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佐藤正尚 南礀中題

8月終わりまでの備忘録、聖徳太子とイサム・ノグチ、桜庭一樹の抗議をめぐって

前回から3週間経っていて本当に驚く。思い返すと、仕事のストレスでの心身の疲労と、博論の準備のためにずっとやっている校訂作業で長文を書く気が起きなかった。また、仕事で関わっている製品のトラブルが続き、いろいろなことにやる気を失ってしまっていた。とはいえ、備忘録をつけておく。

14日は久々に和裁に行った。夕方に散髪。次の日の日曜日、東博に「聖徳太子と法隆寺」展を見に行った。

展覧会は、飛鳥時代の仏教関係装飾物および文物が一堂に介していたので珍品を賞でることができた。モデルとなった人物が生きていた頃は、古墳時代からの歴史的連続性があったのだが、仏教文化の政治的な利用がその絢爛さや先進性によって喧伝されていったことが展示品からよくわかった。

私が感銘をうけたのは2つ。法華義疏と金属製灌頂帳だ。法華義疏が宮内庁から公開されているのをみて本当に驚いた。日本人の手による欧陽詢風の書体に影響を受けた仏典注釈書はなかなか見ることはないし、太子の直筆ではないのだろうが、大変貴重なものであるのは間違いない。

次に、当時の法隆寺の灌頂帳が金属製であったことも大きな驚きだった。黄金に輝く灌頂帳は、仏法の権威をいやまして高めたのに違いない。

ただし、展覧会のまとめ方はよくわからなかった。「太子信仰」が途中からの展示のすべてを貫いていたのだが、この太子信仰が結局は何かよくわからなかった。8世紀光明皇后の頃に端を発しているという説明もあったが、中世、近世を通じて法隆寺による太子の神格化と太子信仰の関係があまり掴めなかった。学説自体が整備されていないのだろうが、その曖昧さが展覧会半ばからの展示品の関係をわかりにくくしていたように思われた。しかし、いずにせよ、7,8世紀頃の仏像や四天王像が一堂に会した貴重な機会なので訪問されたい。事前予約以外では当日券が品切れだと入館できないので要注意(COVID-19対策のため)。

昼食を公園のスタバで済ませて、イサム・ノグチの展覧会もみた。若い人がたくさんいて、写真映えする提灯のディスプレイやインダストリアル・ミーツ・「ハンス・アルプ」めいた彫刻で記念撮影に興じていた。この収益で尖った展示ができるようになるのでもっとやればいいと思う。

とはいえ、展覧会としては私にはまったくよくわからなかったので、あまりに勉強が足りていないか、あまりにも説明不足かどちらかなのだが、おそらく両方だろう。ノグチはそもそもよくわからない。簡単に論文を読んでみても、どの文脈で何について革新的だったのかよくわからない。入門できるはずの展覧会は、日本にルーツをもつ神秘的な芸術家が日本の職人と出会って晩年の傑作をつくった、というストーリー仕立てになっていて、作品については何もわからなかった。ここ最近、おりにふれて美術を学んでいるので、そのマテリアルでこれを作るなんて変わっているな、くらいは思ったものの、そうした評価のしかたはしないようだ。音をあげて図録をみたが、いまいち不明だった。

帰りながら考えたこととしては、世界で初めて生前に個人の美術館を開いたこの美術家にはたくさんの愛好家・プローカーがいたはずで、庭石の再解釈でここまで財をなしたという戦後のアート・ビジネスを考えるうえで欠かせない作品という点で見ることができたのはよかったのかもしれない……、ということだった。

その後の2週間は倦怠感に苛まれて、書くことができなかったが、そのかわり生活を充実させることにした。長雨に備えて室内部屋干しを買い、コンロで沸騰させるタイプの安いエスプレッソマシンを買った。スーパーで安いがひどい味のするわけではない豆を購入して、深煎りした。コーヒー豆は驚くほど焦げやすいので手持ちの小さい鍋が少し煤けてしまったのだが、コーヒーを煎る器械まで必要なのかと悩んでいる。

そうこうしていると次土曜日が来た。たしか『宇宙へ』を読み切った気がする。その前の土曜日だったか。記憶が曖昧だ。22日の日曜日は一日ぼうっとして、夜に昔お世話になった先輩方とZOOM飲み会をした。フランスの都市部では、ワクチン接種がずいぶん前に行き渡っていて、パリの郊外ではマスクをしていないのが普通だそうだ。まだカフェに積極的に行くことはないそうだが、友人を自宅に招いて食事をすることが一般的で、そうした形で日常的な生活が復帰しているらしい。郊外と都市部で生活のパターンが異なるので感染流行の拡大についてもいろいろ事情が違うのだろう。

平日には特筆すべきことは何もなかった。28日土曜日に和裁にいき、裏地と表地の裾を縫った。29日日曜日は、ワクチンを2回打ったということで、友人とドライブに出かけて、海辺を走った。今日はどうしても冷麺が食べたかったので、新大久保のコサムでビビンバ冷麺を食べた。このうまさを求めていたので、本当に満足だった。

