会について
活動
「光の防人読書会」は、日本の保守思想の源流をめぐる著作を、参加者の知見を提供しあいながら繙く読書会です。研究会より参加しやすい会にするため、(1)レジュメは作成しない(2)課題図書も参考資料もオンラインで参照できるものに限る、という2つの規則を設けています。
取り上げる著作は、当会が「決別」と名付けている主題から適宜選出されます。決別一覧は当ページ下部をご覧ください。
活動記録はこちらになります。
会の由来
主幹が早稲田大学現代文学会に所属していた数年前、右翼活動家を含めた保守思想の読書会を通じて、日本における保守思想を体系的に学ぼうという試みがありました。しかし、当時は全員がそもそもリベラルだったこともあり、あまり士気が高まりませんでした。平成以降の保守右翼論壇の本を適当に読むといった計画の杜撰さや、江戸時代から明治時代にかけての保守思想を初学者でも理解できて信頼のできる人文書が少なかった、といった事情から立ち消えになってしまいました。本会はその立ち消えになった試みを再度行おうとしたものです。
ただし、当時に比べて参加者の専門分野も定まっているため、できるだけ参加の障壁を下げることにいたしました。活動内容でも示したように、できるだけオンラインで完結した歓談のような雰囲気で進行したいと考えています。
当会の名称について
当会の名称は、近年耳目を集めている暗黒啓蒙といった反動的な言説を意識して、光という言葉を入れようとしたのですが、光は宗教団体が使用している場合が多く、宗教的なニュアンスを避けるために適当な言葉を探していたところ、「防人」に決まりました。『万葉集』では「佐吉母利」と表記されていることの多いあの防人です。「韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして」といった著名な歌があります。
防人は国民国家論といった枠組みで論じうる主題の1つと言えます。防人の語の初出は646年(孝徳2年)改新の詔の「初めて京師を修め、畿内国の司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、鈴契を造り、山河を定めよ」であり、白村江での敗戦後、朝廷がとった対唐政策でした。つまり、外交的緊張の高まりに伴う徴兵制だったと言えます。筑紫に全国から派遣された3000人の防人のうち、年ごとに1000人ずつ交代していました。防人は東国・西国から徴発されていましたが、時代を経ると東国の防人の労働力が陸奥に展開されたため、東国出身の防人の数は減少していきました。737年(天平9年)頃、そうした事情もあり、もとより防人廃止派だった兵部小輔大伴家持は、上官だった橘奈良麻呂や奈良麻呂の父諸兄らに防人の悲惨な心情を描いた歌を示す目的で防人歌を集めたという説があります(近藤信義「東国万葉歌と律令官道 防人歌を中心に」『立正大学人文科学研究所年報 別冊』、16巻、2006年、19-38頁)。ほぼ90年に渡って防人制度は維持されてきましたが、天平時代に入り、唐の侵攻の現実的な可能性がなくなってきたなかで、その有効性が疑われる政策に対する反発があったのでしょう。国防の勇しさではなく、個人の痛ましさに焦点を当てているのは、大伴の防人への共感もあったことでしょうが、それと同時に政治的な意図もあったのでしょう。『万葉集』はこうした対唐政策の転換点で生まれた歌集であり、文学と政治の交わる場所なのです。そして、2019年、そんな『万葉集』から元号が採られることになったのでした。
金文京によれば、そもそも元号とは「帝王が世界と宇宙全体を支配するという文脈から選ばれるもの」(金文京「中国文学から見た『万葉集』」『現代思想』47巻11号、青土社、103頁)だそうです。対して令和は、大伴旅人が記した「初春令月、気淑風和」の文句に由来するように、現代では手紙などの(手紙が現代的かはさておき)日常的な文句に等しいそうです。その一方で、品田悦一などが指摘しているように、大伴旅人が長屋王をめぐる都の政変を意識して、張衡の「帰田賦」や王羲之の「蘭亭集序」の内容を織り込んでいると考えられます。そもそも歌人の多くが朝廷の内部の人であった以上、まさしく『万葉集』は政治的な書物だったと言えるでしょう。
当会の前身であった最初の試みはまだ平成でした。令和という元号に変わり、日本の保守思想にもう一度目を向けるべきときが来たように思われます。光の防人は時代に相対する役割を担うでしょう。そして、しばらくして防人たちは自らの思想に立ち帰ることになるのでしょう。
海原に霞たなびき鶴が音の悲しき宵は国辺し思ほゆ
決別一覧
- 縄文
- 華夷秩序
- 山鹿素行
- 中今
- 古代憧憬論
- 山鹿素行・熊沢蕃山・荷田春満
- 御用学者
- 新井白石
- アジア主義
- 勤皇主義
- 頼山陽『日本外史』
- 徴兵制
- 立身出世
- 中江藤樹『翁問答』
文責 山上霽 2022年8月25日