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佐藤正尚 南礀中題

7月8日、9日、10日

ワクチン接種の翌日、腕の痛みは引いてきたが、夜に微熱。風邪をひいた時のだるさに似たものを感じるなかで、校訂作業。限界を迎えたので就寝。

翌日、労働後もあまり調子があがらず。雨ばかりで洗濯ができないのがフラストレーションになる。校訂を続けて、半分ほどまでいく。果たして研究レポートの締め切りに間に合うのか。

金曜日は出張。帰りの新幹線で校訂したかったが、仕事が終わらず。新幹線が大雨の影響で遅れ、三河安城駅で停止。万が一宿泊することになったら車でも借りて史跡でも巡ろうかと思ったが問題なく帰京即缶ビール。帰って、Marilyn Butlerの注釈を読み進める。あと、『哲学の女王』と『これからのヴァギナの話をしよう』をぱらぱらめくった。ジョージ・エリオットは知り合いの優秀な人が研究していて、小説の物語はワンパターンだが面白いとは言っていた理由がよくわかった。ミドルマーチは新訳がでているし、kindleがあるだろうからそれで読もう。Lynn Enrightをググると、どこかでみたことがある顔つきだな、と思った。似ている俳優がいる気がしたが、どうにも出てこない。やはり疲れていたらしく、校訂作業はできず。家人に指摘され、三角筋のあたりが赤く腫れていたのに気づく。といっても痛みはないし、酒も飲んでしまったので、とくに問題ではない。シューゲイザーを聞いて、BTSのButterがBillboardで1位だったので聞いてから寝た。

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佐藤正尚 南礀中題

7月6日、7日 ワクチン

6日。前日のことなのにあまり記憶がない。中国語の授業で我喜欢吃麻辣烫だとか、平日我吃的是蒸菜など言えるようになった。また、信息茧房の説明文の読解と音読をしたが、島宇宙だとかエコーチェンバーだとかいうよりずっと字義の説得力がある。

辻田・東・与那覇鼎談松下哲也のエヴァ論を同時に視聴。松下動画はガンプラについてまったく知らない話がよく整理されて出てきていたので大変勉強になった。辻田・東・与那覇鼎談では、東浩紀が21世紀は管理社会に向かって精神的な衛生の亢進と監視の強化で方向性は確定しただろう、といっていたが、どのあたりについていっていたのか気になった。まず、日本でデジタル技術を用いた監視はインフラ整備できる人材がないので、みずほ銀行のようなシステム障害を繰り返し、各国からクラッキングされて情報流出することが容易に考えられる。そもそも、統合システムを2025年までに実施するそうだが、この国の統治機構の実情を慮ると単に無理だろう。将来的に、都市の人口の拡大で隣組的な相互監視もうまく機能しないだろうし、ひいては、人は季節性インフルエンザと同様にCOVID-19シリーズを受け入れるだろう。

哲学の女王たち』はLallaのパート読了。人は啓蒙の形のバリエーションにもっと想いを馳せるべきだと思う。TYOKYO DRAFTのペッパー風味を飲んだが体調に合わず。

7日。会社でワクチンが余っている通告がきたので打ってくる。7割程度は疼痛が発生するそうで、例に漏れず。昔、よく運動していたので、靭帯と骨関係の痛みを除いて身体的な痛みはだいたい知っているが、一番近いものは痣ができるときの内出血の痛みだ。前日、研究で差分の校訂をしていたので、寝る時間が遅くなり、副反応でだるいのか寝不足でだるいのか不明。ちなみに、私はワクチンにまったく抵抗がなく、一方で人に勧めようとは思わない。一方で反ワクチン扇動には絶対に反対、という素朴な人間で、理屈はつけようと思えばつけられるが、たいした哲学的な意義はない。私は他人の恐怖心を尊重するが、恐怖心を掻き立てる人間を毛嫌いしているだけだ。しかし、いっぽうで他人を恐怖させることに安心を覚え、喜びさえ感じる人の営みは興味深い。

『哲学の女王たち』メアリ・ウルストンクラフトのパートを読みおわって、娘のメアリー・ゴドウィンはメアリー・シェリーとなり、『フランケンシュタイン』という傑作を残していた記述を読み、原書を積読していたのを思い出す。

