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米原将磨

『アイリス・オデッセイ』発売にあたって

2026年5月29日、つまり、今日、私が参加していた『アイリス・オデッセイ』が合同会社イースニッドより発売された。詳細は公式情報の以下を参考にしてほしい。

ぜひみなさんでゲームをプレイしていただき、「#アイオデ」をつけて感想を投稿していただくと嬉しい。

では、ここからは私がこの作品についての短いエッセイを書き残しておく。

私はプロデューサーという肩書きだが、主要業務としては以下を務めた。

スクリプター
スクリプトデバッガー
広報統括
ティザームービー絵コンテ
ティザームービー制作
SFX編集
音響監督
アニメーション編集
エンディングムービー監督
クレジット監修
アシスタントゲームデザイン
プロデューサー
ナラティブデザイナー(メインプロット)
日本語監修
監督補助
プロダクション・コーディネイター
プロジェクト・マネージャー
(以上、クレジット登場順)

イースニッドは創業者で監督の太田一行に米原将磨が参加するというかたちでゲーム開発を続けてきた。ようは2人しかいないので分担するほかないし、得意不得意の観点からクオリティ・コントロールを委任された部分もある。例えば、「音響監督」とあるように、ミックスとマスタリングについては、メインテーマをのぞくすべてのBGMと効果音について私の意思が反映されている。2023年あたりから音楽批評に関心を強く持ち始めた私はひたすら音楽のエンジニアリングについて考えていたこともあり、方向性のすり合わせは精度高くできたし、エンジニアの成塚優貴の優れた手腕のおかげで、かなり独特のノベルゲームBGMの質感になっていると思う。成塚はDTM、エンジニアリング、楽器演奏もマルチにできる優れた才能の持ち主なので、『アイリス・オデッセイ』のBGMを聴いて関心を持った人はぜひ成塚に作曲の依頼をしてほしい。また、ピアノ生演奏をしてくれたシラスで知り合ったyurikoさんにも感謝を。


他にもあまりに多くの、ゲームの根幹に関わる作業をしてきたが、そのことはまた別のところで詳しく話したり書いたりすることにする。

ここでは、この作品は動画プラットフォーム「シラス」の誕生によって生まれた、もっというと、ゲンロンカフェ周辺で生まれた作品だということについて忘れないうちに書いておきたい。
『批評なんて呼ばれて』(フヒトベ、2023年)にてオートフィクションの手法で書いたように、私はゲンロンカフェができた頃に大学生になったばかりだった。そこでいろんな人と交流した。編集者、アーティスト、写真家、ミュージシャン、ライター、批評家、小説家、建築家、ゲームデザイナー。すでにその肩書きで働いていた人もいたし、そこを目指していた人たちがたくさんいた。その頃は何者でもなかったが今では何者かになっているし、何者にもなっていないにしても人生を続けているだろう。あるいは不幸なことにある人々はただ単に消え去った。私は専門がフランス文学のこともあり、初期ゲンロンカフェの喧騒は19世紀末にその後のフランスの前衛芸術のあり方を永遠に変えてしまったカフェ「シャ・ノワール」のようだったな、とつくづく思っている。

あの頃のゲンロンカフェはDIY的な雰囲気がまだあり、放送ブースなどなかった。ビールケースを少し積み上げ、膝くらいの高さになっていたところに畳がしかれ、夜な夜な始発までの数時間、話しこんだ。そこで時を同じくしたあの人たちとは交流もないし、何をしている人かもよく知らないが、あの瞬間でしかありえなかった出会いと別れだった。

年に数回ゲンロンカフェに行くだけで普通の大学生では不可能な濃密な体験を過ごした私は、こんなことを考えるようになった。研究者のように学びたまに論文を投稿し、批評家として商業・同人とわずに媒体に寄稿し、たまにクリエイティブな事業に携わる、そんな人生。その無邪気な高い理想、すなわち陰惨な妄想はさまざまな形で自分を追い詰めていくことになる。