思えば、8月はいつも無気力である。暑さに本当に弱く、体調を崩しやすい。とくにいまの家は外気の温度をあまりにうけやすく、家の中の寒暖差が大きく知らず知らずのうちに体の負担がたまっていて、夏バテしているのだろう。

なのでツイッターの更新もほんどしていないが、桜庭一樹による時評(書評)撤回通告の事件はかなり驚いたので、いろいろ書いてしまった。「創作」のあらすじに「事実誤認」があるという主張は、かなり著者本人にとってリスクなはずだし、引き換えに非難対象の掲載会社と契約打ち切りを言い出しているだからすごい。また、この件について文学研究者や批評家が作者の権能と読者の権利の話に終始しているのにも驚いた。これは、商習慣上契約書のかたちをとらないことが多い業界で機能している信頼をかなりないがしろにしていることのほうが問題な気がする。

こうした観点を持った理由は、次の通りである。私はITのエンジニアを100人ぐらいフォローしていて、その中のひとりがこの話題にも触れていたのだが「著者が違うといっているから撤回すればいいのに面倒な業界である」といったことを指摘していた。「面倒な業界」という点以外はまったく的外れである。こうした手合いにわかりやすく説明すると、桜庭の主張はSLAも契約して、UATも完了したのに、検収間際になって「リスク管理の問題で役員の一人がダメ出ししたのでまだ支払いができません、弊社は何も確認しませんでしたが、この点について御社から事前に説明がなかったので支払いはできないかもしれません」と言っているのに等しい。どうしてそんな会社を信用できるのだろうか。

ここでSLAにあたるのが「創作」というカテゴライズで雑誌掲載をしたことだ。文芸雑誌では、何もカテゴライズしないで発表してもよいし(「寄稿」という掲載形式など)、反対にエッセイであることを明確にすることもできる。しかし、「創作」として掲載した場合、どれだけ事実に基づいていても著者確認をうけて適切な内容だと判断されることなく流通する時評などいくらでも書かれうる。というより、時評とはそもそも著者が確認するものではない。納品した製品についての評判を外部の人間に話すのに、いちいち納品した会社が確認しないのと同じことだ。

商習慣といったのは、ここに関わる。どんな作家だろうと、それが創作として発表された以上、時評では読み手の価値観が表明される。「創作」というかたちで著作物を文芸誌上に発表するということはそういうことだ。時評には編集者の手が入るので、いわば文芸誌共同体価値観を形成する。なので、先ごろある時評執筆者が作品を単に「つまらない」と評したのに対して編集者が掲載を拒否し、それについて何ごとか抽象的なことを言っていたが、この場合は単に評者が何も理解していない。編集者の時評についての仕事とは、この価値観を維持することだ。この価値観はそれ自体何の価値もない。しかし、文芸誌共同体の中で作品や作家を語る上での共通言語として機能する。稀に傑作がでてきて人々があらゆる場所でその作品について話すときに、その共通言語は広告資料となる。それがもうすぐ絶滅するかもしれない文芸誌を中心とした場合の小説文化を形成する一側面である。桜庭の行動はこうした価値観に見られる構造的欠陥を批判するのでもなく、「そのように他人にとやかく言われることの不愉快さ」に依拠して否を唱えている点が問題である。時評が書かれても良い状態で作品を掲載しているのは、いわばUATである。つまり、桜庭はSLAもUATも雑に済ませていた、と客観的にみて言わざるを得ない。桜庭ほどの作家であれば、そもそも文芸誌に掲載しなくとも、noteで有料掲載して多くの読者が購入して広く読まれただろう。わざわざ文芸誌を発表媒体に選んだのに、そうした行為に伴って発生する自身の責任についてあまりにも無自覚にみえる。桜庭は被害者のように振る舞っているが、桜庭自身は非常に影響力のある作家なので会社や時評を執筆した人に対して権力者として振る舞うことができるし、実際そのように行動を起こしている。

最後に、上記とは関係がない慨嘆を記す。人が自分の家族について不特定多数の場に書くことは非常に大きな責任と危険が伴う。それについて真剣に考えてSNSに投稿している人は多数派ではないだろうが、桜庭ほどの地位の確立した作家が、自分の家族について書くことの責任、危険、あとから生じるはずの様々な葛藤をきちんと考えていたとは思えない発表形式の選択や、契約打ち切りの一方的な通告をしている点にはつらいものがある。「砂糖菓子の弾丸は打ち抜けない」という家族のほころびと小さな奇跡について肉薄する傑作を著し、それ以後もそのテーマを大事にしていたと思われる作者のいまの振る舞いにただただ失望を禁じえない。