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佐藤正尚 南礀中題

7月4日、5日読書と研究

4日はよく本を読んだ1日だった。『シン・エヴァンゲリオン論』(藤田直哉)と『ガールズ・メディア・スタディーズ』(田中東子編)を読んだ。『シン論』は同年代記事と庵野実写パートのまとめのところ意外はあまり読んでもしかたなかった。神道と仏教を近代以後の研究を出さずに概念としてだすのは意味がないし、日本のアニメをそれで説明するのは当たり前だが、不可能だろう。それに対して、『ガールズ・メディア・スタディーズ』(田中東子編)は本当によかった。参考文献をQRコードにしているのがまずよかった。ただ、リンク先のPDFは版元ドットコムや出版社のリンクを貼っておいてもらえると、さらに学習の役に立っただろう。いろいろ権利や風習の問題のためにできないのかもしれないが。

『ガールズ・メディア・スタディーズ』は、メディア研究を資料調査と解題でわかりやすくまとめていて、社会調査のパートでは先行世代の失敗の原因をふまえて、あるべき姿をきちんと示している。『ガールズ・メディア・スタディーズ』は題名から女性のためのものに思えるかもしれないが、対象は特に関係なく、メディア研究全般に関心がある人が読むべき一冊だ。日本語のメディア研究の教科書では、ジェンダー研究の紹介が少なすぎる。それに対して、ジェンダーに関係する意識が社会全体で高まっている昨今、こうした素晴らしい教科書は外すことはできないことだろう。

5日はまっとうに労働ができた。休憩の合間合間で『哲学の女王たち』を読み進め、大変勉強になる。あと30年後、日本では哲学科は滅んでいるかもしれないが、海外では女性哲学者の研究が一般的になっている気がするのを感じさせる一冊だった。

買い物などして休んでから、夜の残りは研究。版の差分をうまくとる方法を検討して実施。差分の段落だけみてみて、何を書き足したのか改めて検討。

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佐藤正尚 南礀中題

7月3日、あるエヴァ本

和裁。今日は裏地を縫った。女物を男物に仕立て直しているので、裏地がふたつにわかれている。上の部分を背縫いしてから、脇を縫った。相変わらず縫っている間はゴールがよくわからないが、縫い終わると自分のしていたことが理解できる。身ごろ全体を縫い終わった後、背中が痛かった。仕事に対する根本的な嫌悪からくるストレスのためにウォールウォーキング・ブリッジをやっていなかったことが原因だと考えられる。酒を飲んでしまったが、寝る前にやっておこう。

和裁の昼休憩の食休みでシン・エヴァ文集を買いに紀伊國屋へ行っていたので、和裁にあとでビールを飲みながら松下哲也「『シン・エヴァンゲリオン劇場版?』は模型のアニメである」を読み、心を打たれた。私は「エヴァンゲリオンについて解像度を高く理解することできる」だけで、オタクではない。しかし、以前からエヴァの「おもちゃ遊び感」や「ウルトラマン感」をずっと言語化できていなかったので、現在の庵野の活動までを一貫して説明する視座を模型に求め、模型とエヴァの表現について見事に言語化していた。今後はぜひ、この表現形式がどのような形でアニメ表現や他ジャンルに影響を与えていったか、あるいはエヴァだけ特別なのかについて議論してほしい。

