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佐藤正尚 南礀中題

7月3日、あるエヴァ本

和裁。今日は裏地を縫った。女物を男物に仕立て直しているので、裏地がふたつにわかれている。上の部分を背縫いしてから、脇を縫った。相変わらず縫っている間はゴールがよくわからないが、縫い終わると自分のしていたことが理解できる。身ごろ全体を縫い終わった後、背中が痛かった。仕事に対する根本的な嫌悪からくるストレスのためにウォールウォーキング・ブリッジをやっていなかったことが原因だと考えられる。酒を飲んでしまったが、寝る前にやっておこう。

和裁の昼休憩の食休みでシン・エヴァ文集を買いに紀伊國屋へ行っていたので、和裁にあとでビールを飲みながら松下哲也「『シン・エヴァンゲリオン劇場版?』は模型のアニメである」を読み、心を打たれた。私は「エヴァンゲリオンについて解像度を高く理解することできる」だけで、オタクではない。しかし、以前からエヴァの「おもちゃ遊び感」や「ウルトラマン感」をずっと言語化できていなかったので、現在の庵野の活動までを一貫して説明する視座を模型に求め、模型とエヴァの表現について見事に言語化していた。今後はぜひ、この表現形式がどのような形でアニメ表現や他ジャンルに影響を与えていったか、あるいはエヴァだけ特別なのかについて議論してほしい。

そのほかについては、五十嵐太郎のもの以外には勉強になったものはなかった。庵野の廃墟について自分はずっと関心を寄せていたが庵野が人が造りえないものとして廃墟に美的価値を認めていたのに驚いた。西田藍は実存があって読ませた。ただ、マリとシンジの関係もほとんど語られていないので、私にはあれが理解できない謎には思えなかった。この世界に完全に説明できる人間関係などあるのだろうか。最果タヒは最果研究をしたい人には重要な文章だろう。なお、ここまでミサトのことに関心があるから、加持が渚に向けて「老後はミサトと畑仕事しようと思うんです」と言っていたあのシーンでミサトが生きているような世界を担保していたのは、聞き逃してしまったのだろうか。ある意味で強烈な実存を感じさらる近藤論については、この手の議論で批判されるべき点が私の考える限りだいたい網羅されていてよかった。ただ、セオリーのせいで、自身の論点を主張するうえで取り上げるべき画面に映っている様々なものについて説明できない、そして徹底的に批判がなされていない点や、最後のシーンが私たちの生きている世界だという安直な解釈が気になった。セオリーは必要だが、使うときに内省が必要である。深い内省のないセオリーの適用はかつて男性中心に構築された文学史の反復になってしまう。ラストシーンについては同じ映画をみていたとは思えないほど素朴で驚いた。そもそも、庵野はかつて実写映像を混ぜた人であり、本当に現実の世界を描くならそうしただろう。シンジもマリもアニメーションだし、道を歩いている人もアニメーションだし、そもそもラストカットで去っていった電車は現在走っていない車両型だし、現実の宇部新川駅周辺には存在しない建物もあるという(どの建物かわからなくても、『雨月物語』のラストシーンを彷彿とさせる遠景まで捉えたラストショットが全体的にデジタル処理をされた痕跡があるのは明らかだ)。

近藤に限らないが、多くの人に共通して言えるのは、これだけ私たちと生きている世界とは関係がないことが強調されているのに、なぜ私たちの生きている「現実」という言葉を安易に口にできるのだろうか。エヴァンゲリオンがない世界は、私たちの世界とは限らない。どうして私たちの世界が選択されるべき世界などと思えるのだろうか。あるいは、そう思ってしまうつくりをしているエヴァが見事なのかもしれない。

最後にこの本について気になったのは一緒に感想を話して練り上げていった、という謝辞が2,3本見られたことだ。松下論文を読めば明らかなように、エヴァンゲリオンに極度に真剣な人は、他人と感想を語り合う前に論点が固まっている。私はアバンのカチコミのシーンについては、ほぼ語ることがなかったのに対して、第三村に至るまでの5分ほどカットについてひとりで友人に対して廃墟論、カット割、エヴァの左手とエッフェル塔のカットの関係性についてなど1時間ほど質疑応答しつつ話していた。今回、様々な角度の文章が読めて楽しかったが、もっと「ガチ」な人の「感想」を読みたかった。