そんなことで気が沈んでいたが、なんとなく家にあった『あさきゆめみし』を読んで非常に元気がでた。その話はまたそのうちしよう。

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佐藤正尚 南礀中題

8月1日-10日

10日間何も更新できていなかったが、猫の世話のあとに猫ロスと夏バテのために仕事・研究・小説の執筆などのすべてにやる気がでなかった。10日の今日も眠くてしょうがいなが、コーヒーでつないでいる。

大きな話としては、4日ワクチン接種をして当日に39度程度の発熱をした。5日は休まざるを得なかったので寝て過ごし、途中での知り合いの献本(『)を受領しに大学へ。書籍部でメアリ・ロビネット・コワル『火星へ』を生協会員割引で購入。『宇宙へ』を読んでいなったが、短編The Lady Astronaut of Marsを偶然読んでいて、大変気に入っていた作家だったので購入した。『火星へ』は9日に読み終わったが、大変な傑作だったので、その場で結局kindleの『宇宙へ』を購入してしまった。5日では、『大麻の社会学』も購入した。グリーンインダストリーまでまとまった本と関係研究書が読みたかったのだが、うってつけだった。6日は朝5時過ぎにの起床して滋賀に出張してから夜に中国語。出張ということで出差を使って例作文。観光動画を作っている面白いBilibili動画など鑑賞。7日はワクチンと出張の疲れからか、和裁に行く元気がでなかった。というわけで、家をでずにこもっていた気がする。8日は朝6:00に起床して7:40からのイン・ザ・ハイツを家人と鑑賞。やっと見れたのだが、Broadway版とだいぶストーリーラインが異なっていて映画らしくなっていたが、大変よかった。帰りに、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』で描かれていたトルヒーヨ政権と移民の歴史について簡単に会話した。昼に海底撈で火鍋を食べる。もともとがクラブだったような内装で、定員のサービスも細かく、初めて火鍋行く人には楽しい思い出になると思う。しかし、巷子里头で簡単にさくっと食べるのが好きな私は二回行くことはないと思う。

午後からは、博多に転勤が決まった友人たちとだらだら話しながら家具の見回りをしていた。家人が使用しているNOCEなどいろいろ巡った。夜八時ほどに泊まるホテルで食事しながら雑談。MOROHAというデュオを教えてもらう。久しくこういう音楽を聴いていなかったのでかえって新鮮だった。朝3時まで話して先に辞して、タクシーで帰る。四時に帰宅。翌日は12時過ぎに起床。家人は共通の友人と会食があり、午後は別行動をした。私は運動がてら代々木周辺を散歩して平田篤胤神社を参詣。明治元年建立ということで、明治神宮北参道ルート周辺の開発など、調べればいろいろでてくるだろう。

今日は連休の疲れがどっとでている。伊藤穰一の騒動がまたきていて、解任するしないなどといっているが、MITML時代の業績は不明、というか保守政治家との付き合いがあって組織立ち上げに関わっているがマネジメントないしコンサルタントとしての力量も不明、初期アメリカITビジネスに携わっていたが別に最もラディカルだった頃のシリコンバレーで活躍したわけでもないので、そもそも大物業界ゴロのようなものだろう。この人をはじめ、ひろゆきとか、人選する側も何も知見も根本的な目標もなく、そもそもデジタル庁いくつかの文書データ化や規格統一プロジェクトを集中的にやりたいだけで、経産省とまた用語の不統一が著しくなり、ほとんどの事業が失敗する未来しかない。征矢泰子のいうところの「にぎりしめたてのひらのなかにあるのは いつも ふあん」(てのひら)。

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佐藤正尚 南礀中題

7月29日、30日、31日

29日は記憶がない。残業をしていた気がする。

30日は知人宅の猫のお世話のために外泊。数ヶ月ぶりに会ってみると、少し大人になったようで、ふだんはいない人間に好奇心をもって近づいてくることもなく、見に入ってむこうからすりよってくることはなかった。気持ちはよくわかる。夜まで親しくなれなかったが、寝室で一緒に寝て、31日の朝五時半に起こされたところあたりから仲良くなれた。

31日は、その後、長毛種で毛だらけになった廊下を掃除して、Melissa GreggのCounterproductiveを読んだ。猫を撫でながらCounterproductiveは最高に良い。

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佐藤正尚 南礀中題

7月28日までの10日間

あっという間に、10日たってしまった。

4連休の最初の2日は家具の搬入と模様替えをした。本棚を新しく作っているときに五輪の開会式をやっていて、ネットで中継されているノーナレのをみていた。コンセプトのなさ、ミーム化しているゲーム音楽、往年の野球選手、段取りがうまくいっていない雰囲気がするテンポなどいろいろ実物ではあった。小林賢太郎が一部演出していたというが、リークなどを参照するとほぼ全体に彼のアイディアが取り上げられていたのだろう。社内で開会式の話をする人がいて、「いろいろあったけど、あれだけできたのだからよかったと思う」といっていた。世の中では、悲しいことにそういう認識なのだろう。私は世界大会をちゃんと放送すれば五輪はまったく不要と考えている人なので、ただただ空しい。

