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佐藤正尚 南礀中題

7月11日から18日

11日日曜日に友人と小説を書いていた。本来はメインプロットだけ担当していた。向こうは会社が激務で9営業日間に実質11営業日働いていた。私といえば研究に時間を使っていて、本文ができていなかった。というわけで、一気に進めた。久しぶりに1日で1.2万字も書いた。児童文学である。缶ビールと缶ハイボールを飲みすぎた。

月曜日、ふと耳にしたコミュニケーション3.0を調べた。簡単にいうと、現在のオンラインを前提とした労働スタイルで生じるコミュニケーションはすべて3.0らしい。

つまりC3.0とはとにかく会社に行かないことである。会社に行かないことは本当に素晴らしい。万歳、コミュニケーション3.0。会社では細やかなコミュニケーションなど私は全く求めていないし、そのほかここで書くにはあまりある些事がなくて本当にいいと思う。そもそも、広い意味のペーパーワーカーの労働様式をコミュニケーションといいきるところには商売魂を感じる。繊細な社会学的な用語の定義も必要だが、いっそこれくらい思い切るのもいいだろう。事務的な会話の豊かさ以外、コミュニケーションは存在しない──。

もちろん、テレワークはそもそも人にあまりあわない。会社構成員の中心である40-60代の人間はオンラインを中心としたコミュニケーションに慣れていないし、いわゆる日本の「中間共同体」の変化に耐えられないだろう。また、若い世代ほど会社での人付き合いがよくない、という都市部での特徴があるが、これは若い世代(私もできれば入っていて欲しいが)は単に中間共同体が会社に準拠していない人が多くなっただけであり、上司も経済的にさして羽振りも良くなく、その会社にどのくらい長い間いるかもわかないから、価値を見出しづらい──、たいていのジャーナルのコラムに書いてある通りだ。若い世代は、酒を飲むかは知らないが、友人や趣味のつながりで頻繁に会食している。つまり、どの世代についてもオンラインのみでコミュニケーションを完結させるのは無理なのだ。一人で部屋にこもりっぱの人であれば、なにがしかの配信やオンラインゲームで共同プレイしている。しかし、そのような人はマイノリティだ。

「中間共同体」に関係すニュースといえば、合計特殊出生率の低下、新生児数の低下、世帯あたり平均人数の低下といった報道があった。それは驚くべきことではない。家庭をもつ人が減っているのだから当然だし、社会基盤は現在の40代後半から50代が握っているが、その人々の思考の習慣はあまりにも現状と合わなくなってしまった。青春が80年代ということはそういうことだ。そして、そのときの社会の中堅どころは、現在の六十代だ。日本の企業で硬直した経営しかできずに瓦解していった東芝や、今現在もゆっくりと崩れていくだろういくつかの企業の中心がいまどのような人々かを考えれば、そうした世代の声が強い自民党がなぜテレワークを支持基盤の企業に強制できないのかもよくわかる。しかし、そんなものはどこ吹く風。私は、自発的にテレワークに隷従する日々を楽しんでいる。そもそも、自分で作った会社でもないのに、コミュニケーションが仕事を中心に展開するなど、生涯不可能だろう。コミュニケーション3.0は存在しないし、そもそもペーパーワークは本質的にオンラインで対処可能な業務が多い。中国政府のIT志向も私はこんなところに所以があると思っている。文書管理機構として巨大な権力遂行主体を築いてきた伝統のある大国は、潜在的に情報技術に長けているのかもしれない。

火曜日、急に脇腹に筋肉痛のような痛みを覚えた。ふと左腕の注射した箇所をみると、上腕筋が赤く晴れていた。しかし、ときに何も困らないので、朝の6時から翌日の研究ピアサポート会の資料を作成した。仕事をサボって福島真人先生主催のオンライン研究会の末席で聴講しようと思ったが、急な訪問をする必要があり、参加できず。仕事が終わった後、雑多な読書。

水曜日、ピアサポでは博論の構想について話した。版の異同は重要だが、結局は修論のテーマをより深く掘り下げ、軸としてベニシューでいくことにした。修論では生活に余裕がなかったのでベニシューを腰をすえて読むことができなかったが、例の第三部の翻訳が年内にでるかもしれないし、でなくても原書が手元にあるので、なんとかなるだろう。

木曜日は疲れていて、酒を飲んだ。寝る前にNetflixでバイオハザードを飛ばし見。微妙だった。英語の聞き取りとしては簡単だったのでよかった。ちょっとづづみているトレセもみた。思いの外、トレセは良い。主人公はクールだし、支える周りの人間との交流も抑制が効いていて、ドラマのストーリーラインが主人公の因縁に関わってくることをよく描写できてよかった。あと、フィリピンの怪物の可愛さも。アクション描写もこの作画のものにしてはどんどん良くなっていると思った。10年後くらいに何かすごく面白いものを作っているかもしれない。徹底的にローカルであることで、人は普遍に飛躍する契機を手に入れる。みんな、トレセをみよう。

