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米原将磨

ポストヒューマニズムどころか、ヒューマニズムも近代もはいまだ終わっていないという言葉の危険さについて

ポストヒューマニズムに対して、40-50代の人文系の研究者は、ヒューマニズムが、それどころかモダンが始まってすらいない、ということをまことしやかに語る。私はこれは危険だと思う。

こうした倫理を要請する語りは、常に自分とその仲間(だと思っている)が不愉快だと思っている者たちに「責任」を押しつけるために「近代的な主体、つまり責任を有する主体すらいまだ厳密には来ていないのだ」というロジックを持ち出すことが前提になっているきらいがある。

たとえば、ケアとセットで再度「中動態」のブームがあったものの、結局は「この曖昧な責任の所在の中で何を責任とするか定義するか」という責任をめぐる問いの新たなゲームの切り口に過ぎなかったわけだ。

そしてそれは、古くからある宗教的なテーマがなぜ今でも人々の間で常に問題になることの繰り返しでもある。私たちはいつも誰かのせいにしたいのだ。そして、誰かのせいにしてもままならないこの世界に対して死ぬほどに苦しむのだ。キリスト教にも仏教にも罪という概念があり、それは同じことについてのバリエーションと言える。つまるところ、誰かのせいにしたい欲望についての切り口の差に過ぎない。

自分の徹底的な醜さを見つめたときに大西巨人が言った意味での「俗情との結託」、つまり、「誰かのせいにしたい」の一般化、「あいつらがすべてをだめにしている」の問題に初めて向き合うことができる。

気をつけれなければいけない。誰かのせいにしたいほど、全部クソなのは当たり前だ。忘れてはいけない、自分がまずもってクソ喰らえなのだ。