24日土曜日渡仏する友人と久しぶりに会食。2年ぶりにあったが、元気そうだった。近況報告や新著のよもやま話。井の頭公園を散策し話すなどした。新宿で続き。ゴールデン街はわりと禁酒自粛に反しているようだった。電車がなかったのでタクシーで帰る。夏バテで体調が悪かったのか、帰り道で嘔吐してしまった。翌日掃除した。

25日は「やっとな会」で狂言を鑑賞した。野村万作がまだ現役で動き回りいい声をだしていることに驚愕した。野村万斉は本物をみると本当に顔がよくそのうえ舞で見事に体を統制していて、とにかく驚いた。また、素囃子「神舞」も聞けてよかった。音とりのタイミングがほとんどわからないのに素早い楽器さばきでみごとに調和していた。

家に帰って直木賞『テスカポリトカ』を読む。もともと純文学作家だったらしい。丸山ゴンザレスが最近ではよく紹介している世界観(実際、知り合いなのだそうだ)で、読み物としては面白かった。作品として水準が高い。ただし、最後の崩壊の過程がシステムではなく、人間どうしのエゴイズムがきっかけというのが個人的に読者に安心感を与えているようだった。個人の信仰の問題に焦点化することで、あら筋を焦点化して、物語を閉じる速度をあげることができる。犯罪はシステムで、そのシステムが結局維持されている結末に賛否がわかれるだろう。私の方といえば、とにかくすべてが崩壊していくほうが面白そうだったのだが、難しいと思われる。

26日から27日にかけて夏バテで何もできず。

28日は、ピアサポート会に参加した後、家人がなにとなくサマーウォーズを鑑賞しだしたので片付けがてら見ていると、あまりにもそばかすのなんとやらと似ていて、しかもこちらのほうが話のスケール大きかった。カット割も見事なところが多い。最近のものよりも脚本がまだ確かだった。家人の友人も中から混じって同時鑑賞し、細かいところいろいろ気になったが、最近のは本当にひどかったなと再認。友人らと深夜まで歓談。仕事に疲弊しているのでいいリフレッシュになった。

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佐藤正尚 南礀中題

7月11日から18日

11日日曜日に友人と小説を書いていた。本来はメインプロットだけ担当していた。向こうは会社が激務で9営業日間に実質11営業日働いていた。私といえば研究に時間を使っていて、本文ができていなかった。というわけで、一気に進めた。久しぶりに1日で1.2万字も書いた。児童文学である。缶ビールと缶ハイボールを飲みすぎた。

月曜日、ふと耳にしたコミュニケーション3.0を調べた。簡単にいうと、現在のオンラインを前提とした労働スタイルで生じるコミュニケーションはすべて3.0らしい。

つまりC3.0とはとにかく会社に行かないことである。会社に行かないことは本当に素晴らしい。万歳、コミュニケーション3.0。会社では細やかなコミュニケーションなど私は全く求めていないし、そのほかここで書くにはあまりある些事がなくて本当にいいと思う。そもそも、広い意味のペーパーワーカーの労働様式をコミュニケーションといいきるところには商売魂を感じる。繊細な社会学的な用語の定義も必要だが、いっそこれくらい思い切るのもいいだろう。事務的な会話の豊かさ以外、コミュニケーションは存在しない──。

もちろん、テレワークはそもそも人にあまりあわない。会社構成員の中心である40-60代の人間はオンラインを中心としたコミュニケーションに慣れていないし、いわゆる日本の「中間共同体」の変化に耐えられないだろう。また、若い世代ほど会社での人付き合いがよくない、という都市部での特徴があるが、これは若い世代(私もできれば入っていて欲しいが)は単に中間共同体が会社に準拠していない人が多くなっただけであり、上司も経済的にさして羽振りも良くなく、その会社にどのくらい長い間いるかもわかないから、価値を見出しづらい──、たいていのジャーナルのコラムに書いてある通りだ。若い世代は、酒を飲むかは知らないが、友人や趣味のつながりで頻繁に会食している。つまり、どの世代についてもオンラインのみでコミュニケーションを完結させるのは無理なのだ。一人で部屋にこもりっぱの人であれば、なにがしかの配信やオンラインゲームで共同プレイしている。しかし、そのような人はマイノリティだ。

「中間共同体」に関係すニュースといえば、合計特殊出生率の低下、新生児数の低下、世帯あたり平均人数の低下といった報道があった。それは驚くべきことではない。家庭をもつ人が減っているのだから当然だし、社会基盤は現在の40代後半から50代が握っているが、その人々の思考の習慣はあまりにも現状と合わなくなってしまった。青春が80年代ということはそういうことだ。そして、そのときの社会の中堅どころは、現在の六十代だ。日本の企業で硬直した経営しかできずに瓦解していった東芝や、今現在もゆっくりと崩れていくだろういくつかの企業の中心がいまどのような人々かを考えれば、そうした世代の声が強い自民党がなぜテレワークを支持基盤の企業に強制できないのかもよくわかる。しかし、そんなものはどこ吹く風。私は、自発的にテレワークに隷従する日々を楽しんでいる。そもそも、自分で作った会社でもないのに、コミュニケーションが仕事を中心に展開するなど、生涯不可能だろう。コミュニケーション3.0は存在しないし、そもそもペーパーワークは本質的にオンラインで対処可能な業務が多い。中国政府のIT志向も私はこんなところに所以があると思っている。文書管理機構として巨大な権力遂行主体を築いてきた伝統のある大国は、潜在的に情報技術に長けているのかもしれない。

