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佐藤正尚 南礀中題

12/16

大学で休学届けに印鑑をもらい、届けの書類にアドバイスをもらう。コロナのおかげでオンライン提出がいろいろ進んでいて助かる。生協会員も延長した。帰りに10%オフで批評の教室を買う。

仕事帰り、贊記茶餐廳で家人と食事。美味しすぎて食べすぎる。香港のミルクティーはお菓子の甘みを際立てるために、苦く、香ばしい。非常に好みだった。また行きたい。

夜、批評の教室を読み終わる。読者受容論をかなり肯定的に押し、フィッシュ的な教育の重要性をだすのはこの手の書物の最近の流行りだが、ここまで徹底して実演しているのは珍しい。学際的に広がり、教育学的なアプローチも今後期待したい。

一点気になるのは、日本語の作品で一番長く言及されているのがごん狐だったこと。新美南吉の著名作で、教科書にも採用されているので知名度は高いが、どうしてこれにしたのかよくわからなかった。受容論重視で人々に知られている作品の方が良かったのだろうか。あと、殿様や城という表現があるから江戸時代以前、という断定もやや気になった。藩主のことを殿と呼ぶこと自体は江戸時代もあったと何かで読んだ。まぁ細かないことであり、30年代にしぼって背景を読んでいるので本質的な指摘ではない。

それより本質的なのは、解釈共同体モデルは、権威が手続的正しさに宿る点についてあまり触れていない点だった。その権威はえてして手続き的正しさの正しさについての権威的主体が生まれ、瞬く間に崩壊する。かつてのスターリンが書記長として一党独裁したのはまさにそういう背景だったはずだ。教室、という用語で学識と倫理的な正しさを兼ね備えた教員がその権威を担うわけだが、教員自体の持つ権威によって支えられる共同体はとても危うい。その点について、本書では自分が好きだと思うことをどう肯定するのか、といった議論で補完していたわけだが、それで十分なのだろうか。好きに権威は宿らないのだろうか。北村メソッドは本人なら安全にできるかもしれないが、北村以外が広く行うのはどうすべきか。今後の著作に期待したい。