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米原将磨

電子版『批評なんて呼ばれて』の販売について

この記事で、8月末までに電子版『批評なんて呼ばれて』の販売を宣言していたが、他の課題を有せする必要があり、追加の後書きを仕上げた段階から動けていない。もう少々お待ちいただきたい。

PDFくらいはなんとか早めに作ってしまいたいが、B5サイズのままでいいのか、など考えてしまったが、いったんそれでやるしかないで、700-800円程度でB5サイズのPDF電子版を売ろうと思う。実際、この手のほんの読者の中には、紙で印刷する用途があるそうなので、それに対応したい。とはいえ、だとするとA4版もセット販売してしまうべきでは・・・、というのは悩ましいが、Indesignに相談してみる。

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米原将磨

さやわか文化賞2023批評賞受賞にあたって

受賞への感謝と『批評なんて呼ばれて』について

批評家・物語評論家のさやわかさんによって、「さやわか文化賞」が創設され、「さやわか文化賞2023」の発表が、2023年8月2日(水)から2023年8月3日(木)にかけて配信された。配信の様子は以下で閲覧することができる(アカウント作成および購入が必要)。

ついに発表!「さやわか文化賞2023」!!!https://shirasu.io/t/someru/c/someru/p/20230802205243

応募総数は36件あり、全てに対して真摯な選評が開示されるという、おそらく日本では類を見ない賞となった。大賞は安川徳寛『もしかして、ヒューヒュー』(映画)、さやわか賞(副賞)は池田暁子『池田暁子の必要十分料理』(マンガ)だった。その他、ニーツオルグ賞・批評賞・物語賞・紙媒体賞・物理物件賞で、それぞれの受賞者がいた。

私はこの賞に楽曲(diontum名義 EP『酒と珈琲』」https://dinotum.bandcamp.com/album/–2)とそれについての批評、そして、『批評なんて呼ばれて』を応募した。そして、大変名誉なことに、『批評なんて呼ばれて』に対して、神山六人さんという、カルチャーお白洲では有名な大変素晴らしい書き手の方と並んで、批評賞を授けていただいた。お読みいただいた皆様、また、こうした場を授けていただいたさやわかさんに改めて感謝の気持ちを示したい。なお、現在、『批評なんて呼ばれて』は紙版が絶版のため、電子版を刊行したい。8月末までにはPDFの用意をし、間に合えばepubでも用意したい。普及版として紙版も刊行したいが、予算の都合もあり、いつになるかは不明だ。

受賞にあたっての選評と受賞の言葉

『批評なんて呼ばれて』に対するさやわかさんによる選評は次の通りだった。

これは、よくできた論考だと思います。造本もすこくいいです。いいんですが、非常に僕の立場からは賞賛しにくい本でもある。なせなら、これは僕のやった仕事について書かれているからですね。照れというのもあるし、これを褒めると自画自賛みたいになってもしまう。俺の言ったことがわかったんだなよしよしと偉そうに思っているようにも見えてしまう。だからなんだか褒めにくいんですが、そういうものを褒めないところが僕のよくないところだとメタレベルをひとつ上げた悩ましさも自覚しています。厳しい言い方かもしれませんが気になるのはこの本が対話形式になっていることについてで、そういう形式でやることをちょっとナルシスティックに思えてしまったのですが、先を読み進めるとそれについては作者自身が第二版のあとがきで言及していました。いわば作者は「恥ずかしいのはわかってる、わかってるんだ」と言い募っていらっしゃるわけです。ただ、作者がこの書き方を必要としたのも事実な訳で、それを乗り越えなけれは書き始めることができないことって、ありますよね。僕は老人なのでわかるのですが、特に若いうちは、あります。だから、これはある種のハッピーバーステーな一冊であり、そしてこの作者は(自身が書かれているとおり)ここから始まるのでしょう。そういう意味では、この次のものを確実に書くのがいいと思います。大事なのはこのあとがきをもひとつの自己愛に回収せず、書き続けることかなと思いました。次が楽しみです。

さやわかさんの番組視聴者の層はとても広く、カルチャーお白洲のおたよりの投稿は常にレベルが高く、商業デビューしている人々が当たり前のように視聴しているこの番組の文化賞はかなりレベルが高いことが想定されたので、正直なところ、『批評なんて呼ばれて』が受賞することは難しいと考えていた。また、拙著はある問題点を抱えていて、それも受賞をしない理由になるだろうと考えていた。