火曜日、急に脇腹に筋肉痛のような痛みを覚えた。ふと左腕の注射した箇所をみると、上腕筋が赤く晴れていた。しかし、ときに何も困らないので、朝の6時から翌日の研究ピアサポート会の資料を作成した。仕事をサボって福島真人先生主催のオンライン研究会の末席で聴講しようと思ったが、急な訪問をする必要があり、参加できず。仕事が終わった後、雑多な読書。

水曜日、ピアサポでは博論の構想について話した。版の異同は重要だが、結局は修論のテーマをより深く掘り下げ、軸としてベニシューでいくことにした。修論では生活に余裕がなかったのでベニシューを腰をすえて読むことができなかったが、例の第三部の翻訳が年内にでるかもしれないし、でなくても原書が手元にあるので、なんとかなるだろう。

木曜日は疲れていて、酒を飲んだ。寝る前にNetflixでバイオハザードを飛ばし見。微妙だった。英語の聞き取りとしては簡単だったのでよかった。ちょっとづづみているトレセもみた。思いの外、トレセは良い。主人公はクールだし、支える周りの人間との交流も抑制が効いていて、ドラマのストーリーラインが主人公の因縁に関わってくることをよく描写できてよかった。あと、フィリピンの怪物の可愛さも。アクション描写もこの作画のものにしてはどんどん良くなっていると思った。10年後くらいに何かすごく面白いものを作っているかもしれない。徹底的にローカルであることで、人は普遍に飛躍する契機を手に入れる。みんな、トレセをみよう。

金曜日はワインを飲んだ。『これからヴァギナの話をしよう』と『哲学の女王たち』をようやく読み切った。大変優れた2冊だった。

『これからヴァギナの話をしよう』は、内容の充実は言を俟つまでもなく、リン・エンライトの書きぶりがとにかく冴えている。翻訳の小沢身和子の技量の高さもあるのだろう。さて、私はこの手の本を読むたびに思うのだが、男性が読んだ方がいい。私は最初、スキャンダラスでなく、かといってアガデミック色が強くないこの手の本を管見ながら知らなかったので、気になって購入した。筆者自身の経験を反映した強い主張の部分は読者で同じ身体を抱える人でも判断が異なるだろうし、統計では恣意的な引用も感じられるところ(オランダの性教育のデータについての紹介部分など)をのぞけば、大筋の違和感については誰でも首肯できるように丁寧に説明されている。まさに女性がヴァルヴァとヴァギナにまつわる心配事をお互いに気軽に語ることができない社会の文化風習の構築によって、自身の身体の管理する知識と力を奪われ、男性の産婦人科医師が診断し、ときに「痛み」についてまったく無理解である、つまり女性であるということだけで奪われる「痛み」があるということ、その極北たるFGM、最後に更年期についての記述。時おり、私は具体的事例の深刻さに読んでいて気分がわるくなったが、残念ながらこれが社会の現実なのである。この本はそのほかさまざまな学びがあった。私は、私の無知と想像力の貧困さを教えてくれるこうした書物に出会いたいと常に願っている。

『哲学の女王たち』もまた、そうした本だった。ひとまず、イギリス系の執筆者が多いわけか、イギリス系哲学者が後半は偏っているような気もしないではなかったが、巻末にそのほかたくさんの哲学者がとりあげられていたので、継続的にぜひ紹介してほしいと思う。そう思って読み終わった後、エディート・シュタインの記事について私が以前から信頼しているフッサール研究者から以下のような指摘があった。

いかに続く指摘をみて、執筆者の肩書きを見直すと、少し悲しい気持ちになった。

ウォーリック大学で哲学を専攻する大学院生。おもな研究テーマは、形而上学と現象学の歴史で、ときにイマヌエル・カントとマルティン・ハイデッガーを対象にしている。

せめてフッサールを主に研究していれば──、と思わなくもない。というか、優秀な大学院生でなくても専門的な記述は常に難しいのであって、ここはピアレビューをしていてほしかった。正直なところ、臆見で先走ったと言わざるをえない。とはいえ、それでも私はいささか擁護したい。

