信じられないくらいなんでも話題になる。今回は大塚英志の書評がSNSで物議。https://www.news-postseven.com/archives/20220513_1752431.html?DETAIL
誰とは言わないが、アカデミズムとサブカルチャーの学際性批判に肯定している人もいる。一方で、読まなくても書ける感想文でしかなく本についての吟味になっていない、女性が著者だからぞんざいな扱いをしているだけだろうといったような否定の意見もでている。
肯定派については、この太古の昔から繰り返されてきた同時代証人の登場と、証言と記録の真正性をめぐる問いなしで肯定していて大丈夫ですかと思う。否定派については、学会の雑誌に載るような査読に近い書評をただの広告記事に求める点にただただ驚く。実際、書評のおかげで慶應義塾大学出版会のこの本を知った人も多いだろう。なお、作者の性別については、筆者の大塚が気にしていたか怪しい、という論点もありえるだろう。
ただ、否定肯定以前に、大塚氏はそういう書き手だったという気もするが、みな全てを忘却しているのだろう。例えば,このツイートには驚いた。
https://twitter.com/lotzun_deupol/status/1526898797074599936?s=21&t=F8v_UvoLw9ewInvCHEc93w
ただ、大塚という書き手の評価を措いて、彼は今や大学人だ。大学人なのであれば、たんにご自分でインタビューアーカイブを作るのがいいのではないだろうか。デジタルヒューマニティーズの界隈では10年前からそういう試みがあるし、こういうことを言われてもいまの職業としては仕方があるまい。
シラスについて創業者の危惧を聞く。
シラスの今の雰囲気が、ゼロアカの反復なのは間違いない。ただし、あたりまえだが、シラスを聞いている側も、やっている側も、ゼロアカに比べて人生のさまざまな意味で老いてるし、なりよりも職業人が主体的に放送している点はまったく異なっているし、飲み会が付随的なことがわかっていないのは内部の人のうちのたぶん一部だろう。というか、シラスをやっている人も、エンカレッジされるのではなく、シラス以外でうまくいけば単にシラスを切ることも十分にありえるだろう。そういうものだし、それをどう防ぐかがサービス設計というわけだ。
私も個人的にゼロアカの人と一時的に付き合いがあったが、私があまりにも若かったというのもあるが、あの方たちは労働していてもしていなくても話はあまり楽しいものではなかったし、シラスで知り合った人たちのうち、かつてのハンドルネームで有名な人の意味のなさに比べればまったく質が異なると思うし、ジェンダーと世代のバランス感覚も多様なので、あれを本当にたんに一緒にするコメントをみて少しげんなりした。
いろいろ思うところがあるものの、いまの東浩紀は、同じことをやっていたとしても、ゼロアカの頃よりずっと信頼がもてる。いつか天才は来るのだろう。同じことは起きないだろう。