カテゴリー
佐藤正尚 南礀中題

12/20

仕事終わり、Dear Evan Hansenを池袋で鑑賞。想像以上に良い出来だった。コミュニケーションとは自分について自分の中で完結して話しているはずなのになぜか他人に向かっていくために、様々な軋轢と調和を生むということを瑞々しく描いていた。ベン・プラットの演技も大変見事で、いかにも運動ができない人の走り方、手汗を気にする描写、早口になって頭を振ってしまう仕草など、細部の演技が素晴らしかった。最近ではVFXがミュージカル映画ではかなり多いのだが、この映画ではほぼなかった。それも弱点とはなっていなかった。演出効果としては、最初のシーンがエヴァンの自殺の試みだった、ということが本人の語りによって明らかになるまで執拗にリフレインされるシンプルなものしかないが、劇的な筋運びに対して抑制の効いた演出になっていた。コナーになりすますことができたのも(映画ではしたかった、という欲望が語られるのみだが)、自分自身が自殺しようとした人間なので可能だったということがわかりやすく説明される。こうした手法は多くミステリで用いられるものだが、この映画では、コナーが自殺した理由については、実のところ全く不明であり、それは問題になっていない。そうではなくて、むしろエヴァンがなぜコナーになろうとしたのかが解き明かされるという話なのだ。私は、自殺に対して真摯な描写だと思う。なぜなら、生き残った者ができることは、自殺した者について本当に知ることはできないことを知ることだからだ。

ミュージカルの脚本の頃からそうだったのかもしれないが、実際、この脚本は自殺した人間の周囲の者たちの反応自体について、批判的な言葉を投げかける登場人物や、自殺した者に共感する者たちの暴走を描いている。この物語を見ることで鑑賞者にかなり心理的な負担を与えるのは、自殺に関心を持つ者全体に対する容赦のない批判的態度ゆえだろう。自殺について語るだけで、語ることができない空白を勝手に埋めてしまう。しかし、母が子に伝えた歌にもあるように、 「私には埋められないかもしれないところがある」(“There would be space I couldn’t fill”, So Big/So Small)だけで、わたしたちはそれを埋めようとすることの価値を明確にするのもまた、この物語なのだ。