原著を読んでいないので正確な表現はわからないが、Broughの功績を強調して「まとまったものはなかった」という点をいいかったのかもしれない。などと自分で言いつつも、表現が極端なので、この用語もきっと無理筋なのかもしれない。ということで、私はなあなあ路線でいきたい。これは見識のあるのライターがジャーナリスティックに記事を書いたのだ、と。BoehmとIngardenが指摘していたことを見逃していたかもしれないが、それでこの記事の価値が減じるかと言われれば、そうでもない。例えば、私は基本的に不勉強で無教養なので、フッサールの『内的時間意識の現象学』はもちろんフッサールがほとんど書いたと考えていた。しかし、E. シュタインなしに、フッサールはこの本をまったく書けなかったわけだ。事実認識に問題が一部あるとしても、このことはフッサリアンか、それに匹敵する人しか知らないわけだし、彼女が書いた『有限存在と永遠存在』をぜひ読んでみたいと思った。これがこうしたスタイルの記事の力だろう。ちなみに、私はボーヴォワールの記事を読んで『第二の性』を買おうとしたが、本屋にいってもないし、日本の古本屋でも新品の仏語を買った方がましな値段になっていて驚いた。ブックオフで探してみようと思うものの、そもそも私が中学生くらいだと大きめな書店にはだいたいあった記憶がある。これが時代の流れか、という感じだ。

土曜日はいつものように和裁にいき、裏地を進めた。読書の寝不足のためか進捗が悪かった。帰りに家人と合流し、家具をみた。近所にできた新しい店でバーニャカウダーとラー油を購入。美味しかった。食事のあと、李琴峰『彼岸花の咲く島』を読んで、芥川賞受賞会見で切っていた啖呵にくらべて拍子抜けした。さやわかさんが言語SFと紹介していたので、その情報だけで読んでいれば「たまには面白い芥川賞もきたか」と思ったが、著作者本人の弁では、これは日本文学をアップデートしているらしい。しかし、控えめに言って、この著作のアイディアはラーメンズ『TEXT』「条例」と『ALICE』「不思議の国のニポン」の域を出ない(もちろん、「銀河鉄道の夜のような夜」での自己引用をふまえている)。文学でいえば、私はこの本を読んだ後、当然のように石牟礼道子『苦海浄土』完本を読んだ。圧倒的だった。冒頭から杢太郎少年がででくるまでの、和歌の借景、海の底にも泉が湧くという詩的表現ですでに『彼岸花の咲く島』の印象は消え去り、杢太郎の頸の匂いの描写で、その筆力にため息をついた。一体、李琴峰は何をアップデートしたのだろうか。今後に期待したい。

日曜日。今日。朝寝坊しつつ、馬場の鰻屋にいくが、人気すぎて店に入れず。いつものように張亮で麻辣湯を食す。『竜とそばかすの姫』をみた。『美女と野獣』がやりたいならもっと真剣にミュージカルをするべきだろう。歌詞の内容もストーリーをぼんやりとしかとらえていない。中村佳穂の優れた歌声と演技力や役所広司の声、アニメーションとしての達成など見所はあったものの、ストーリー構成が甘すぎて途中から内容がよく頭に入ってこなかった。帰ってこの記事を書いている。一週間が慌ただしく、備忘録も更新できなかった。ただ、今週もいい日々を過ごしたと思う。

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佐藤正尚 南礀中題

7月8日、9日、10日

ワクチン接種の翌日、腕の痛みは引いてきたが、夜に微熱。風邪をひいた時のだるさに似たものを感じるなかで、校訂作業。限界を迎えたので就寝。

翌日、労働後もあまり調子があがらず。雨ばかりで洗濯ができないのがフラストレーションになる。校訂を続けて、半分ほどまでいく。果たして研究レポートの締め切りに間に合うのか。

金曜日は出張。帰りの新幹線で校訂したかったが、仕事が終わらず。新幹線が大雨の影響で遅れ、三河安城駅で停止。万が一宿泊することになったら車でも借りて史跡でも巡ろうかと思ったが問題なく帰京即缶ビール。帰って、Marilyn Butlerの注釈を読み進める。あと、『哲学の女王』と『これからのヴァギナの話をしよう』をぱらぱらめくった。ジョージ・エリオットは知り合いの優秀な人が研究していて、小説の物語はワンパターンだが面白いとは言っていた理由がよくわかった。ミドルマーチは新訳がでているし、kindleがあるだろうからそれで読もう。Lynn Enrightをググると、どこかでみたことがある顔つきだな、と思った。似ている俳優がいる気がしたが、どうにも出てこない。やはり疲れていたらしく、校訂作業はできず。家人に指摘され、三角筋のあたりが赤く腫れていたのに気づく。といっても痛みはないし、酒も飲んでしまったので、とくに問題ではない。シューゲイザーを聞いて、BTSのButterがBillboardで1位だったので聞いてから寝た。

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佐藤正尚 南礀中題

7月6日、7日 ワクチン

6日。前日のことなのにあまり記憶がない。中国語の授業で我喜欢吃麻辣烫だとか、平日我吃的是蒸菜など言えるようになった。また、信息茧房の説明文の読解と音読をしたが、島宇宙だとかエコーチェンバーだとかいうよりずっと字義の説得力がある。