さやわかさんが指摘しているように、まずさやわかさん自身をかなり肯定的に書いてしまっている本であり、なにかの理論的な乗り越えをしようとはしていないので、さやわかさんにとって、この本を肯定的に論評する時点である種の自分褒めになってしまう側面がある点だ。次に、拙著は手紙という対話形式をとり、最終的に奇妙な和解をする二人を登場させることでナルシシズムの体裁をとっている点だ。しかし、「作者がこの書き方を必要としたのも事実な訳で、それを乗り越えなけれは書き始めることができないことって、ありますよね。僕は老人なのでわかるのですが、特に若いうちは、あります」と評していただいた通り、私にとっては、批評のリハビリをしていた執筆当時、自分で書いた文章をそのまま批判し、その批判にさらに応じていくといった書き方、つまりは自分自身につきあってあげる、という「自己愛」を通じてしか本の完成は叶わなかったのだ。2022年に『ユリイカ』の今井哲也特集(http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3741)には「世界はおもちゃ箱 今井哲也について」という批評を寄せたものの、私の中ではまだうまく批評を書くことができず、編集の方には大変な迷惑をかけてしまった。その中で平行して、毎月1万字近く書きながらお白洲のおたよりを書いていた。『批評なんて呼ばれて』の原型はそんなふうにして作られた。

2010年代後半に批評から撤退した時期がなければ、本来、こうした本は5、6年前に書いておくべきだったのだろう。しかしそれでも、選評で言われているように、この本がもしも若さを保っているなら、私がまだ20代の半ばだったときに書いておくべきだったことを、おそらく当時よりもうまく感情を操作することで、必要なことを的確に表現できていたとも思える。それはそれで、歳を重ねたのにも意味があったのかもしれない。とはいえ、この選評にもある通り、これは若書きであり、人生の中で1回しか放てない弾丸なのだ。しかし、出し惜しみする理由はない。「出し惜しまず溜めなし紡ぐたびクラシック」と、自分で「Водка」(https://dinotum.bandcamp.com/track/–3)に書きつけた通り、いまこの瞬間使えるものはすべて使いきるつもりだ。だからこそ、次の本を書かなければこの本に価値はほとんどないと言っていいだろうし、私は、66部が人々の手に渡っているなかで、その読者に対する責任を負っている。そして、次の本が最初の本の読み手から評価されたときに、この本はほんとうの意味で価値のあるものとなるだろう。

ところで、私はもう一つの責任を負っている。さやわか文化賞は今年から始まった。今回の大賞とさやわか賞(副賞)はいずれも商業作品で、選評を読んだ限り、実際に読み、あるいは鑑賞してはいないものの、時代的なコンテクストの中で戦略を練って作られた優れた作品だと思われる。また、大賞・さやわか賞に限らず、ニーツオルグ賞・批評賞・物語賞・紙媒体賞・物理物件賞の受賞者たちの作品はそれぞれ力作ぞろいだった。それが故に、それぞれ活動を継続して他の場所でも成果を出すことができなければ、さやわか文化賞自体が単なる内輪ネタで終わってしまうのだ。それは、ひとりの受賞者としてまったく本意ではない。内輪ネタに終わらないようにするためには、さやわか文化賞に応募したことによって発生する責任を引き受けるほかない。私にとってそれは、自己愛を脱する活動にほかならない。

結果として、『批評なんて呼ばれて』刊行以後、私は他の人を巻き込んだかたちでの活動を開始している。その一つが『闇の自己啓発』という書籍で有名な江永泉さんと月一度配信している「光の曠達」(https://youtube.com/playlist?list=PLqquazgWuPmZUDMr85Gfq_JoDhmzsmQKV)である。江永さんの活躍の場をつくることが目的だが、私と江永さんは意見がおおよそ異なっており、自己の対話とは違って甘えることはできないので、毎月研鑽している。また、2010年代同人誌批評シーンについて、当事者にインタビューするという企画を動かしている。第1回はすでに収録を終え、現在書き起こしをしているところだ。これとは別に、ある方の著作の準備の手伝いを始めている。この本は、サブカルチャー批評で外すことのできない本になるだろうという確信があるが、詳細はまた今度、公表したい。いずれにせよ、私はもう自分と話をすることをやめることができるようになった。そうして、私自身の著作として、『批評なんて呼ばれて』で予告した『Javascpritから遠く離れて』を書き始めている。この本は『批評なんて呼ばれて』で取り上げたさやわかさんの活動ではなく、そこで言及することを避けてしまった、さやわかさんの批評そのものと本格的に対決することになる。また、一時代を画した、私の人生で大きな影響を与えた人物について論じたい。その人は、東浩紀という。なので、仮題として以下を示す。『JavaScpritから遠く離れて――東浩紀について』。このままのタイトルになるか私にはまだ分からないが、おおよそこのタイトルのような本になるだろう。

以上をもって受賞の言葉に代えさせていただます。