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Diontum Project 佐藤正尚 南礀中題

Max Bense

トレーニングでアンイーブン・プッシュアップをしていた。その時、補助として、手元にあった70年代に出された平凡社の哲学事典を使っていた。腕が上がらなくなったのでなんとなくページを繰ると、マックス・ベンゼ(Max Bense)という名前が飛び込んできた。日本では、97年に『情報美学入門 : 基礎と応用 』が訳出されてから、全く注目されていないがたまたま関心に近いこともあり、関連論文を読んでしまった。

ベンゼは美学について記号の実在性から再定義しようとして4冊書いた50年代から70年代にかけてドイツで活躍した美学者・詩人だ。分析哲学の進展もあり、いまとなっては古くなる印象のある議論だが、現代の潮流から掘りざけると、面白いことが言えるかもしれない。例えば、Mitrealtät。美的存在とは、現実のこの世界に追加される存在とされ、美的現実という存在論的な位置づけとなる。Benseの情報美学(Informationsästhetik)での「情報」の扱いは同じく50年代に活躍した。Abraham Molesの分類で考えるとわかりやすい。Molesは意味論と美学における情報の扱い方をSemantic Informationを「何が表現されているか」、Aesthetic informationを「どうやって表現しているか」としたが、BenseはAesthetic informationを典型的に後者である。

さて、こうした議論を70年代以後の情報学の観点から再定義し、とくに美的存在者たる作品を情報の処理としていかに議論するかは工学趣味の読み物としては面白いが、工学に資するところがあまりない。工学からしてみれば、作品が情報として扱えるのは当たり前で、データの表現形式だけに関心があるからだ。では、私は情報美学の何に価値を感じているかというと、単なる認識・情動を美的な経験の美の効果自体を認めてしまうことについて比較的早い時期に行っており、いまはまったく省みられていないからだ。

私は戦後ドイツ美学にはまったく明るくない。というのも、適当な読み物では目にしないからだ。私のような不勉強で偏った知識しか持たない人間は、美学の周縁にぎりぎり位置していたかもしれない(メディア論の戦後ドイツの位置づけをそもそも知らない)キットラーくらいしかわからない。ただ、いっさいまともに読んでいないが、Benseの情報学の注目は極めて真っ当だったと思う。

日本では、情報の唯物論についての議論が、真剣に議論されなくなってしまった。SNSの前景化によって情報の実在があまりにも自明であり、現象の分析と工学的な技術開発でしかそうした議論をしなくなってしまったからだ。ネットが社会を変える、というのは、電子演算機以後の情報概念でいうところの、「情報」が人を動かす、の言い換えでしかない。工学的な情報はまったく無慈悲なので、どんなものも情報にする。哲学者がかつて夢見た存在者モデルの具体的な実例は2進数で表現されている。『存在と出来事』は偉大な書物だが、これが真剣に読まれないのも、結局そのためだろう。どんな古典も未来について語っている。現在という未来は過去であり、古典は常に読むに値する。その本を古典にするためには、どんな風にして未来を語っているかをどれだけ多くの人がする必要がある。

『存在と出来事』といえば、翻訳者の藤本一勇の『情報のマテリアリズム』は忘れ去られてしまった。デリダの研究者なので、情報社会論のイデオロギーが素朴な観念論に基づいていることを脱構築的に読解しているためだろうか、情報についてハードな哲学を論じる人がいなかった。久しぶりに読み返すと、形相を「準安定状態」と言い換えてしまうことで、情報のマテリティを具体的に示せなかった点が気になった。そもそも、情報は現代において観念的に扱うこと自体が難しいことを示せば、のちのアートシーンにも大きな影響を与えたかもしれない。

情報学の進展とともに、Aesthetic Informationの概念はますます力を失った一方で、情報についてのアートシーンはますますマテリアルになっていった。では、Benseは何を見ていたのか、今の私たちには想像もできない。まず、彼はナチスの社会を生きていた。1950-60年代のドイツで、情報美学を言うことが何を意味していたのか。その懸隔に何か大いなるポテンシャルがあるかもしれないし、何もないかもしれない。Benseが再読される日はもう来ないだろうから、ここに走り書きしておく。