戦後80年談話は戦後談話の中でもとりわけ奇妙なものだった。
戦後 70 年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。
このような書き方は批評家や評論家のふるまいであって、政治家の振る舞いではない。彼がこうした書き振りを抑えきれないということこそ、彼が政治家としてではなく評論家の方が向いていたことを物語っていると同時に、戦後で初めて、そしておそらく最後に評論家が首相になったことを意味する。また同時に、首相として評論を発することであらゆる評論家より現在においても後世においても読まれる文章を書いたことは否定しようがない。優れているかどうかなどは関係がない。
とはいえ、ではなぜこんな中途半端な論評を発表したのだろうか。
結局のところ、首相がこれを発表した、ということそのものの権威性を彼は信じたのだろう。必ずこの文書はアジアで翻訳される。日本語で書かれた日本人のための言葉ではない文章として割り切り、戦争責任についての考え方を首相として残すこと。評論家としての半端さを受け入れることができなければ決してそんなことはできない。その半端さゆえに、多くの現役の評論家は彼の政治家として配慮する評論家という姿に文句をつけるだろう。ただ、評論家であるがゆえに、非難されることもまた彼は百も承知なのだ。
鳥取の名士であった浄土宗の父をもつキリスト教徒、政治家であり評論家という相矛盾した男、石破茂。
2018年のインタビュー記事によると、石破氏は4代目のクリスチャンで、母方の曾祖父が、新島襄の愛弟子である金森通倫(みちとも)だった。40代でいったん棄教するものの、その後、救世軍やホーリネス教会で活躍し、晩年は湘南の葉山の洞窟で暮らす変わり者だった。金森の妻、旧姓・西山小寿(こひさ)は神戸英和女学校(現在の神戸女学院)の第1期生で、岡山の山陽英和女学校(現在の山陽学園)の創立者の一人に名を連ね、初代専任教師になった。この二人の長男・太郎が石破氏の祖父で、その長女・和子が石破氏の母親となる。この和子と結婚したのが、鳥取県知事から参議院議員になった石破二朗だった。キリスト教徒の家庭の娘と結婚した浄土宗系の二朗が何を考えていたのかはわからない。息子の石破茂氏は、1975年頃、母親が通っていた日本基督教団・鳥取教会において18歳で洗礼を受けたそうだ。
一度、彼にキリスト教徒であることが政治家においてどのような意味をもっているのかについて、ある機会に尋ねたことがある。私が一番感銘を受けたのは、その言っている内容ではなく、事前に簡単に調べていた中にでてきた言い回しや内容をそのまま繰り返したことだった。人は同一のテーマについて、多少のアレンジを入れたりするものだが、言葉を狩られて何を言われるのかわかないし、内容よりも行動と振る舞いが人物の評価を決定づけてしまう政治の世界を生きた人間の職人芸のようなものをの見せられた。しかし、そうした振る舞いはあまり評論家的ではない。評論家も特定の見解を持っているが、話し方を盛ったり、省略したり、新しい例をもってきたりしてバリエーションをだすものだ。もしかすると、彼の政治家的な振る舞いは牧師が似たような話をいつでも繰り返せる説法に由来しているのかもしれない。生来の生真面目さと勉強好きな側面は、牧師であればさぞかし立派になっただろうが、田中角栄時代を学生として過ごし、父も政治家だった彼は、政治家の道を歩んだ。これが、評論家であり政治家である石破茂という人を作ったのだとするとなかなかに興味深い。
そういったこともあり、彼がこの時代に宰相をなすにはあまりにも相応しくない。もしも、16世紀ボルドーに生まれていれば、父の跡を継いだシャトーに住まい、アキテーヌで『エセー』を書き続けたモンテーニュになっていたのかもしれない。鳥取は日本酒がうまいが、ボルドーはワインがうまい。
彼自身も若手として年長世代に思うところがたくさんあったはずだ。しばらく前から、自分がその老境に達したが、鷙鳥不群を掲げるように、派閥を作ることに熱情はない。首相も自民党の党内政治の空白期間になっていたに過ぎないといえる。国民から人気もない。残酷なことだが、彼がどれほど真面目な人だろうと、政治家とは印象の商売である。例えば、同じキリスト教徒としてもバラク・オバマが無宗教者から福音派まで味方にしてしまう魅力に比べれば、ほとんど何もないといってよい。彼は話し上手だが、人を魅力する語り手ではないし、文章を書くのがとても得意だ。またさしく評論家であり、今もさっそく自民党に対しての評論家として活動を再開している。
とはいえ、私が実際に会ったことのある政治家たちの中で、彼は確かに尊敬に値する人物だと思った。叶うならば、食べ、飲んで(ἐσθίων καὶ πίνων ルカ 7:34)、いつか、彼が父祖たちとともに眠るであろう時に(ὅταν κοιμηθήσεται μετὰ τῶν πατέρων αὐτοῦ 申命記31章16節)、その墓標を訪ねて、私はそっと梨の花を供えたい。