そのほかについては、五十嵐太郎のもの以外には勉強になったものはなかった。庵野の廃墟について自分はずっと関心を寄せていたが庵野が人が造りえないものとして廃墟に美的価値を認めていたのに驚いた。西田藍は実存があって読ませた。ただ、マリとシンジの関係もほとんど語られていないので、私にはあれが理解できない謎には思えなかった。この世界に完全に説明できる人間関係などあるのだろうか。最果タヒは最果研究をしたい人には重要な文章だろう。なお、ここまでミサトのことに関心があるから、加持が渚に向けて「老後はミサトと畑仕事しようと思うんです」と言っていたあのシーンでミサトが生きているような世界を担保していたのは、聞き逃してしまったのだろうか。ある意味で強烈な実存を感じさらる近藤論については、この手の議論で批判されるべき点が私の考える限りだいたい網羅されていてよかった。ただ、セオリーのせいで、自身の論点を主張するうえで取り上げるべき画面に映っている様々なものについて説明できない、そして徹底的に批判がなされていない点や、最後のシーンが私たちの生きている世界だという安直な解釈が気になった。セオリーは必要だが、使うときに内省が必要である。深い内省のないセオリーの適用はかつて男性中心に構築された文学史の反復になってしまう。ラストシーンについては同じ映画をみていたとは思えないほど素朴で驚いた。そもそも、庵野はかつて実写映像を混ぜた人であり、本当に現実の世界を描くならそうしただろう。シンジもマリもアニメーションだし、道を歩いている人もアニメーションだし、そもそもラストカットで去っていった電車は現在走っていない車両型だし、現実の宇部新川駅周辺には存在しない建物もあるという(どの建物かわからなくても、『雨月物語』のラストシーンを彷彿とさせる遠景まで捉えたラストショットが全体的にデジタル処理をされた痕跡があるのは明らかだ)。

近藤に限らないが、多くの人に共通して言えるのは、これだけ私たちと生きている世界とは関係がないことが強調されているのに、なぜ私たちの生きている「現実」という言葉を安易に口にできるのだろうか。エヴァンゲリオンがない世界は、私たちの世界とは限らない。どうして私たちの世界が選択されるべき世界などと思えるのだろうか。あるいは、そう思ってしまうつくりをしているエヴァが見事なのかもしれない。

最後にこの本について気になったのは一緒に感想を話して練り上げていった、という謝辞が2,3本見られたことだ。松下論文を読めば明らかなように、エヴァンゲリオンに極度に真剣な人は、他人と感想を語り合う前に論点が固まっている。私はアバンのカチコミのシーンについては、ほぼ語ることがなかったのに対して、第三村に至るまでの5分ほどカットについてひとりで友人に対して廃墟論、カット割、エヴァの左手とエッフェル塔のカットの関係性についてなど1時間ほど質疑応答しつつ話していた。今回、様々な角度の文章が読めて楽しかったが、もっと「ガチ」な人の「感想」を読みたかった。

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佐藤正尚 南礀中題

7月1日, 2日『三体』など

雨。

連日、缶ビールとタカラチューハイ、あるいはハイポールを飲むだけで急激な眠気に襲われ、何も書けず。しかも8,9時間の近く寝ても疲れが取れず。いびき防止のマスピースを使ってみたものの、少し舌に違和感があり、寝ている間に無意にとってしまっていたらしい痕跡があった。効果は今ところわからない。

ここまで考えて思い出たのが、1日から2日にかけては酒を飲まずに『三体』を3時くらいまで読んでいた。意外とさけばかりのんでいたわけではないようだ。イーガンスタイル孫たちのうち、もっともよく書けているのが刘慈欣だと思った。詳細はどこかで話すとして、日本では同様のことを円城塔がしているものの(知性体どうしの戦争が次元や宇宙間の戦争になる)、まったく表現の仕方が異なっている点が興味深い。今度整理してみたい。

『三体』は大学の生協で買った。『万葉集の基礎知識』『日常的実践のポイエティーク』(ちくま文庫)『熱輻射論講義』も購入。プランクの本は、そもそも私の専門とほぼ関係がないが、文庫化に際して監修をした稲葉肇先生の授業に修士の頃でていたことがあり、大変お世話になっていたので購入した。19世紀末の物理学なので専攻が物理学でなくても数式をちゃんと追うとまだ何を言っているかわかる。翻訳自体の質も高そうだ。