そうして、私自身の問題から、ゲンロンカフェには2016年の終わりからまったく行かなくなった。批評に関わる業界が嫌になり、研究の世界に閉じこもり、それはそれで楽しい日々を過ごした。ただ、それも3年ももたない。研究が行き詰まり、研究者としてのキャリアの不安を迎えた。クリエイティブなことなどまったくできなかったし、金もなく、思想も固くなるばかりだった。ただ、それでもまだ人生を生きていくことにした私は、2020年から友達の伝手で職を得た。それまで私が積み重ねてきたものとほとんど関係のない職種だった。

そんなとき、「シラス」が始まった。コロナ禍のシラスの立ち上がりは本当に楽しかった。30歳を目前にして新しい友達ができた。職場でもないし、習い事でもない。単に文化や政治について関心があって、イベントスペースで会うだけの人と友達になること。それは本当に奇跡みたいなことだ。

そうして再びゲンロンカフェと出会い直した私は素晴らしい才能と出会った。それが山下Topo洋平さんと厳男子さんだ。
2021年の無観客配信のみゲンロン総会でTopoさんの「流星群」の演奏に衝撃を受けた。

「流星群」は、はじめ4/4か3/4拍子だと思っていたが、ピアノの入りとメロディラインを辿っていると混乱がはじまる。耳に馴染んでいく音の連なりは、ポップスでありそうなリズムとはどうやら違った規則で動いているらしい。だた、それは完成された美しいメロディだった。のちに、私はTopoさんの動画でそれがカルナバルというリズムだと知ることになる。カルナバルについて詳しくはこの動画を見てほしい。

そんなふうに、はじめは一方的に聞くばかりだったが、あるときqppさんに呼ばれてTopoさん主催のイベントに行き、付き合いができた。今では毎月スタジオを借りる仲だ。そんなとき、監督からゲーム開発の相談を受けて、メインテーマを本気でやりたいならTopoさんで行きたいと言った。シナリオをすべて読み込んだうえで作曲し、クオリティに信頼ができて、独特の雰囲気をもつ他にはないメロディとリズムを作ることができて、音楽だけで生計を立てているプロフェッショナル。インディーゲームの最初の一作目のメインテーマはそれらしいものではなく、それでしかないものがほしい。どこかで聴いた似たようなものを安く済ませるなら、さまざまな作曲家に依頼できた。それでも、ワイニョ、カルナバル、クエカ、タキラリ、そんな南米のリズムを身体化して自分の音楽を作る、物語に引っかけて言えば、魔法使いのような音楽家をTopoさん以外に思いつかなかったし、それ以外の人に依頼したいとも思わなかった。そうしてできたテーマ曲「アイリス・オデッセイ」は、以下で聞くことができる。

例によって信頼できる成塚にミックスとマスタリングを任せた。また、この曲は私が米原将磨名義で書いた歌詞がついた歌にもなっている。Topoさんと出会ってから4年で、作曲を依頼するどころか、彼の曲に歌詞を書いて、それが配信されるまでになった。シラスがなかったら、こんなことは起きなかった。

厳男子さんに出会ったのはTopoさんと出会ってから1年経つかたたないかの頃だった。シラスの共通の知り合いを通して面識を得たのだが、ラインマンガ『ムラサキ』の作者だったことは名前を聞くようになってから知った。

『ムラサキ』を読んで看取したのは画面構成力とカラーイラストの圧倒的なセンス、そしてその独特な思想だった。読んだ瞬間に普通のマンガ家ではないと直感した。ギャグ満載のストーリーは、次第に哲学エッセイと化していき、もともとの問いそのものが解体される。あたかも田中小実昌の小説『カント節』の読後感を覚える前衛マンガ。それを圧倒的な画力によってメジャーレーベルで連載させる胆力と実力。可能なら大きい仕事を一緒にしてみたいと思った。そんなときにちょうど、ゲーム開発の話が持ち上がり、アートディレクターは外注ではなく自分たちの仲間でやりたいという話になった。たまたま厳男子さんと会った時に仕事の様子を聞くと、まだ次の連載は決まっていないということだった。ゲーム開発について相談してみると、アートディレクターの仕事の依頼を快諾してくれた。