辻田・東・与那覇鼎談松下哲也のエヴァ論を同時に視聴。松下動画はガンプラについてまったく知らない話がよく整理されて出てきていたので大変勉強になった。辻田・東・与那覇鼎談では、東浩紀が21世紀は管理社会に向かって精神的な衛生の亢進と監視の強化で方向性は確定しただろう、といっていたが、どのあたりについていっていたのか気になった。まず、日本でデジタル技術を用いた監視はインフラ整備できる人材がないので、みずほ銀行のようなシステム障害を繰り返し、各国からクラッキングされて情報流出することが容易に考えられる。そもそも、統合システムを2025年までに実施するそうだが、この国の統治機構の実情を慮ると単に無理だろう。将来的に、都市の人口の拡大で隣組的な相互監視もうまく機能しないだろうし、ひいては、人は季節性インフルエンザと同様にCOVID-19シリーズを受け入れるだろう。

哲学の女王たち』はLallaのパート読了。人は啓蒙の形のバリエーションにもっと想いを馳せるべきだと思う。TYOKYO DRAFTのペッパー風味を飲んだが体調に合わず。

7日。会社でワクチンが余っている通告がきたので打ってくる。7割程度は疼痛が発生するそうで、例に漏れず。昔、よく運動していたので、靭帯と骨関係の痛みを除いて身体的な痛みはだいたい知っているが、一番近いものは痣ができるときの内出血の痛みだ。前日、研究で差分の校訂をしていたので、寝る時間が遅くなり、副反応でだるいのか寝不足でだるいのか不明。ちなみに、私はワクチンにまったく抵抗がなく、一方で人に勧めようとは思わない。一方で反ワクチン扇動には絶対に反対、という素朴な人間で、理屈はつけようと思えばつけられるが、たいした哲学的な意義はない。私は他人の恐怖心を尊重するが、恐怖心を掻き立てる人間を毛嫌いしているだけだ。しかし、いっぽうで他人を恐怖させることに安心を覚え、喜びさえ感じる人の営みは興味深い。

『哲学の女王たち』メアリ・ウルストンクラフトのパートを読みおわって、娘のメアリー・ゴドウィンはメアリー・シェリーとなり、『フランケンシュタイン』という傑作を残していた記述を読み、原書を積読していたのを思い出す。

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7月4日、5日読書と研究

4日はよく本を読んだ1日だった。『シン・エヴァンゲリオン論』(藤田直哉)と『ガールズ・メディア・スタディーズ』(田中東子編)を読んだ。『シン論』は同年代記事と庵野実写パートのまとめのところ意外はあまり読んでもしかたなかった。神道と仏教を近代以後の研究を出さずに概念としてだすのは意味がないし、日本のアニメをそれで説明するのは当たり前だが、不可能だろう。それに対して、『ガールズ・メディア・スタディーズ』(田中東子編)は本当によかった。参考文献をQRコードにしているのがまずよかった。ただ、リンク先のPDFは版元ドットコムや出版社のリンクを貼っておいてもらえると、さらに学習の役に立っただろう。いろいろ権利や風習の問題のためにできないのかもしれないが。

『ガールズ・メディア・スタディーズ』は、メディア研究を資料調査と解題でわかりやすくまとめていて、社会調査のパートでは先行世代の失敗の原因をふまえて、あるべき姿をきちんと示している。『ガールズ・メディア・スタディーズ』は題名から女性のためのものに思えるかもしれないが、対象は特に関係なく、メディア研究全般に関心がある人が読むべき一冊だ。日本語のメディア研究の教科書では、ジェンダー研究の紹介が少なすぎる。それに対して、ジェンダーに関係する意識が社会全体で高まっている昨今、こうした素晴らしい教科書は外すことはできないことだろう。

5日はまっとうに労働ができた。休憩の合間合間で『哲学の女王たち』を読み進め、大変勉強になる。あと30年後、日本では哲学科は滅んでいるかもしれないが、海外では女性哲学者の研究が一般的になっている気がするのを感じさせる一冊だった。

買い物などして休んでから、夜の残りは研究。版の差分をうまくとる方法を検討して実施。差分の段落だけみてみて、何を書き足したのか改めて検討。

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7月3日、あるエヴァ本

和裁。今日は裏地を縫った。女物を男物に仕立て直しているので、裏地がふたつにわかれている。上の部分を背縫いしてから、脇を縫った。相変わらず縫っている間はゴールがよくわからないが、縫い終わると自分のしていたことが理解できる。身ごろ全体を縫い終わった後、背中が痛かった。仕事に対する根本的な嫌悪からくるストレスのためにウォールウォーキング・ブリッジをやっていなかったことが原因だと考えられる。酒を飲んでしまったが、寝る前にやっておこう。