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佐藤正尚 南礀中題

6月30日

労働後、ビールとチューハイを立て続けに飲む。大学院の研究会に参加。ベケットと習慣の問題についての修論構想。面白かった。アイロンがけをしつつ、津田・辻田・浜崎鼎談を拝聴。無所属立候補が強い区議会選挙以外は、とっくに与党抑止論としてしか選挙をみていないので、都議会選挙については、最も政策実行力のない共産党に投票しようかと考えている我が愛する新宿区では、エンジニアが作った全都黎明なる党が新宿区で立候補者を出していた。しかし、党代表が2万円で自分が開発したtypescriptパッケージのプログを書かせてしかも本名も出していないのは、政治を何だと思っているのか気になった。あと、議席数が4名だから可能性の観点から立候補者をだしたらしいが、この人は前は千代田区で立候補していて、新宿区での活動も歌舞伎町でゴミ拾いだけしているのに唖然とした。靖国通りと明治通りだけで新宿が成立していると考えるのは浅はかだ。共産党と公明党の本拠地がありつつ、都庁があり保守層もいまだ強いこの土地の歴史に対する考察と反省が足りない。新宿を舐めているなと思った。

就寝までHendersonの四次元論とPawlowskiを再読。

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佐藤正尚 南礀中題

6月29日

労働を一通り終えて、中国語の授業へ行った。今日は三坑少女と、中国の女权とそれに対するの批判的な言葉として女拳という言葉を習う。論争を中国語で読むと、内容に関係なくどうやって論理的にみせるかを中国語で学ぶ。文調で「而是」を使う、得心。

友人と企画している児童文学のプロジェクトの日程調整。光の防人関係者にも連絡。そのうち防人読書会と防人散歩をしたい。

Le Guinの『闇の左手』を50頁ほど読み進めたが、ジェイムソンが述べていた、現実と遊離したユートピアモデルの提示として描かれているというのについて本当なのか、と疑問。ジェイムソンにしては浅薄すぎるのではないかと感じた。いや、私の読みが浅いのか。『未来の考古学』を読み直すべかもしれない。

いい加減博論に取り掛かりたいので差分をどうみるかやってみたが、せっかくメモリのあるPCにしたので、Atomを久しぶりに起動。画面分割が一番快適だった。差分だけのファイルを作成すれば、資料ページになるだろう。

また、鼾のせいで眠りが浅い気もするので、鼾防止グッズを買ったが、鼻呼吸をサポートするものは自分にとって全体的にダメだとわかった。諦めてマスピース、というかタングピース?を購入。

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『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』

『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』(以下、SP)は大変素晴らしい作品だったので、長い文章を書くことにした。といっても、脚本・構成に参加している円城塔がとにかく好きだ、という長い告白になる。

舞台は千葉。千葉はとにかく愛されていてて、ここのところヒットしているラノベ原作アニメでも千葉よくてでくる。Chiba City Bluesとは違う。ただし、東京から遠すぎず、作劇に便利な海が近い郊外で、横浜や相模ほど色がついていない不思議な土地として愛されているのだろう。今回のアニメで千葉は再びSFの舞台として返り咲いた。

その舞台を彩る様々なガジェットも考え抜かれていた。

物語の発端は、丘の上の古い洋館。そこから湧いてくる謎の音。幽霊の噂。学者らしき人物が住んでいてのインド民謡らしき音楽が流れてくる。探偵趣味と小栗虫太郎を彷彿とさせるオカルティックな始まりである。

その雰囲気によくあっているのは、「古史羅」なる錦絵だ。それが祭りで自然に受け入れられているという設定も小気味良く、主人公の一人神野が怪しげな書き下しを読み上げることで登場人物たちが際立って学識豊かであることが察せられる演出もわかりやすい。

ガジェットについてはキリがないのでこの程度にして、ゴジラシリーズとしての目線からも見てみると、トラウマ的なつまらなさを鑑賞者に与えた『怪獣惑星』に比べて、大真面目に昭和ゴジラシリーズに向き合って昇華した作品と言える。映画館でゴジラを見ることが一つの娯楽だった時代、プロレスをしながら人類の味方をしてくれるゴジラを、現代の私たちが見るのはなかなかつらい。ゴジラと鉄腕アトムの悪魔合体のような、「SP」のジェットジャガーの由来となっている映画『メガロ対ゴジラ』は『怪獣惑星』よりもつまらない(一周まわって面白いが)。ゴジラが恐怖の生命体から人類の味方になぜなったのか、怪獣ブームとプロレスブーム、そして娯楽としてのSFがどのように大衆の歓心を買ったのかの説明はものの本に譲る。「SP」で大事なのはとにかくジェットジャガーなので、その話をしよう。