いざプロジェクトに参加し始めると、マンガ家としてイラストレーションの集団作業に関する知見もあり、こちらの考えた作業フローとのすり合わせもスムーズだった。また、何よりも感銘を受けたのは色彩を調整するときに自身が何をしているか精確に語れることだ。弊社の監督の意向もあり、色彩設計の参考の一つとして『ブルーアーカイブ』をあげたのだが、彼による色彩の解析と表現方法の意図の推測、色彩設計の再現には驚いた。その時の対話のほんの一部は以下の原稿に反映されている。

そしてもちろん、彼の導いたエッセンスは、他のさまざまなコンテンツと合わさって、『アイリス・オデッセイ』のイラストを輝かせている。もしもシラスではなかったら、この哲学者にして求道者のようなマンガ家に出会えなかったし、インディーゲームにおいてこのクオリティでコントロールされたスチル絵や背景画をつくることは絶対に不可能だった。

Topoさんと厳男子さんがいなければ、『アイリス・オデッセイ』はここまでのクオリティには決してならなかった。シラスがなければ二人に出会えもしなかった。シラスもあと少しで10周年になり、すでにその折り返しを迎えて、オープン当時と同じままというわけではない。多くのチャネルが消えたし、私の付き合いのあるシラス配信者の土屋耕二さんは「自分は絶対にならない」と言っていたはずの市議会議員になってしまった。これからシラスに関心をもった人がいたとしても、私が体験したようなシラスでの日々はもう経験できない。ただ、サービスとはそういうものだ。私が言えることは、あの瞬間にシラスがなければ、ゲームがこんなふうにして発売されるなんてことは起きようもなかったということだ。あらためてシラスに深い感謝を。


さて、こうして振り返ってみたとき、ちょうど5月29日、『アイリス・オデッセイ』の販売のほかに、私の心を動かすものがある。Kamuiの冠番組「Kamui’s HYPE THE HOPE」の初回放送だ。

Kamuiはこの番組が決まったことについて歌った「ウサギとカメ」で10年かかってようやく自分独自のキャリアが最高のかたちで定まったことをラップする。

やっと間に合った
10年前に始まった
ウサギにはなれなかった
カメだから間に合った
アイツはウサギはおれはカメ

私も近い世代が早々にデビューしていくことについて、あの頃戸惑いがなかったといえば嘘になる。身近な人間が名前が広く知られた出版社から本を出しているなんて当たり前で、同い年の人間が自分と同じようにおしゃべりするだけでYouTubeの大きなチャンネルで再生数を稼ぎ、たまに1万部単位で本を売っていく。ただ、一方で私は私のやりたいことがずっとあった。10年前に自分を苦しめたあの妄想、「研究者のように学びたまに論文を投稿し、批評家として商業・同人とわずに媒体に寄稿し、たまにクリエイティブな事業に携わる、そんな人生」。10年経ってみてどうだろうか。

私は会社勤めを始めてから、そこで転職などでいくらでも話のネタになる成果を残した。その間、査読論文は1つもっていて、学会発表も論文投稿もした。批評家として5本の原稿を寄稿し、商業誌にも同人誌にも掲載した。YouTubeでは定期的な配信を続け、小綺麗な解説番組なんてしない、エンタメともほど遠い内容のうえ、更新頻度も低いのにもかかわらず、いつのまにかチャンネル登録者数はサブスクリプション基準開始の基準を満たしていた。ある時から自分で会社をつくっていた。そこからは本を2冊出して、私の発案ではなく、ある人から持ち込み企画で学術的に貢献する本の出版企画も動き出している。そして、あれから10年目の今日、『アイリス・オデッセイ』という、最高のクリエイティブ・チームと作り上げたゲームが発売になった。ここまで私は、どこの組織の支援を受けることなく、すべて独立不羈にやってきた。私は自分で開拓した道をカメのようにゆっくり歩み、しかし止まらずになんとかここまでやってきた。私の今の気持ちは同じくKamuiが「Beginner」で代弁してくれている。彼の言葉で今日は締めたい。

10年経った今一番楽しい
平沢唯みたいな気持ちが大事

※本記事は合同会社イースニッドによる公式の見解を含むものは一切ありません。米原将磨個人の見解です。本記事についてのお問い合わせは合同会社フヒトベまでお願いいたします。