金曜日はワインを飲んだ。『これからヴァギナの話をしよう』と『哲学の女王たち』をようやく読み切った。大変優れた2冊だった。

『これからヴァギナの話をしよう』は、内容の充実は言を俟つまでもなく、リン・エンライトの書きぶりがとにかく冴えている。翻訳の小沢身和子の技量の高さもあるのだろう。さて、私はこの手の本を読むたびに思うのだが、男性が読んだ方がいい。私は最初、スキャンダラスでなく、かといってアガデミック色が強くないこの手の本を管見ながら知らなかったので、気になって購入した。筆者自身の経験を反映した強い主張の部分は読者で同じ身体を抱える人でも判断が異なるだろうし、統計では恣意的な引用も感じられるところ(オランダの性教育のデータについての紹介部分など)をのぞけば、大筋の違和感については誰でも首肯できるように丁寧に説明されている。まさに女性がヴァルヴァとヴァギナにまつわる心配事をお互いに気軽に語ることができない社会の文化風習の構築によって、自身の身体の管理する知識と力を奪われ、男性の産婦人科医師が診断し、ときに「痛み」についてまったく無理解である、つまり女性であるということだけで奪われる「痛み」があるということ、その極北たるFGM、最後に更年期についての記述。時おり、私は具体的事例の深刻さに読んでいて気分がわるくなったが、残念ながらこれが社会の現実なのである。この本はそのほかさまざまな学びがあった。私は、私の無知と想像力の貧困さを教えてくれるこうした書物に出会いたいと常に願っている。

『哲学の女王たち』もまた、そうした本だった。ひとまず、イギリス系の執筆者が多いわけか、イギリス系哲学者が後半は偏っているような気もしないではなかったが、巻末にそのほかたくさんの哲学者がとりあげられていたので、継続的にぜひ紹介してほしいと思う。そう思って読み終わった後、エディート・シュタインの記事について私が以前から信頼しているフッサール研究者から以下のような指摘があった。

いかに続く指摘をみて、執筆者の肩書きを見直すと、少し悲しい気持ちになった。

ウォーリック大学で哲学を専攻する大学院生。おもな研究テーマは、形而上学と現象学の歴史で、ときにイマヌエル・カントとマルティン・ハイデッガーを対象にしている。

せめてフッサールを主に研究していれば──、と思わなくもない。というか、優秀な大学院生でなくても専門的な記述は常に難しいのであって、ここはピアレビューをしていてほしかった。正直なところ、臆見で先走ったと言わざるをえない。とはいえ、それでも私はいささか擁護したい。

原著を読んでいないので正確な表現はわからないが、Broughの功績を強調して「まとまったものはなかった」という点をいいかったのかもしれない。などと自分で言いつつも、表現が極端なので、この用語もきっと無理筋なのかもしれない。ということで、私はなあなあ路線でいきたい。これは見識のあるのライターがジャーナリスティックに記事を書いたのだ、と。BoehmとIngardenが指摘していたことを見逃していたかもしれないが、それでこの記事の価値が減じるかと言われれば、そうでもない。例えば、私は基本的に不勉強で無教養なので、フッサールの『内的時間意識の現象学』はもちろんフッサールがほとんど書いたと考えていた。しかし、E. シュタインなしに、フッサールはこの本をまったく書けなかったわけだ。事実認識に問題が一部あるとしても、このことはフッサリアンか、それに匹敵する人しか知らないわけだし、彼女が書いた『有限存在と永遠存在』をぜひ読んでみたいと思った。これがこうしたスタイルの記事の力だろう。ちなみに、私はボーヴォワールの記事を読んで『第二の性』を買おうとしたが、本屋にいってもないし、日本の古本屋でも新品の仏語を買った方がましな値段になっていて驚いた。ブックオフで探してみようと思うものの、そもそも私が中学生くらいだと大きめな書店にはだいたいあった記憶がある。これが時代の流れか、という感じだ。

土曜日はいつものように和裁にいき、裏地を進めた。読書の寝不足のためか進捗が悪かった。帰りに家人と合流し、家具をみた。近所にできた新しい店でバーニャカウダーとラー油を購入。美味しかった。食事のあと、李琴峰『彼岸花の咲く島』を読んで、芥川賞受賞会見で切っていた啖呵にくらべて拍子抜けした。さやわかさんが言語SFと紹介していたので、その情報だけで読んでいれば「たまには面白い芥川賞もきたか」と思ったが、著作者本人の弁では、これは日本文学をアップデートしているらしい。しかし、控えめに言って、この著作のアイディアはラーメンズ『TEXT』「条例」と『ALICE』「不思議の国のニポン」の域を出ない(もちろん、「銀河鉄道の夜のような夜」での自己引用をふまえている)。文学でいえば、私はこの本を読んだ後、当然のように石牟礼道子『苦海浄土』完本を読んだ。圧倒的だった。冒頭から杢太郎少年がででくるまでの、和歌の借景、海の底にも泉が湧くという詩的表現ですでに『彼岸花の咲く島』の印象は消え去り、杢太郎の頸の匂いの描写で、その筆力にため息をついた。一体、李琴峰は何をアップデートしたのだろうか。今後に期待したい。

日曜日。今日。朝寝坊しつつ、馬場の鰻屋にいくが、人気すぎて店に入れず。いつものように張亮で麻辣湯を食す。『竜とそばかすの姫』をみた。『美女と野獣』がやりたいならもっと真剣にミュージカルをするべきだろう。歌詞の内容もストーリーをぼんやりとしかとらえていない。中村佳穂の優れた歌声と演技力や役所広司の声、アニメーションとしての達成など見所はあったものの、ストーリー構成が甘すぎて途中から内容がよく頭に入ってこなかった。帰ってこの記事を書いている。一週間が慌ただしく、備忘録も更新できなかった。ただ、今週もいい日々を過ごしたと思う。