『メガロ対ゴジラ』では、ジェットジャガーはだいたい「機械のウルトラマン」といったところだが、ジェットジャーの搭載する人工知能は円城塔の用語では知性のことだ。知性といっても、登場人物が賢く知識が明晰な人ばかりということとは関係がない。円城塔『Self-Reference ENGINE』(ハヤカワ文庫、JA985、2011年)に登場する巨大知性体のことだ。巨大知性体は、自然現象自体に演算して介入する。自然現象といっても、時空間にも介入するので、複数の巨大知性体が別の宇宙をつくりあって、宇宙どうしが戦うことになる。人間が作った機械仕掛けの神によるラグナロクだ。「SP」でも、超計算機どうしが競合する、とペロ2が話すが、巨大知性体も同様、というわけだ。

さて、「SP」では洋館のインド民謡と赤潮が物語の始まりだった。『Self-Reference ENGINE』の世界で巨大知性体間戦争は「イベント」という一連の理解し難い事象が物語の発端となっている。例えば、未来から銃撃を受ける。

僕の考えではこうだ。リタはどっかの方向のはじめからやってきた。ところがどういう理由でか、未来方向から銃撃を受けて過去方向の軌道を捻じ曲げられた。おかげで彼女はその反動で今の母親のお腹に時間逆行的に閉じ込められることになった(『Self-Reference ENGINE』、24)

たいていの行為は現在から未来にかけて行われる。有川ユンが指摘しているように「メッセージは過去から未来に届く」(10話)。だとすると、「未来方向から銃撃を受けて過去方向の軌道を捻じ曲げられ」るのは、通常と逆の順序になる。このように、過去に未来を計算するというレトリックは円城塔の一貫したテーマである。なお、「SP」では、葦原が取得していた計算結果は、MD5ハッシュの数列として物語の後半で主人公たちの行動原理となっていく。そう、未来を変えるためには、未来に向かって未来の条件を整えてやれば良い。

で、彼女が矢鱈と発砲を続ける理由はこうだ。彼女が撃たれる前に、彼女を撃つ相手を撃ってしまえばいい。そいつは彼女の未来方向にいるはずだから、未来方向へ撃てばいい。幸いにして弾は普通、未来方向へ進む。少なくとも過去方向に撃つよりか簡単だ(『Self-Reference ENGINE』、25)

ここまで示してきた様に、「SP」の大筋は円城塔がずっと描こうとしているテーマの一つだ。ちなみに、物語と作者の関係を巨大知性体と人間のメタファーで語っていた円城塔だからこそ、今回の物語のような展開になっていたと言える。最後にそのことについて話そう。

はじめ、物語は葦原が残したOrthogonal Diagonalizer(Oxygen DestroyerのODからきているのだろう)の謎を解くことで破局と呼ばれるこの宇宙の終わりを防ぐための戦いが物語の主軸をなす。しかし、最終話近くになってジェットジャガーユングが何度も再起動を繰り返し幼児退行する。誰が仕組んだのかは不明のまま、物語は進む。最後に、これは物語中盤でペロ2に託された「ジェットジャガーを最強にするプロトコル」を、ペロ2の機転によって過去から未来に向けて未来の情報をAlupu Upalaに挿入していた、ということが明らかになる。最強になったジェットジャガーは、ゴジラを倒すことのできる大きさになり、原因はよくわからいが、ともかくゴジラの戦いの末、紅塵を結晶化させ世界は救われる。そのプロトコルこそ、真のOrthogonal Diagonalizerだった、というわけだ。つまり、物語は入れ子とミスリーディングによって構成されている。一番大きな殻は葦原の謎を追うことだ。次の殻に、ユングとペロ2たち人工知能の物語がある。ところで、後者からしてみれば、これはすべてすでに起こったことが再演されているにすぎないのであり、物語で最も中核にいたのは、実はユングとペロ2ということになる。芦原の謎は最初から解けていたのだ。

