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佐藤正尚 南礀中題

ひとりアドベントカレンダー をしようとしたけど無理だった

オミクロン株など数ヶ月周期の変異体の出現があるので、12月1日はCOVID-19について、とも思ったが『ゲンロン12』感想でも書いてしまおうと思う。書きかけのものがあったからだ。

年間誌『ゲンロン12』は、いま日本語で読める雑誌のうち、年鑑ではなく論考・エッセイ・小説・座談会・対談記事が載っている雑誌である。一般的に年に一度しか発刊されない刊行物が雑誌で、かつ、興味深いテーマを扱っているので届くとすぐに読んでしまう。どのテーマについてもいろいろ書けるのだが、今回は東浩紀「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」を読んでの雑感を書きたい。

AからDの4つのパートに分かれているこの論考の主張はこうだ。公共性について考える場合、ひとは家族制度を共同体イメージとしている。家族を拡大して社会とそこでの公共性について考えているといえる。しかし、哲学は家族に対してその閉鎖性を指摘する。では、どうすれば哲学的に家族と公共性について語れるのか。そのヒントはヴィトゲンシュタインの家族的類似性など、20世紀初頭のいわゆる分析哲学者たちにある。そして、彼らの訂正可能性の主張は家族の閉鎖性を解き、新しい共同体と公共性のイメージを与えるというものだ。

家族的類似というタームにこのように肉薄して、家族を論じるための哲学を実践するのには驚かされた。一方で、私は自分が学部生の頃に学んでいた共同体論について思い出していた。

2000年代には、世界的に免疫モデルの共同体論を構築することが流行っていた。自己免疫の徹底が他者の排除の徹底であると同時に免疫をもつ主体の自滅につながることから、共同体ととは、免疫がそうであるように、他者をゆるやかにうけいれなければ滅んでしまう、という理屈だ。とはいえ、当時から批判としてあったとは思うが、ペストや天然痘、インフルエンザなどの多くの人々が死んだことに対して、こうした議論は個人がどう生きるべきなのか何も教えてくれない。免疫とは、現実的な生命の死生を決定づけるものである。その他者というのを受け入れると死ぬこともあり得るというわけだ。では、なぜこんな議論が流行ったかというと、それは生権力論のブームがあったからだ。2013年の2月号の『思想』(岩波)も特集号を組んでいる。ここでの生権力論では、ざっくりいって2つの方向性で議論される。権力の働き方と権力への抵抗である。免疫共同体論も、単なる共同体の捉え方の話に過ぎないかと思えば、権力論なのだ。なぜ免疫が権力の話になるかというと、体内に異物が混入することを許すのは、共同体の中に共同体の全体の方針とは異なる考えを持つ人がいても良い、ということになる。つまり、権力に抵抗する主体は共同体に必然的に必要なのだ、というロジックを立てることができる。

いまよりもずっと若い頃、この病理学を援用した議論のスタイルに心底やられたものだが、冷静になると、免疫という隠喩を使った詐術のようにも考えられる。他所からやってきた人が不動産を支配するであるとか、人を殺してしまうだとか犠牲者については何が言えるのだろうか。また、免疫の概念は、人における病とは何か、健康とは何かといった、様々なテーマを持ち合わせている。この現実の社会で個別の具体例ではなく、免疫と共同体の語源を遡及して比較するスタイルには私は手続きとしては賛成できるが、そこから論理を組み立てるのも、概念の変遷を追っていくなかでそもそも発音が変化し、発音と語彙の関係も複雑なものであること考えると、語彙の転化がどの程度哲学的に考察するに値するかもうわからない。

そうして、COVID-19がやってきた。呼吸器および神経系に作用するため、基礎疾患患者の致死リスクが高い一方で、感染してもなんの影響もない人も大勢いる。しかも、伝染性が他のウィルス性感染症と比べても極めて高い。簡単に言い換えると、大勢の人が死ぬかもしないが、若い人はあまり死にそうにないし、中堅どころの人はギャンブル、というわけだ。社会の構成員ごとに致死率が異なり、弱者に容赦がないという人類の共同体のあり方が試される病だった。結果としてわかったことは、人々は免疫的な共同体などでは生きていないし、人の交流を容赦なく制限した。できるだけ安全を、という主張はいまに始まったことではなく、生権力論でもよく対象になるような、リスク低減を理由にした権力介入であり、人々が願い続けてやまないものだった。

結局、ゼロコロナはゼロリスク社会のことだった。例えば、中国共産党のゼロコロナ政策はその実、個体として人間を管理する2010年代以降の情報技術監視のひとつの形態にすぎない。度重なる災害や経済的な危機といったリスクは管理できないのに対して、人流の統制である程度リスク低減できるというのは、帝国が人民をどう処置するかについての長い伝統の帰結にすぎない。

安全性はかかる前とかかった後についても求められる、例えば、後遺症。細菌性感染症、呼吸器疾患性の感染症の後遺症に悩む患者はCOVID-19パンデミック以前でも多くいた。後遺症の問題からCOVID-19を軽視するべきではない、という主張に対してはこれまでも後遺症を軽視してきた社会に対する批判がないのであれば一切議論の意味がない。また、COVID-19は、神経系に作用するのでかつての水俣病患者のように、少し動き回るだけで疲れを覚えるといった目に見えない障害が人々の偏見を呼ぶことだろう。

社会はこうしてその限界を試され、訂正可能な共同体という免疫とはまた違う形でもう一度、この社会の流動性に賭ける哲学がでてきた。これからの論の進め方に期待したい。私とはいえば、訂正可能性という言葉をみてすぐに統計学を思い浮かべた。これを最後にしたい。

SIRモデルを使った感染症拡大モデルがそれほどおかしいと私は思わない。ただし、SIRモデルは、現象の予測ができるだけで、具体的な政策を決定できるだけのエビデンスになることはまずない。それは統計学を少しでも学べばわかることだ。このことをわかっている科学者たちがなぜか政治に介入している。科学哲学なことをいえば、本来は数理モデルであるはずのSIRがなぜか商店を閉めれば感染症は拡大しないといった判断をすることができる工学モデルにすり替えられているのだ。つまり、これは科学ではなくて、政治である。生権力の統治性がこれほど見事に使用されていたのに、この手の議論はここのところみかけない。

しかし、私はすでに言ったようにSIRモデルを使うことにはなんの問題もないと思う。人は世界を理解しようとするときにいくつかの手段を使う。その中に統計学があるだけだ。統計学は魔法ではないし、それだけでは公共性について答えを出すことはできない。一方で、統計学はモデルを提示し、複雑な世界の現象に確からしい視座を与える。モデルは何度も訂正され、その度ごとにそれまでは考えつかなかった新しい概念を示すことができるかもしれない。私は、統計学が政治的に使用されるこの時代にこそ、統計学のもつ本来的な訂正可能性を信じている。