和裁の昼休憩の食休みでシン・エヴァ文集を買いに紀伊國屋へ行っていたので、和裁にあとでビールを飲みながら松下哲也「『シン・エヴァンゲリオン劇場版?』は模型のアニメである」を読み、心を打たれた。私は「エヴァンゲリオンについて解像度を高く理解することできる」だけで、オタクではない。しかし、以前からエヴァの「おもちゃ遊び感」や「ウルトラマン感」をずっと言語化できていなかったので、現在の庵野の活動までを一貫して説明する視座を模型に求め、模型とエヴァの表現について見事に言語化していた。今後はぜひ、この表現形式がどのような形でアニメ表現や他ジャンルに影響を与えていったか、あるいはエヴァだけ特別なのかについて議論してほしい。

そのほかについては、五十嵐太郎のもの以外には勉強になったものはなかった。庵野の廃墟について自分はずっと関心を寄せていたが庵野が人が造りえないものとして廃墟に美的価値を認めていたのに驚いた。西田藍は実存があって読ませた。ただ、マリとシンジの関係もほとんど語られていないので、私にはあれが理解できない謎には思えなかった。この世界に完全に説明できる人間関係などあるのだろうか。最果タヒは最果研究をしたい人には重要な文章だろう。なお、ここまでミサトのことに関心があるから、加持が渚に向けて「老後はミサトと畑仕事しようと思うんです」と言っていたあのシーンでミサトが生きているような世界を担保していたのは、聞き逃してしまったのだろうか。ある意味で強烈な実存を感じさらる近藤論については、この手の議論で批判されるべき点が私の考える限りだいたい網羅されていてよかった。ただ、セオリーのせいで、自身の論点を主張するうえで取り上げるべき画面に映っている様々なものについて説明できない、そして徹底的に批判がなされていない点や、最後のシーンが私たちの生きている世界だという安直な解釈が気になった。セオリーは必要だが、使うときに内省が必要である。深い内省のないセオリーの適用はかつて男性中心に構築された文学史の反復になってしまう。ラストシーンについては同じ映画をみていたとは思えないほど素朴で驚いた。そもそも、庵野はかつて実写映像を混ぜた人であり、本当に現実の世界を描くならそうしただろう。シンジもマリもアニメーションだし、道を歩いている人もアニメーションだし、そもそもラストカットで去っていった電車は現在走っていない車両型だし、現実の宇部新川駅周辺には存在しない建物もあるという(どの建物かわからなくても、『雨月物語』のラストシーンを彷彿とさせる遠景まで捉えたラストショットが全体的にデジタル処理をされた痕跡があるのは明らかだ)。

近藤に限らないが、多くの人に共通して言えるのは、これだけ私たちと生きている世界とは関係がないことが強調されているのに、なぜ私たちの生きている「現実」という言葉を安易に口にできるのだろうか。エヴァンゲリオンがない世界は、私たちの世界とは限らない。どうして私たちの世界が選択されるべき世界などと思えるのだろうか。あるいは、そう思ってしまうつくりをしているエヴァが見事なのかもしれない。

最後にこの本について気になったのは一緒に感想を話して練り上げていった、という謝辞が2,3本見られたことだ。松下論文を読めば明らかなように、エヴァンゲリオンに極度に真剣な人は、他人と感想を語り合う前に論点が固まっている。私はアバンのカチコミのシーンについては、ほぼ語ることがなかったのに対して、第三村に至るまでの5分ほどカットについてひとりで友人に対して廃墟論、カット割、エヴァの左手とエッフェル塔のカットの関係性についてなど1時間ほど質疑応答しつつ話していた。今回、様々な角度の文章が読めて楽しかったが、もっと「ガチ」な人の「感想」を読みたかった。

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佐藤正尚 南礀中題

7月1日, 2日『三体』など

雨。

連日、缶ビールとタカラチューハイ、あるいはハイポールを飲むだけで急激な眠気に襲われ、何も書けず。しかも8,9時間の近く寝ても疲れが取れず。いびき防止のマスピースを使ってみたものの、少し舌に違和感があり、寝ている間に無意にとってしまっていたらしい痕跡があった。効果は今ところわからない。

ここまで考えて思い出たのが、1日から2日にかけては酒を飲まずに『三体』を3時くらいまで読んでいた。意外とさけばかりのんでいたわけではないようだ。イーガンスタイル孫たちのうち、もっともよく書けているのが刘慈欣だと思った。詳細はどこかで話すとして、日本では同様のことを円城塔がしているものの(知性体どうしの戦争が次元や宇宙間の戦争になる)、まったく表現の仕方が異なっている点が興味深い。今度整理してみたい。

『三体』は大学の生協で買った。『万葉集の基礎知識』『日常的実践のポイエティーク』(ちくま文庫)『熱輻射論講義』も購入。プランクの本は、そもそも私の専門とほぼ関係がないが、文庫化に際して監修をした稲葉肇先生の授業に修士の頃でていたことがあり、大変お世話になっていたので購入した。19世紀末の物理学なので専攻が物理学でなくても数式をちゃんと追うとまだ何を言っているかわかる。翻訳自体の質も高そうだ。