話を『Self-Reference ENGINE』に戻す。巨大知性体の作者は人間だったが、いつのまにか人間を規定するようになる。ところで、物語に巻き込まれた主人公たちは、ユングとペロ2という有川が生み出した人工知能によって規定されている。これらは相同関係にある。この相同関係は、物語の結末の印象を大きく決定づけている。ユングとペロ2によって、その使用者である有川と神野はあらかじめ出会うことが決められていたということが事後的に判明するからだ。つまり、二人の出会いは運命によって定められていた、といいかえられる。しかし、この運命の出会いは、ペロ3が神野のそばにいることや直接会うことが初めてであることによって、新しい出会いとして鑑賞者には感じられるのだ。運命の出会いが、運命なのに、新しく一歩を踏み出す予感となる。意外にも、堂々たるセカイ系であり、その結末はだいたい『君の名』でさえある。円城塔を考えるうえで、セカイ系はやはりはずせないということに改めて気付かされたのだった。

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佐藤正尚 南礀中題

6月27日、映画・本・ビール

和裁をした次の日は、どこかを散歩するか、本を読むかをしている。家人が歌舞伎に行くということで朝からTOHO Cinemas新宿でシン・エヴァを鑑賞した。確か4回目だったが人生を肯定することができる数少ないかけがえのないものであることを再確認した。ついでに、昼間から閃光のハサウェイを鑑賞することにしてチケットを買った。

昼食をつるかめ食堂で済ませて、シン・エヴァの論集を買いに紀伊國屋にいくが、発売されていなかった。気になっていた新刊の値段を確かめ、今度生協で買うことにして店を出た。1階のタバコ屋でなんとなく葉巻の値段が気になってみてみると、1500円あたりが一番安かった。シーシャ仲間の友人に、いろいろ比べて誕生日にでもプレゼントしようと思う。

伊勢丹とH&Mには挟まれたlemonでカプチーノを頼む。持っていたバトラーの『欲望の主体』を読了。久しく感じたことのない爽快な読後感。サルトルはこんなにも面白い思想家だったのか、と人生で初めて心から知った。80年代の終わりにこんな本を出していたというので、バトラーは偉大な哲学者だ。他の本もちゃんと読みたい。

映画館に戻って閃光を鑑賞した。いい映画だったが、登場人物の関係形式がお決まりのパターンだったので退屈した。めぐりあいや逆襲での会話劇が真剣なシーンほど意味不明なのにくらべて極めて明晰な会話がなされるのも悪くはないが、ケレン味にかけていて、ギギの意味不明さは単に「メンヘラ」表象を女性に押し付けているようで居心地が悪かった。逆襲では、シャァの最後のララァについての告白にこそそうした表現との釣り合いがとれていたが(全員どこか頭がおかしい)、今回はそうなっておらず、全体的なマチズモがどうにも気になった。小説が原作とはいえ、ギギが80歳の老人の愛人というのは、富野の年齢をどうしても重ねてしまい、辛いものがあった。とはいえ、夜戦の表現はここ最近のアニメ表現では抜群だった。明暗の絶妙な調整によって緊張感を演出させていたのはよかったし、市街戦ではモビルスーツが兵器としていかに驚異的であるのかを逃げ惑うハサウェイとギギを中心に演出していたのも良かった。

帰りに十字峡宇奈月ビールヴァルシュタイナーを買った。宇奈月ビールは、富山県黒部宇奈月で醸造されたケルシュだ。すっきりとした味わいで、IPAとはことなったほのかな甘さを感じる。時間がたったあとの苦味も強くなく、缶ビールながらじっくり飲むことができる。ヴァルシュタイナーは、ノイトライン・ヴェストファーレンで醸造されたピルスナーだ。口当たりが芳ばしい。麦の苦味が舌をざらつかせずに喉を通り、気がつけばもう一口を求めてしまう。ほとんどパンの味さえする。ビーフシチューにこのビールを合わせれば素敵な食事になるだろう。

ビールを飲みながら、洗濯物をして、食事を簡単に済ませて、読み返していたSelf-Reference Engineを読了。自分にとってゼロ年代があるとしたら、本当のところこれだなと思っていることに気づいた。ゴジラSPについて文章を書いていたので改めて読み返したわけだが、円城塔のすべての作品はこの本のテーマが何らかの形で展開されていることに気づいた。SPの論攷ではエモい一文を引いておこうと思う。

