閥の駆け引きによって見事に描いてみせた。国防という国体だ。日本の安全保障について考える上でも非常に重要な著作だと思った。

久しぶりの火鍋。美味かった。