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佐藤正尚 南礀中題

樊遲、仁を問う

子路に次の言葉がある。

樊遲問仁。子曰「居處恭,執事敬,與人忠。雖之夷狄,不可棄也。」

樊遲の遲は動物のサイのこと。彼は老年の孔子のボディーガードのようなことをしていた。いかにもそれらしい名前だ。その樊遲が孔子に仁について聞いた。すると、「家では恭しく、仕事では慎重に、人々に対しては誠実に振る舞いなさい。未開の土地でさえも、このことは捨てるに及ばないだろう」と答えたそうだ。恭しく、というよりかは礼儀正しく、だろうか。「執事敬」の解釈もなかなか難しいが、私が気になっているのは、最後の訳しづらいところだ。「雖之夷狄,不可棄也」の「不可棄也」はそれが普遍的に成立しているからこそなのか、あるいはそうすればどんなところでもうまくいくだろう、という意味なのか。確定はできない。

別の観点でみると、これは普遍性の問題である。夷狄とは、他者のことだ。この他者は具体的には別の共同体のことだ。そこでも普遍的に成立する法則があり、「居處恭,執事敬,與人忠」がそれにあたるというわけだ。仁とは普遍的な法則なのだ。

時代がくだって、宗教的儀礼集の一つに過ぎない『論語』が観念論まで高められ、反動として仁の唯物論を気などといった別の概念と接合するものがいた。以前はよくわからなかつたが、『論語』のこうした記述にはすでに道徳の自然学とでも呼ぶようなものの萌芽がある。