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Diontum Project 佐藤正尚 南礀中題

Max Bense

トレーニングでアンイーブン・プッシュアップをしていた。その時、補助として、手元にあった70年代に出された平凡社の哲学事典を使っていた。腕が上がらなくなったのでなんとなくページを繰ると、マックス・ベンゼ(Max Bense)という名前が飛び込んできた。日本では、97年に『情報美学入門 : 基礎と応用 』が訳出されてから、全く注目されていないがたまたま関心に近いこともあり、関連論文を読んでしまった。

ベンゼは美学について記号の実在性から再定義しようとして4冊書いた50年代から70年代にかけてドイツで活躍した美学者・詩人だ。分析哲学の進展もあり、いまとなっては古くなる印象のある議論だが、現代の潮流から掘りざけると、面白いことが言えるかもしれない。例えば、Mitrealtät。美的存在とは、現実のこの世界に追加される存在とされ、美的現実という存在論的な位置づけとなる。Benseの情報美学(Informationsästhetik)での「情報」の扱いは同じく50年代に活躍した。Abraham Molesの分類で考えるとわかりやすい。Molesは意味論と美学における情報の扱い方をSemantic Informationを「何が表現されているか」、Aesthetic informationを「どうやって表現しているか」としたが、BenseはAesthetic informationを典型的に後者である。

さて、こうした議論を70年代以後の情報学の観点から再定義し、とくに美的存在者たる作品を情報の処理としていかに議論するかは工学趣味の読み物としては面白いが、工学に資するところがあまりない。工学からしてみれば、作品が情報として扱えるのは当たり前で、データの表現形式だけに関心があるからだ。では、私は情報美学の何に価値を感じているかというと、単なる認識・情動を美的な経験の美の効果自体を認めてしまうことについて比較的早い時期に行っており、いまはまったく省みられていないからだ。

私は戦後ドイツ美学にはまったく明るくない。というのも、適当な読み物では目にしないからだ。私のような不勉強で偏った知識しか持たない人間は、美学の周縁にぎりぎり位置していたかもしれない(メディア論の戦後ドイツの位置づけをそもそも知らない)キットラーくらいしかわからない。ただ、いっさいまともに読んでいないが、Benseの情報学の注目は極めて真っ当だったと思う。

日本では、情報の唯物論についての議論が、真剣に議論されなくなってしまった。SNSの前景化によって情報の実在があまりにも自明であり、現象の分析と工学的な技術開発でしかそうした議論をしなくなってしまったからだ。ネットが社会を変える、というのは、電子演算機以後の情報概念でいうところの、「情報」が人を動かす、の言い換えでしかない。工学的な情報はまったく無慈悲なので、どんなものも情報にする。哲学者がかつて夢見た存在者モデルの具体的な実例は2進数で表現されている。『存在と出来事』は偉大な書物だが、これが真剣に読まれないのも、結局そのためだろう。どんな古典も未来について語っている。現在という未来は過去であり、古典は常に読むに値する。その本を古典にするためには、どんな風にして未来を語っているかをどれだけ多くの人がする必要がある。

『存在と出来事』といえば、翻訳者の藤本一勇の『情報のマテリアリズム』は忘れ去られてしまった。デリダの研究者なので、情報社会論のイデオロギーが素朴な観念論に基づいていることを脱構築的に読解しているためだろうか、情報についてハードな哲学を論じる人がいなかった。久しぶりに読み返すと、形相を「準安定状態」と言い換えてしまうことで、情報のマテリティを具体的に示せなかった点が気になった。そもそも、情報は現代において観念的に扱うこと自体が難しいことを示せば、のちのアートシーンにも大きな影響を与えたかもしれない。

情報学の進展とともに、Aesthetic Informationの概念はますます力を失った一方で、情報についてのアートシーンはますますマテリアルになっていった。では、Benseは何を見ていたのか、今の私たちには想像もできない。まず、彼はナチスの社会を生きていた。1950-60年代のドイツで、情報美学を言うことが何を意味していたのか。その懸隔に何か大いなるポテンシャルがあるかもしれないし、何もないかもしれない。Benseが再読される日はもう来ないだろうから、ここに走り書きしておく。