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佐藤正尚 南礀中題

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今日はトリッペンで靴を買った。メンズの靴サイズがあまり合わなかったのでレディースを勧められたので持ってきてもらうと、皮の伸びを考慮するとジャストフィット。ジャズダンスシューズのような感じだが、スタイリッシュでよい。今持っているニューバランスのスニーカーは靴底の修理に出さないといけない。

靴慣らしで原宿から渋谷に歩いて行った。まだ少し硬いが、2,3kmくらいではまったく足が痛くならないので確かにいい靴だ。スタバに寄って本橋『愛の不時着論』、『根のないフェミニズム』、『ざっくりわかるファインナンス』を読了。愛の不時着論はシーンを思い出してカフェで涙ぐんでしまった。『根のないフェミニズム』は、2010年代韓国フェミニズム運動の総決算のような本で、読んでいて非常に勉強になった。If booksという出版社のことが気になる。日本ではフェミニズムを中心にとりあげる叢書はでているが、出版社がないので、韓国では、若い世代でも、運動と出版が日本よりはるかに強く結びついているなと思った。

家人が親友の結婚式に出席するためしばらくワーケーションで里に帰ったので、一人で新大久保で韓国料理。タンコギの店があるというのできてみたらすでに影もなし。近所の店でプルコギとキムチ。ビールですっとすませる。帰りにコンビニでドーナツとワッフル、ジャスミン茶を買う。家で松下哲也のシラス放送を視聴。レビュー・スタァライトがとにかく見るべき、映画は特に、というのは十分わかったが、はやくアマプラで公開してくれないと見れる時間に映画館でかかっていないので、なんとかしてほしい。

少し気になったのは、前にも書いた気がするが、近藤銀河のシン・エヴァ評価で、異性愛カップリングで解決した物語、という見立てについてだ。彼女の他の論点とちがって明らかにここだけ飛躍があるといつも思う。そもそもシンジとカヲルを同性愛的な関係で見ているのは作品受容者の側の話でしかない。中学生の頃から男子校なので、私はあれだけみても2人のセクシャリティについてはまったく断定できない。中学生男子どうしが恋愛関係を結ぶ映像作品に見られるような、性行為やキスといったシーンもないのに、あたかも同性愛を断定できるかのような文脈自体、物語受容としては問題ないが、解釈としては偏見に近いものだと思う。そもそも、シンジはバイセクシャルかもしれない。ジェンダー批評するならその可能性を全て物語的整合性において論じないとなかなか納得できない。例えば、私は異性愛者だが、男の子どうしが手を繋ぐ、腕を組む、ピアノを連弾する、といったことについてシンジとカヲルの関係が同性愛的だ、というのは良いのだが、同性愛を断定する根拠にはあまりならないだろう。もちろん、同性愛が性的関係だけに決定されないかもしれないが(そもそもある人物が同性愛なのかどうかを仕草や言葉から推察して決定することに問題があるのではないか?)、そこまでいくと、もっと強い解釈の枠組みが必要だ。つまり、特定のアニメ物語史観とか、なにかの文脈においてしか成立しない議論なのだ。私は、まだ近藤の議論からはその強い枠組みを見いだせない。だから、異性愛的な物語への回収、という言い方にはとても頷けない。さらに、マリを否定的に論評する、近藤以外にも広く共有されている点についていつも思うのだが、それでいいのではないのだろうか。マイナス宇宙での経験を分かち合うことができる数少ない人を愛することで異性愛的物語化といって否定するのはマリがバイセクシャルかもしれないのに、何か一方的すぎる気がする。作品の可能性に期待するのはいいのだが、それが失われた結果、作品を批判する人々をゼロ年代の論者含めてたくさんみてきた。自分の気持ちが大事、というのは尊重したい。だが、私のシン・エヴァへの高い評価には何一つとして影響しないし、いまさら指摘されている問題はアニメシリーズの頃からずっとあったものばかりだ。なぜそれを愛したのか、それについて考えるほうが私には意義深いと思う。

筆がのってしまったので最後に一言だけ。第三村の知識労働者が男性しかいない、という批判は、ヴィレのクルーが第三村への帰還を暗示する最後のシーンでリツコを含めた知識労働者が到来することによって90年代以前の世界観がおわり、新しい時代を暗示しているのを単に無視している。第三村は黒電話、銭湯、昭和中期の電車、ヒカリの父、といった私たちが過去のものだして認識できる符牒に満ちていて、その理由はヴィレに知識労働者が集約されているからというのに他ならない。映画に描かれていることを無視できるほどの解釈は、実はそんなに簡単ではないことの一例だろう。

レビュー・スタァライトトークショーで勉強したのち、『現代スピリチュアリティ文化論』読了。伊藤雅之が90年代初めにラジーニを論じていたのは知らなかった。偶然だったらしいが、同時代的にも貴重な試みだったと思う。本も非常に勉強になった。新興宗教系のスピリチュアリティではなく、マインドフルネスとヨガといったビジネスよりのスピリチュアリティについて文脈を理解できた。また、アンドリュー・コプソンが20世紀になってヒューマニズムの意味が全く変わった、という論の紹介は興味深かった。その論旨が私の研究しているパヴロフスキーの態度と似たものを感じた。これは何かに活かせるかもしれない。

トレーニングを簡単に済ませて、1:00から風呂。四十分ほどだらだら浸かってから就寝。